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中学二年の春休み、僕は祖母の家にいた。
三学期の終業式を終えると着替えもそこそこに、僕はひとりでここに来た。
「ごめんね竣介、お母さん、会社休めないから……」
朝、母は申し訳なさそうにそう言った。
「いいよ、別に。平気だから」
そっけなく僕は答えた。実際、母親がいなければ何も出来ない歳でもなかった。
僕の身長は百六十センチ、体は少し細めだけれど運動部に所属していないわりにはしっかりしている方だと思う。母と並べばすでに僕の方が背も高く、もう子供には見えないはずだ。
母には自分の母親である祖母との間に、今ひとつわだかまりがあるのだ。会社だけでなく、それも一緒に来ない理由のひとつだったと思う。
特急と私鉄を乗り継いで三時間ほど行くと、祖母が住む町に着く。駅を中心に古神という古い町があり、その周辺には田圃が拡がっている。多分典型的な日本の一市町村だ。祖母はこの町の外れで独りで暮らしていた。
街並みは低く空は高く、自宅近くのような便利さはないけれどのんびりできる。もともと僕は都会より田舎の方が好きだった。この町には小学校の四年生までいたから馴染みもあるし知り合いもいて、特に生活に不便や疎外感もない。むしろ自宅より居心地が良かったくらいだ。僕はいわゆる鍵っ子で、この町にいた頃は、放課後を自宅よりも祖母の家で過ごすことの方が多かった。祖母の家は平屋のボロ屋だったが僕は好きだったし、祖母のことも好きだった。
その日は朝から晴れていた。明後日は始業式だ。明日には母が僕を迎えに来る。それを思うと、僕の心は沈んだ。
祖母は出かけており、僕も気分転換に外に出た。
祖母の家からはとある里山が見える。僕はふと、その山に登ってみよう、と思った。
辺りでは「御座山」と呼ばれているその山には、何度か祖母と登ったことがある。僕がこの町に住んでいた頃、祖母の家の風呂は五右衛門風呂だった。それで何度か、焚き付けの小枝を拾うのにこの山へついて行ったのだ。
子供だったからどれだけものの役にたったかはわからない。僕にとっては遊びだった。御座山の頂上は木を払ってあり見晴らしが良く、彼方には海が白く光っていた。
山頂の中心には小さな祠があった。その傍らには一等三角点の古い石柱もあり、僕はここで遠く拡がる田圃や街並み、そして海と空を見ながら、祖母の握ったお握りを食べるのが好きだった。
しまった、お握りを作ってくれば良かった……
僕は少しばかり後悔した。本当に手ぶらで出て来てしまったから、自販機の缶コーヒーすら買えなかった。だがもともと今回のハイキングはただの思いつきだ。山頂でのんびり一休みしても、祖母の家に戻るのに一時間もかからない。
その頃には祖母ももう帰っているだろう。祖母にお握りを握って貰おう。山の話をしながら、祖母とふたりで食べるのも悪くない。明日はもう、帰らなくちゃいけないんだから──
「…………」
嫌なことを思い出してしまった。せっかく楽しくなっていたのに。
僕は振り切るように腕を大きく振り、明るい往来をずんずんと歩いた。
町中の明るさに比べ、登山道はひんやりと薄暗かった。
この頃は登る人も少ないのだろう、記憶に残るそれより、随分荒れている気がした。雑木が生い茂り、陽の光を遮っている。それでも歩いていると、じんわりと汗が出て来た。僕は着ていた薄手のジャケットを脱ぎ腰に縛りつけると長袖のTシャツの袖をまくり上げ、それからジーンズの尻ポケットを探った。
……良かった。入ってた。
しわくちゃになったハンカチを取り出し、僕は額の汗を拭った。
ふと目の端に明るいものを捉え、僕はその方向を見た。
黄色い花。たくさんの黄色い小さな花が涼しげに揺れている。薄暗い雑木林の中で、そこだけが明るく光る波のように見えた。
