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3-4

 背が高くなってきた草をかき分けながら進むと、唐突に僅かな空き地に出た。水辺に板を渡しただけの、あっけないほどに簡素な渡し場がそこにあった。

 空き地にはこれもごく質素な床几が置いてあり、白く薄い髪と髭を肩の辺りまで垂らした小さな老爺が座っていた。

「…………」

 老爺は穏やかな表情を僕に向けた。僕は気づいた。これは人じゃない──

 目鼻立ちも居ずまいも、人と全く変わらない。それでも何かが違うのだ。だがそれは、間違いなく僕がこの国で初めて出会った、「生きている者」だった。

「……こんにちわ……」

 僕はおずおずと声をかけた。

 老爺は僕に笑いかけた。僕は少し安心し、言葉を継いだ。

「船に乗せて欲しいんですけど……」

「船に乗って、どうするね」

「向こう岸に渡りたいんです」

 老爺の問いにそう答えると、老爺は「ふむ……」と言うように髭をしごいた。

「おまえが、かね?」

「いえ……」

 僕は言いよどんだ。後ろを振り返る。伽耶子はそこにいた。

「この子です。この子を向こう岸まで、乗せてやって貰えませんか」

 老爺は目を細め、僕から伽耶子へと、ゆっくりと視線を移した。

「おまえ達はこの川を渡るために、長い旅をしてきたのだね」

 訊ねるともなく、そう言った。

 やわらかな風が優しく頬を撫でていった。老爺の背で、川面がきらきらと光っていた。

「だがそれを、船に乗せることは出来ん」

「なぜですか」

 問うてはみたものの、僕は老爺の答えには驚かなかった。なぜかそんな気がしていたのだ。

 僕たちが見た船は白く美しく、乗っていた客も輝いて見えた。黒く腐った伽耶子は、相応しくない──

 でも僕は食い下がった。

「この子がこんなになってしまったのも、ここに長く居すぎたせいだ。この子は本当にもう長い間、川の向こうへ行く道を探していたんです。

 ようやくここまで辿りついたのに……それはあんまりだ……」

 ふむ……、と、老爺はまた髭をしごいた。

「おまえは腐った亡者の列を見たことがあるだろう」

「……はい」

 僕は答えた。老爺が何を言うつもりか、僕にはわからなかった。

「あれはこの世に未練を残した者どもだよ。そういったものは此岸しがんに捨てて行かなければ、船に乗ることは出来んのだ」

「でも、この子は船に乗りたがってます。それがこの子の望みなんです。他にはもう何もない。なのにどうして乗せて貰えないんですか?」

 老爺は再び目を細め、僕を見た。内心を見透かすような視線だったが、それは不快なものではなかった。

「おまえは自分にウソをついているね。おまえはそれの望みを知っているだろう。

 それの望みは、おまえと船に乗ることだ。だがおまえはそれを望んでいない。だからそれも船に乗ることは出来んのだよ」

「……ではこの子は、」

と、僕も続けた。自分のことも言われたのだ。僕は必死だった。

「永遠に船には乗れないのですか。そして僕も、この子と一緒にこの国を旅し続けるしかないのですか」

「神ならぬ身なら終わりは必ず訪れる。必ず救われる。それがいつかは、わからんが」

 老爺は視線を緩めた。

「さあ、もう話は終わりだ。もう往きなさい」

 そう言うと老爺は川面に視線をやった。僕たちにはもう、完全に関心をなくしたようだった。

「お爺さん……! どうかお願いします……!」

 もう一度言ってみたけど、もう何の反応もなかった。

 僕と伽耶子は長い間そこに立ち尽くしていた。だが船は戻って来ず、僕たちもとうとうあきらめてその場を去った。渡し場は草に隠れ、すぐに見えなくなった。



 老爺は言った。往きなさい、と。でも、何処へ?

 これまでは渡し場を探すという目的があった。でもその目的は今はもう消えた。

 これからの長い旅を、何をたのみに、どこを目指せというのか……

 老爺の言った「終わり」に向かって? 終わりって何だ? 僕もまた、死んでしまうということか……?

 そこまで考えて、僕はなぜだかおかしくなった。それから涙が出た。

 ここは死者の国。それならここにいる僕も、僕自身の気持ちはどうであれ、死人に決まってるじゃないか……

 僕たちは目的を見失い、それでも川辺を歩き続けていた。もし僕の他に生きている者がいて今の僕たちを見たとしたら、僕たちはきっと、あの亡者達のようにただ風に吹かれて歩いているように見えたことだろう。

 川幅が随分広くなってきた。もう向こう岸も霞んで見えない。僕はふと、このまま歩き続ければやがて海にたどり着くのだろうか、と思った。

 いつか御座みくら山の頂上から見た、彼方に白く光る海を思い浮かべていた。不思議に心が温かくなった。こんな感覚も久しぶりだ。

「もし海にたどり着いたら──」

と、僕は心に浮かんだことを、独り言のように口に出した。

「伽耶子のお祖母ちゃんが、海の向こうから迎えに来てくれるかも知れないな……」

 伽耶子はもちろん答えない。だが僕はこの考えが気に入った。

 海を目指そう、と思った。どうせ時間は永遠ともいえるだけあるのだ。

 僕たちはいつか海にたどり着けるだろう。

 もし伽耶子のお祖母ちゃんが迎えに来てくれなくても──

 その時は僕が伽耶子を連れ、海に漕ぎ出してもいい──

 伽耶子の望むところまで──伽耶子と一緒に────


 その時。

 何か、ひどく懐かしい声を聞いた気がした。

 僕は我に返り、周囲を見渡した。


 ミャー


 今度ははっきりと聞こえた。猫だ。甲高く、仔猫が親猫に甘える時のような声。僕はその声に聞き覚えがあった。

 やがて黒い小さなケモノが草むらから姿を現した。

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