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 僕は思わず顔を上げた。

 まさか……でも、やっぱり……やっぱり──

「木村……?」

 女の子が微笑んだ。その笑みは先刻見た、山吹の花のように清楚で美しかった。

「やっぱり竣介くんなんだ──どうしたの? なんでこんなところに来たの?」

 その女の子──伽耶子が僕を、苗字ではなく名前で呼ぶのも以前の通りだ。僕の苗字は久下くげという、この町ではありふれたものだった。当時クラスにも久下姓の男子が僕を含めて三人もいて、区別のためにもっぱら名前やあだ名で呼ばれていたのだ。

「ああ、うん」

 頬が熱い。僕は赤らんだ頬を見られまいと、慌てて背後へと身を捩った。

「山吹を見てたら滑っちゃってさ──」

 語尾が頼りなく小さくなった。目線の先にあったのは林道だ。山でよく見る川沿いの、一段高くなったところに作られた林道。下から見ても、古い道だとわかる。だが僕は、御座山の登山道の近くにこんな道があるなんて知らなかった。先刻、山吹の前に立った時、なぜ真下のこの道に気づかなかったのだろう。川が流れていると知ったのも初めてだった。

「…………」

 ちりちりと不安が背骨を這い登り、心臓を掴んだ。動悸が速くなり、息が苦しくなる。

 何か、おかしくないか……? 林道のことは気づかなかったとして──この川はどこへ──御座山の麓に、川なんてあっただろうか……? それに──

 唐突に僕は気づいた。何十メートルも転げ落ちた訳じゃない。高さは多分、せいぜいあの林道からこの河原までくらいのものだ。それなのにあの山吹の黄色は、もうどこにも見えなかった。

「竣介くん……? ねえ……?」

 伽耶子の不安げな声に、僕は我に返った。

「ああ……」

と、出て来たのは意味のない生返事だ。

「いや、……ごめん。ちょっと、頭が……」

 僕はしゃがみ込み額を手で覆った。伽耶子の心配そうな声に何か答えなければと思ったが、とてもそんな余裕がなかった。

「ちょっと考えさせて……ごめん……」

 僕がそう言うと、伽耶子もそれきり口をつぐんだ。だが傍らに気配がある。きっと僕が口を開くのを、辛抱強く待ってくれているのだろう。僕は懸命に納得のいく答えを探した。だがいくら考えてみても、不安がますます黒々と胸を塗りつぶしていくだけだった。

 ここ、どこなんだ……?

 伽耶子にそう訊ねたかったが、出来なかった。何か恐ろしい答えが返ってきそうで……

「竣介くん……」

 伽耶子がとうとう遠慮がちに口を開いた。

「あの……、山、そろそろ降りた方が良くないかな……」

「ああ……うん、そうだな……」

 僕は顔を上げた。気づけばもう日も傾き始めている。日が翳り始めた山道は僕も歩きたくなかった。

「どっからか上の道に上がれるのかな」

「あそこ」

と、伽耶子が指を指した。

「あの辺に上に上がる道があるよ」

 僕たちは歩き出した。それはちゃんとした「道」ではなく、単にそこを通る人が踏み固めただけのものだったが、それで僕たちは上の林道に出ることが出来た。

 その林道をふたりで並んで下った。黙っているのも気詰まりで、僕はさり気なさを装って話しかけた。

「でも良かった…… 帰ってたんだ。木村、四年の時に一回いなくなっちゃっただろ。引っ越した後もしばらくは気になってたんだけど、……帰ってきたって、聞かなかったから……」

 伽耶子はしばらく黙っていた。それから僕の言葉には答えずに言った。

「私もびっくりした…… 竣介くんがここにいるとは思わなかったから……」

「今、春休みだろ? お祖母ちゃんとこにいるんだ。……明日はもう、帰らなきゃなんだけど」

「そっか…… 遊びに来たの? こっちにまた帰ってきた訳じゃないんだ……」

「……うんまあ……、そういうとこ……」

 なんだか奥歯に物が挟まったような口ぶりになってしまった。伽耶子はそれ以上何も聞いてこず、僕は内心ほっとした。

 僕が春休みの間中祖母の家にいた本当の理由は、両親の不仲にあった。両親は僕を遠ざけ、存分に話し合ったはずだ。何をって、離婚についてだ。掴み合いのケンカのひとつもしたかも知れない。明日わざわざ母が来るのは、祖母に話し合いの結果を報告するためでもあった。

 再び沈黙がふたりを包んだ。しばらくして、今度は伽耶子が話しかけてきた。

「でも竣介くん、よく私のことわかったね。名前も……もう忘れてるかと思った」

「木村だってオレのことすぐわかったじゃん……」

 伽耶子はちょっと目を反らした。心なしか頬が染まって見える。その顔がたまらなくかわいらしくて、僕の頬も熱くなった。

「下の名前も覚えてるよ。……カヤコ、だろ?」

「……私だって、竣介くんの苗字も覚えてるよ」

「そりゃオレの苗字なんて、覚えてなくたってこの辺で一番多い苗字言えば当たるって」

 あはは、とふたりで笑った。何年かぶりで会ったのに、ずっと一緒だったような気がした。

 僕が伽耶子の名前を覚えていたのは彼女が好きだったから、ということもあるけれど、その名前の由来が印象的だったからだ。

 同じクラスだった四年の時、「自分の名前の由来を調べる」という、よくある宿題が出た。その発表に伽耶子が当てられたのだ。当時の担任は若い女の先生だった。なぜおとなしい伽耶子を指名したのか──クラスに溶け込ませようとか、もっとはきはきさせようとか、そんなことを考えていたのかも知れないが──僕は少し腹立たしく思ったりしたものだ。

 案の定伽耶子は答えられず、教室で白々とした視線を浴びた。

「自分の名前の由来とかさ、知らなくたって全然困らないよな」

 放課後、掃除当番でゴミを捨てにきた伽耶子に、僕は焼却炉の前で話しかけた。

 伽耶子はちらっと僕を見、ほんの少しの逡巡の後に小さな声で言った。

「誰にも内緒にしてくれる……?」

「……? うん」

 僕がそう答えると、伽耶子は僕を見ず

「カヤグムって楽器があるの。私の名前はそれから取ったんだよ」と続けた。

 それからゴミ箱の底をぱんぱん!と叩き、中のものを全て焼却炉に捨てると教室へと戻って行った。僕はその足で図書室に向かった。分厚い百科事典を引き、それが遠く古い国の琴の名であることを知った。

 伽耶子──彼女自身が持つ儚げな花のような雰囲気と相まって、その名前は僕の心に深く刻み込まれた。

 僕たちはうち解け、たわいない会話に笑いながら並んで山を下った。

 伽耶子が無事でこの町にいた。そして今ふたりで歩いている。

 僕は先刻の不安も忘れ、幸せな気持ちに包まれていた。




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