僕はまくった袖を下ろすと登山道を外れ、薮を漕ぎながらその花へと近づいた。
「…………」
それぞれの薄い花びらが木漏れ日を集め、透き通るように輝いている。僕はその花を知っていた。
山吹だ。一重の山吹。
子供の頃、祖母に教わったのだ。昔の子供はこの木の芯を抜いて、鉄砲玉にして遊んだという話だった。
……地味な遊びだな。それの何が面白いんだろう……
僕は多分当時と同じことをまた思った。それよりも花の美しさに心がいった。それは当時とは違ったことだ。子供の頃には山吹の花の美しさなんてわからなかった。
控えめだけど品の良い、艶やかな花。僕はふと、四年生の時に同じクラスだった女の子を思い出した。
たいそう綺麗な子だった。名前は木村伽耶子といった。切れ長の瞳に小さな口、艶やかな前髪を眉の下辺りで切りそろえたおかっぱがとてもよく似合っていた。丁度肩にかかるくらいの長さの髪が、伽耶子のちょっとした仕草や動きに合わせてさらさらと揺れるのを、僕はいつもこっそり見ていた。
そうだ。僕は伽耶子が好きだった。
伽耶子はおとなしい、無口な女の子だった。クラスからは浮いていたと思う。伽耶子が友達と楽しそうにしているのを、僕は見たことがなかった。僕もまた友達のいない子供だったから、伽耶子のことが余計に気になったのかも知れない。僕達はぽつぽつと言葉を交わすこともあった。
伽耶子が突然いなくなったのは、僕の家が引っ越す直前だ。
学校から一旦帰り、その後出かけてそのまま戻らなかった。田舎町は大騒ぎになり、警察はもとより、おとな達で捜索隊なども作ったはずだ。それでも伽耶子は帰らなかった。
僕は後ろ髪を引かれる思いでこの町を後にした。その後しばらくの間、ほとんど毎日のように祖母に電話をしては伽耶子が見つかったか聞いていたが、答えは常に否だった。電話の回数も三日に一度になりひと月に一度になり……やがて僕は伽耶子の思い出を深く胸の奥に沈めた。伽耶子のことはもう忘れ、祖母に電話をすることもなくなった。盆や正月には祖母の家を訪れたが、その時も伽耶子は話題にはならなかった。
なぜ今、伽耶子を思い出したのだろう。山吹の花が誘うように風に揺れていた。
山吹の木の根本にはちょっとした空間があり、僕はそこにしゃがみ込んだ。感傷が鼻の奥を突き上げてきて、僕は涙ぐんでいた。
ほのかに甘い匂いがする。多分、この花のものだろう。
僕はそのまま花を見上げた。目の上にある緑と黄色。それは陽の光を透かして瑞々しく、また涙ににじんで夢のように美しかった。僕はふとこの花に染まりたくなり、身を預けるように一面の枝垂れた花木に凭れかかった。
その時。
「うわあ……っ」
登山道側からはわからなかったが、向こう側はかなりきつい傾斜になっていた。山吹は僕を支えてくれず、僕は立木に引っかかりながらも、数メートルも転がり落ちたと思う。急に視界が開けた。
「……っつう……」
落ちたのは河原だった。僕は呻きながら体を丸め、しばらく蹲っていた。
服は泥だらけだったが、打ち身と擦り傷の他にたいした怪我はなかった。
ようやく起きあがり顔を上げると、目の前に女の子の姿があった。
「…………」
「…………」
僕たちは茫然と見つめあった。
同い年くらいだろうか、小柄で色白の、ほっそりした綺麗な女の子だった。春らしい白っぽいワンピースに、生成のニットのカーディガンを羽織っている。胸の辺りでさらさらと揺れる素直な髪、長い睫。漆黒の切れ長の瞳が吸い込まれそうに美しかった。
「だ……大丈夫……?」
小さな、形の良いピンクの唇が動いた。
「ああ、……うん」
もごもごと答えると、僕は思わず俯いた。先の醜態を見られたかと思うと顔から火が出た。
「もしかして……竣介くん……?」