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3-5

「……みゃー!」

 自分でも驚くような大きな声が出た。みゃーというのは祖母が飼っている黒猫だ。雄のクセにやたらにかわいい声の持ち主で、ついた名前も「みゃー」だった。

 黒猫は人懐っこく僕の足元にじゃれついた。僕はそれを抱き上げた。懐かしく確かな重みと温みがそこにあった。黒猫はぴくりとヒゲを動かすと僕の腕からすとんと降りた。そしてもう一度ミャーと鳴くとついと離れ、僕を振り返った。

「…………」

 僕にはわかった。みゃーはついて来いと言っているのだ。だが僕は動けずにいた。また僕は伽耶子を裏切るのか……今僕は──伽耶子と行こうと考えたばかりなのに──


 ──行っていいよ──


 伽耶子の声がした気がした。

 僕は思わず振り返った。伽耶子は表情もなく、ただ無言でそこに立ち尽くしていた。

「伽耶子──」

 名前を呼んでも、答えが返る訳もない。伽耶子の姿が滲んだ。

「ごめん、伽耶子……」

 再び小さくみゃーの声がした。向き直ると、みゃーはもう随分と遠くへ行ってしまっていた。

「ごめんな……! ごめん……」

 涙が溢れた。僕は駆け出した。

 やはり僕は生きたい。今生の世へ戻りたい。身勝手でも冷淡でも情けなくても、僕は──

 僕は振り返らなかった。伽耶子はどんどん小さくなりながら、それでもいつまでも僕の心の中に佇んでいた。


 小さなみゃーは時折僕を確かめるように振り返りながら、少し前を歩いていく。ぼくはただぴんと尾を立てたみゃーの後ろ姿だけを見つめ、見失わないよう必死でついていく。

 行く手は徐々に暗くなり、やがてすっかり闇に閉ざされて、みゃーの姿もほとんど見えなくなった。

「みゃー、みゃーどこだ?」

 ひとりではこの闇の中は歩けない。泣きそうになりながら名を呼んだ。振り返ることはしなかった。振り返ってもそこにすでに道はないのはわかっていた。

 ふと傍らに気配を感じ、僕はそちらをおそるおそる盗み見た。

 そこにいたのは若い男──いや、若い男の姿はしているが、川辺の渡し場にいた老人と同じ、人ならざる何かだった。それは黒っぽい服を着込み僕と並んで歩いていて、銀色に光る大きな瞳で前を見据えたまま、僕に片手を差し出した。

 ためらいがなかったわけではない。だけど僕には全てを押し包む漆黒の闇の中、ひとりで立っている気概はとうていなかった。僕は縋るようにその手を取った。

 それの掌は大きく厚く温かく、僕に安心をくれた。それの姿もすでに闇に溶け込もうとしていた。銀色の瞳はなおも光を放っていたが、それすら闇に呑み込まれるのも時間の問題だろう。長く伸びたそれの爪が食い込むのを気にもかけず、僕はその手を強く握った。手の中の温もりと痛みだけを恃みに、僕は漆黒の中をただ歩き続けた。



 その闇をいつ、どうやって通り過ぎたのか、僕は覚えていない。気がつくと僕は祖母の家の前にいた。

 目眩がしそうに明るい昼下がりだった。気温は高く、長袖のシャツの下はべったりと汗で濡れていた。

 雑草が茂り放題の手入れのなってない庭と、見慣れた古びた玄関。僕はとりあえずその引き戸を開けた。三和土たたきを上がった廊下の隅に、みゃーの茶碗が伏せて置いてある。その下には紙切れが挟んであり、僕はこれを広げて読んだ。


 立ちわかれ いなばの山の 峯におる 待つとしきかば 今帰りこむ


 どこからかみゃーが現れて、例のかわいい声で鳴きながら僕の足にじゃれつき、額を擦りつけてきた。

「竣介……!」

 みゃーの声に気づいたのか、廊下の奥の襖がひらいて顔を出したのは母だった。

「母さん……? なんで、ここにいるの……?」

「なんでって、あんたは……!」

 母は狭い廊下を転がるように駆け寄ってくると僕を抱きしめ、揺さぶった。母は泣いていた。

「あんたは、もう……! どれだけ心配したか……!」

「……え……と、……あの……」

 母の激しい反応に戸惑っていると、奥の座敷から、祖母も出て来た。今度はその足元にじゃれついたみゃーを抱き上げると

「お帰り、みゃー。 ご苦労だったね」と頭を撫で、僕にも

「お帰り、竣介。よう帰ってきた」と言った。

「……ただいま」

 そう口にすると、ああ、帰ってきたんだな、という実感が湧いた。

 僕は何処いずこか、遠いところを旅してきたのだ。そしてみゃーに連れられここに帰ってきた。

 僕は息を大きく吸い込んだ。

「ただいま、お祖母ちゃん、お母さん」

 もう一度、そう繰り返した。




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