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僕たちはどのくらい歩き続けただろう。目に映る風景も随分変わった。僕が最初、この世界へ迷い込んだ時は、風景は古びていてもはっきりとしていた。僕たちは道の端の民家にも潜り込んだし、布団で寝もした。それらにはみんな確かな感触があった。
空には太陽があり、夜が訪れて月も見えた。僕は星座には詳しくないけど星もあった。
だけど今は──
見上げても太陽は見えない。空は変わらず青かったが、磨りガラスを透して見ているように、あるいは青の上に白い絵の具を溶いて流したように霞んでいた。
地上に目を戻せば、そこも同じようなものだった。描かれた風景の上から薄いローアンバーを重ねて塗り込めたような、画集で見た、夕暮れの風景のような……そこにあるはずなのに静かで遙かに遠い世界──
ただ川だけが、くっきりと確かに僕たちの前に横たわっていた。水面は静かで、ところどころが白く光って見えた。
夜ももう、この世界にはやって来ない。僕たちが歩き疲れる頃、世界は翳る。柔らかな草の上で眠り、目覚めればまた明るくなった川野辺を歩き出す。僕自身もまた、緩やかにこの世界の一部になろうとしているのだと思った。
この国は黄昏の国──何もかもが穏やかにまどろんでいるのだ。ここで怒ったり泣いたりしているのはきっと僕だけだ。
僕は道の端に白い花を見つけた。瑞々しい緑の葉や花の形、それが風に揺れる涼しげな様子が山吹にとてもよく似ていた。
僕はその花を短くいく枝も折り取った。
「伽耶子」
僕は伽耶子に話しかけた。やっぱり正視は出来なかったけれど、この頃僕は、また伽耶子に話しかけるようになっていた。どうせふたりで旅を続けるなら、伽耶子を物のように扱うのではなく、人のように接する方がラクだと気づいたのだ。
この世界の空気が僕にそう思わせたのかも知れない。僕自身が伽耶子と同じ存在になりつつあるからなのかも知れない。とにかく僕はそう思ったのだった。
伽耶子はもう、ひどい有り様だった。美しく清楚だった頃の面影はもうどこを探してもない。僕が恐れ、嘆き悲しんで逃げ出した時より、もっとおぞましい姿になり果てていた。
「伽耶子の名前の由来は聞いたけど、オレの名前のことは話してなかったよな」
白いワンピースもカーディガンも、伽耶子の融けた肉でどろどろに汚れていた。僕は手にした白い花を、伽耶子の乱れて固まった髪に挿した。
「オレの名前はさ、画家の名前なんだ。母さんは色々尤もらしく言ってたけど、そんなんじゃなく、単純に親父が好きだった画家の名前をつけたの。オレの親父、元々絵描きになりたかったんだよ」
話しかけながら、何本も何本も……それからカーディガンのボタン穴や、ワンピースの襟元にも挿した。
「伽耶子のとこもあんまりうまくいってなかったっぽいけど……うちもあんまりよくなかったよ。親父、全然甲斐性なかったからね。お祖母ちゃんともうまくいってなくて、それもあって引っ越したんだ……」
子供の頃に女の子から教わったやり方を懸命に思い出しながら、僕は花輪を編んで腕輪も作った。
「…………」
全身を白い花で飾り立てた、腐り果てた死体──泣けばいいのか笑えばいいのか、僕にはわからなかった。
一迅の風に白い花びらがはらはらと舞い散った。僕は少し笑った。
今僕が伽耶子に捧げた花は、早晩萎れ、むなしく散ってしまうのだろう。
「大丈夫。また花が咲いていたら、摘んでやるよ」
僕は伽耶子にそう言った。僕たちはまた、歩き出した。
また幾ばくかの時間が過ぎた頃──
僕たちは船を見た。
彼方に白く光る船じゃない。それは流れに棹さし、ゆっくりと向こう岸へと漕ぎ出していた。船頭も、客の姿もくっきりと見える。川に飛び込めば泳ぎ着けるほどに近かった。
渡し場が近い……!
僕はそう思った。眠っていたような体中の感覚がまさに目覚めたように、まざまざと隅々まで漲ってきた。
「伽耶子、早く……!」
僕は我慢できずに少し先まで駆けては振り返り、伽耶子をせき立てた。伽耶子の覚束ない足取りがひどく焦れったかった。