7、逃亡
その時、女が初めて口を開いた。
何かをしゃべったようだった。しかし、その音声は、僕にはまったく理解できなかった。女はもう一度、一語一語ゆっくりとしゃべった。しかし、そのどの言葉も、僕の知っているものではなかった。どうやってみてもこの女と言葉で意思疎通をはかることは不可能だった。ただ、その女の口調が、少なくとも怒っているようではなさそうだったので、僕はほっとした。
しかし、このあと一体どうすればいいのか、僕はまったく分からず途方にくれた。
気が付くと、女の目が、僕の下腹部に注がれていた。
僕は慌てた。さっきのおそろしい夢が思い出されてきた。原色の食虫植物が目に浮かんだ。僕は思わず二、三歩あとずさりした。
いつのまにか、もう夕暮れが近かった。
太陽は西の空を真っ赤に染めて沈んでいき、反対側の空には白い月の輪郭が見えた。もうしばらくすると、日は完全に沈んで夕闇が訪れ、そして、月が青白い光をあたりに投げ掛ける夜がやってくる。
そうだ。忘れていた。それまでに、僕はここから逃げ出さなくてはならない。少なくとも、この女から遠く離れなければならない。せめてその笛の音が聞こえなくなるくらい遠くまで………。
もう、一刻の猶予もなかった。僕は、身を翻すと、女をその広場に残し、熱帯林が濃密に繁茂するジャングルの迷路に足を踏み入れていった。
樹々も足元のシダも、昨日よりも、そして今朝よりもさらに成長してその密度を増し、僕の行く手を阻んでいるように見えた。足を取られ、頭をぶつけ、倒れ込んでは起き上がり、傷だらけになりながら、僕は歩いていった。しかし遅々として進まないばかりか、どこへ向かっているのか見当もつかず、同じところをぐるぐると回っているだけなのではないかという不安が頭をよぎったりした。
次第に、あたりは暗くなってきた。
そして、どこからともなく、なまあたたかい風が吹くともなくゆっくりと流れてきた。昨日と同じ、大きな動物の吐く息のように湿り気を帯びた、濃密な空気だった。
空を見上げると、白夜の太陽のような月が光っていた。
肉厚の葉が、月明りに照らされて樹の枝の上に舞い降りていた。
その時、遠くから、笛の音が微かに聞こえてきたような気がした。
いや、あれは風の音だ。気のせいだ。
そう思って、僕はさらに先へ進もうと思った。そして、目の前に垂れ下がる枝を振り払い、足元のシダの一株を踏み付けてもう一歩前へ出ようとしたその時、今度ははっきりと笛の音が聞こえた。昨日と同じ螺旋状の旋律だった。
しまった。間に合わなかったか………。
そう思った瞬間、足がもつれた。手でつかんでいた枝が大きく上に跳ね上がり、僕は地べたに叩き付けられた。強烈な眠気が襲って来た。
僕は再び、黒い蛇の姿に変わっていた。
やはりそうだったのだ。僕は絶望した。
こうなることは分かっていたのに、十分に予期していたのに、結局のところこの熱帯林から外に出ることができなかったばかりか、女の笛も奪えずに、遠くまで逃げることもできず、こうしてまた惨めな姿になってしまった。
僕は、全身の力が抜けていくのが分かった。
しかし、次の瞬間、僕は、今までのように苦労することなしに、ジャングルの中を思いのままに動き回っていることに気が付いた。
よく考えてみれば昨日もそうだったのだけれど、僕は地面をシダの株を避けるようにするすると進み、木に登っては枝から枝へと自在に動き回ることができた。一歩進むのにあれだけ困難を極め、傷だらけになって難渋していたことを考えると、ほとんど信じられないくらいの快適さだった。
僕は、あたりで最も太く、周囲を睥睨するように聳え立っている樹を選んで、その枝を辿って一番高い所まで上っていった。
月がすぐ近くに見え、そうして、見渡す限りに遠くまで連なっているこの熱帯林の様々な樹の葉が青白い光に柔らかく照らし出されているのが、遥か彼方まで見渡せた。それは、樹々の葉の種類ごとに月の光の受け方が微妙に違っていて、限りない濃淡を繰り返しながら四方に広がっていた。さらに、その間を太い川が蛇行し、鏡のようにすべらかな水面が緑色に光っていて、それは素晴らしい光景だった。
そうして、その優雅な笛の音に合わせてゆっくりと頭を動かしていると、これ以上の幸福な時間はないような気がしてきた。
おまけに、今の僕には食べるものがふんだんにあった。木の実でも樹液でも小さな生き物たちでも、僕が食べることができるものはそこら中にあって、僕は生き返ることができた。おなかが一杯になって幸せな気分になって、遠くから聞こえてくる笛の音を聞きながら、梢の天辺で僕は眠った。それは、かつて経験したことのないような、安らかな、深い眠りだった。




