時皿屋敷
承応二年(西暦一六五三年)正月二日。江戸は番町(今の東京都千代田区のあたり)にある火付盗賊改方、青山播磨守主膳の屋敷においてささやかな事件が発生した。当事者にとっては決してささやかではないが、端から見る限りにおいては、ささやか過ぎる事件である。
事の起こりは昨年、この播磨守の屋敷にお菊という十六の娘が奉公に来たことにはじまる。お菊はその前の年に流行病で立て続けに両親を亡くし、身寄りを無くしたばかりであった。そして、親戚縁者の伝手をたよりに播磨守の屋敷へ奉公に出ることになった。
お菊は器量もよく素直で働き者であったために、
「よい娘が奉公に来てくれた」
と、すぐに播磨守とその妻に可愛がられるようになった。
お菊が働きはじめたばかりのころ、女中頭から念を押されたのが十枚一対の皿のことであった。
「この十枚のお皿は、旦那さまと奥さまがそれはそれは大切にしている皿だから決して粗末に扱うことのないように。
もし、一枚でも割るようなことがあったら、それ相応の罰は覚悟しなくてはいけないよ」
お菊は、「あい、わかりました」と返事をして、言いつけ通りに大切に取り扱っていた。
そして、翌年の正月。播磨守の屋敷では年始参りに来る客人に家中の食器を総動員して料理を振る舞っていた。もちろん、件の十枚組の皿も。
客の相手も一段落し、酒の回った播磨守の耳に皿の割れる音と女中たちの悲鳴が聞こえた。
酔ってはいてもそこは武士。しっかりとした足取りで普段は立ち入らないお勝手に入ると、信じられない光景が目に入った。
播磨守が大事にしている十枚組の皿の一枚が真っ二つに割れているではないか!
「誰じゃ?誰がこの皿を割った!?」
播磨守の血相に、おののく女中たち。しばらく経ってから
「……おら……です」
と、お菊が名乗り出た。
「きさまか!」
播磨守はお菊の腕をつかむと引きずるように勝手から連れだし、、離れの古い蔵に閉じ込めた。
「夜が明けたら手討ちにしてくれる。ここでおとなしくしておれ!」
播磨守の妻も腹を立て、
「お菊の手の中指を切ってしまいましょう」
などと言い出した。
播磨守は
「それでは手ぬるい。やはり、手討ちにせねばならぬ!」
そう言い、布団に潜り込んだ。
しかし、そのどれもが叶うことはなかった。
翌朝、家来の一人が播磨守から蔵に閉じ込めた、お菊を連れてくるように命じられた。家来が主人から預かった鍵で蔵を開けると中はもぬけの空であった。普段使われていない古い土蔵だったため、壁の隙間があちらこちらに点在していた。中には小柄な女子なら抜けられそうな穴も見つかった。
「おのれ、小癪な。お菊を探し出せ!」
怒り心頭の播磨守はそう家来たちに命じた。程なく、そのうちの一人が蔵の近くにある、そこも使われていない空井戸のそばに割れた皿を発見した。井戸の中をさらってみると、お菊の遺骸が見つかった。
どうやら、蔵から逃げだせたのはいいが、屋敷から出ることは叶わず思いあまって空井戸に身を投じたものと見られた。
承応二年正月二日に播磨守の屋敷で起こった事件は、こうして幕を閉じた。粗相をした女中を手討ちにしようとして叶わなかった、些細な事件になるはずであった。
しばらくすると、町のあちらこちらで奇妙な噂が流れるようになった。曰く、
「青山播磨守様のお屋敷から夜な夜な女のすすり泣く声が聞こえてくる」
「女の声は泣きながら、皿の数を数えているようだ」
「皿を九枚を数えると『一枚足りない』と叫んだ」
そして、その声を聞いたものは、やがて悲惨な最期を遂げる……と言われている。
上司から
「噂の真偽はどうなのか?」
と問われた播磨守は返答に窮した。
「そのような話は初耳でございます」
そう正直に答えはしたが、
「実際に噂が流れ、しかもその話をしたものが不慮の死を遂げているのは、紛れもない事実。早急に調べよ」
と、命じられた。
「つまらぬ噂話に過ぎぬでしょう」
その噂を夫から聞かされた播磨守の妻はそう断言した。
「わしもそう思うが、番町で囁かれている噂がご公儀の耳にまで届いているとなると捨ててはおけぬ。根も葉もない噂だという証拠を見せねばなるまい。
それに、その皿を数える声が聞こえるというのは例の空井戸のそばのようなのだ」
ため息交じりに話す夫に向かって
「それは、お菊のことを知った誰かが面白おかしく話しているだけではありませぬか」
妻はなだめるように諭す。
「しかし菊の件は誰にも話さぬよう厳しく命じておる。あの娘は身寄りがないために、疑う家族もおらぬ。誰がそのような噂を流すと言うのだ?」
「人の口に戸は立てられぬもの。命じられたからといって、いつまでも黙っていることなどできようはずもありませぬ。家来や女中の誰かが、うっかり口を滑らせたのでしょう」
妻の言葉に首肯すると
「わしもそれは考えておった。ならば、今回の件は家の者を使うわけにはいかぬ。誰が首謀者か知れぬゆえな」
ため息混じりにうなだれながら言った。
「では、どうなさるおつもりですか?」
妻が心配そうに訊ねると
「今晩から、わしが空井戸に張って声の正体を暴こうと思う」
播磨守はそう答えた。
「旦那さま、お一人では危のうございます」
「なに、わしも火付盗賊改役じゃ張込みも捕り物もまだ若い者には負けはせぬわ」
心配顔の妻を気遣うように、播磨守は明るい声をあげる。
「そなたにこうやって話すのは、今晩のわしはお役目で留守にすると家の者に伝えてほしいのじゃ。今も言うたが誰の仕業かわからぬからな」
笑顔を抑えると妻に向かって助力を乞うた。妻も
「かしこまりました。家の中のことはどうぞご安心くださいますよう」
そう言って夫を安心させた。
その日の夕刻、播磨守は家人に見送られて屋敷を出てすぐにあらかじめ開けておいた裏木戸から、また中に入った。
襷をかけ、鉢巻きを頭に巻く。そして、大刀を腰から鞘ごと抜いて、左手に持ったまま壁に寄りかかるように地面に腰掛けた。
使わなくなった空井戸のそばゆえに、手入れが行き届かず荒れ放題になっているが、おかげで隠れるところに不自由がない。草木の影に紛れて、播磨守は空井戸をジッと見つめる。
「いったい誰がこのようなことをしでかしたのか?
