2-5
その日、僕たちは珍しく川を逸れ、林の中を歩いていた。川沿いに道がなく、しかたがなかったのだ。伽耶子はひどく不安そうだったが、黙って僕の少し後ろを歩いていた。
やがて林を抜けた僕たちが見たのは草深い湿原にぽっかりと浮かんだような湖と、それに映る青空と円錐形の山、そして湖の向こうにあるその山そのものだった。
「うわあ……」
思わず声が出た。水の面はまさに鏡のように澄み、ただ平らかで、そこに逆さに映った空と山は夢のように見えた。この世のものではない──今、僕たちがいるこの世界は元々「この世」ではないのだからこの表現もおかしいのだけど──湖の面に映っていたのは儚く美しく触れることの叶わない、まさに常世の国だった。
またその向こうにある山がひどく懐かしい姿をしていたことが、僕の胸を揺さぶった。
古神の周辺に生まれ育った者なら誰でも知っている、一帯のどこからでも同じ姿を見ることができるきれいな円錐形……
「御座山だ……!」
湖には向こう岸へと誘うように、板を互い違いに渡しただけの簡単な橋──八橋が組まれていた。僕は思わず繋いでいた手を放し、八橋へと走った。
「竣介くん……!」
伽耶子が叫んだ。ひどく切羽詰まったような声。伽耶子が大きな声を出すのも初めて聞いた。僕は八橋を少し渡ったところで振り向いた。
「どこ行くの……? 川から遠ざかっちゃうよ……!」
「伽耶子も来いよ! 早く……!」
僕も叫んだ。伽耶子はだが凍りついたようにその場を動こうとしなかった。僕は焦れったくなり、伽耶子の許へと駆け戻った。
「どうしたのさ……? わかるだろ、御座山だよ。あそこまで行けば帰れるんだ……!」
そう言ってみたが、伽耶子は後ずさるようにしながら答えた。
「だって……あそこまでは遠すぎるよ。近くに見えたって、山はすごく遠いんだよ……辿り着けるかどうかもわかんないのに…… 川に戻れなくなっちゃう……」
ぐずぐずと駄々をこねるような伽耶子の様子に、僕の頭に血が上った。
「川になんて、もう戻らなくたっていいだろ? 山に行けば帰れるんだから!」
思わず語気が荒くなった。僕は伽耶子の手を掴むと、湖へと彼女を引っ張った。
「やだ……!」
八橋を少し渡ったところで、伽耶子が僕の手を振りほどこうとした。そんな強い拒絶を見せたのも初めてのことだった。
「危ない……!」
細い板きれ一枚、欄干も何もない「橋」の上で、僕たちは図らずも揉みあう形になった。視線が水の面に落ちたその時、僕は思わず伽耶子の手を放してしまった。
伽耶子はそのまま僕から逃れ、元いた水縁へと走り戻った。
「…………」
嫌な汗がどっと噴き出し、額を濡らしているというのに、僕の指先はひどく冷たかった。心臓が痛い。息が出来ない。
「か……、伽耶子……」
ようやく喘ぐような声が出た。
「怖くないから…… オレがいるから…… だから、一緒に行こう……」
伽耶子は小さな子供がするようにイヤイヤと頭を振ると、本当に子供のようにその場に座り込んでしまった。僕はしばらく橋の上に立ち尽くしていたけれど、伽耶子と別れひとりで湖を越える気にはどうしてもなれなかった。
「…………」
どれだけそうしていただろう。溜息をつき、ひどい疲労感を覚えながら、僕は伽耶子の許へと再び戻った。
「もういいよ。わかったから…… 行こう。川に戻る道を探そう」
僕は座り込んだまま泣いている伽耶子の手を取り、彼女を立たせた。そしてその手を引き、林へと戻った。常世の国を映した湖とその向こうの山が、無言で僕たちを見送った。