いや、まだ何かがあると決まった訳ではない。もし、一晩かけて何もないとわかれば次は、この噂を流したものを突き止めなければならぬ」
そのようなことを考えながら時は経ち、やがて子の刻(深夜〇時頃)を迎えた。
壁の向こう側から声が聞こえる。眠りかけていた播磨守は意識をその声に向ける。
「……なんじゃ、夜鳴きそばの屋台の声か。
しかし、このような武家屋敷が並ぶ場所で二八そばの屋台で商売をしても売れぬであろうに。おそらく酔客狙いであろうが……」
そう思った播磨守の耳に
「おう、一杯くんな!」
と、威勢のいい声が聞こえた。どうやら、客が来たらしい。
「声の調子からすると、下町の町人のようだが、こんな場所まで何をしに来たのやら」
播磨守は眠気覚ましに客とそば屋の掛け合いを聞くことにした。
そばを食い終わった客が
「いやあ、うまかった。いくらだい?」
と、聞くとそば屋が
「へえ、十六文でさあ」
答える。
「そうかい。すまねえが細けえ銭しか無えんだ。数えるから手え出してくんな」
客がそう言うとジャラジャラと小銭の鳴る音が聞こえてきた。
「一のニ《ふ》の三の」
客が数える度にチャリンチャリンと音が聞こえる。
「四……五……六……七……八。いま何時だい?」
客が時間を訊いてきたのでそば屋は
「へえ、九つでえ」
と、正直に答えた。
「十……十一……十二……十三……十四……十五……ほい、十六文。じゃあな、ごっそおさん」
そう言って、そば屋の
「まいど」
の声も聞かずに立ち去ったようだ。
壁の向こう側の顛末を聞いていた播磨守は違和感を感じていた。指を折りながら考えていると、ハタと気がついた。
「あの客、一文を払わずにすませたぞ!?」
役人として捨ててはおけぬと、裏木戸から出て客を追いかけようと思ったが、今はこちらの方が大事と思い直した。
「それにあのような謀り気がつかなかった、そば屋にも問題がある」
そう自分に言い聞かせて、また空井戸の張込みを再開した。
またしばらく経った丑の刻(午前二時頃)。播磨守はうつらうつらし始めてきた。
「いかん、どうも昔のように一晩、二晩の徹夜ができなくなっておるな」
鉢巻を結び直したり、手の甲やふくらはぎをつねったりしながら、なんとか目を覚まそうと努力していた。
すると、
「……申し訳ありません。おらが、お皿を割りました」
と、すすり泣く声が聞こえたような気がした。
その声で眠気を飛ばした播磨守は空井戸に目を向けた。そこには果たして、一人の少女がいた。
空井戸の上に浮かぶように現れたその姿は間違いなく、手討ちにし損ねた女中のお菊であった。
大刀を手に立ち上がろうとする播磨守。しかし、思うように体が動かない。
「おのれ、お菊。化けて出たか!」
叫ぶ、播磨守。声は出るようだ。だが、お菊はそんな播磨守に向かって泣き顔を見せながら、ゆっくりと目の前の皿を一枚持ち上げる。持ち上げた皿を脇に置き、ゆっくりと数えだした。
「一枚……二枚」
その声を聞きながら播磨守は噂を思い起こしていた。
「皿を九枚を数えると『一枚足りない』と叫んだ」
「その声を聞いたものは、やがて悲惨な最期を遂げる」
「……三枚……四枚」
お菊は皿を脇に移しながら、なおも数え続ける。
「……五枚……六枚」
どうする?その瞬間、ハタと閃いた!
「……七枚」
「いま何時じゃ!?」
「……八つ?」
お菊が播磨守の問いかけに答えると、間髪入れずに
「九つ!」
と、叫びながらお菊が持っていた皿を指さした。お菊は慌てて、その皿を脇にやる。
播磨守は、ゆっくりと残った一枚の皿を指して
「十……!」
と、言った。
お菊は最後の皿を持ち上げて
「……十枚あった」
つぶやいたかと思うと、陽炎のように井戸の影に消えていった。
体が動くようになった播磨守は空井戸に近づいて辺りを見回したが、お菊の姿も皿も見当たらなかった。
井戸の縁に手をやり、中をのぞき込むが暗くて何も見えない。
その闇に向かって播磨守がつぶやく。
「……お菊。……馬鹿で助かった」
翌日の丑の刻。寝入っていた播磨守の枕元にお菊が座っている。
「旦那さま。お皿が十枚あったのに、どうして、おらは死んでしもうたんじゃろか?」
お菊の霊に起こされた播磨守はぼそりと布団の中でつぶやいた。
「おのれ、お菊。下手に知恵をつけおって」