6、魔笛
この女から離れていかなければならない。僕はそう思った。
だが、問題は残っていた。
集落の方へ続く道、食べ物の採れるところを、僕は夜が来る前に何としても、探し出さなくてはならない。それは僕一人ではほとんど不可能なことだが、もしも僕がこの女のあとをつけていけば容易に分かるはずだ。そして、そうすること以外にもう僕が助かる道はないような気がした。
僕は、とりあえず、しばらく離れた所からこの女の様子を窺おうと思って立上がり、あたりを見回した。
すると、今まで気が付かなかったのだが、女の眠る頭の後ろに、その長い髪に半分くらい隠れるようにして、竹のようなものでできた短い横笛が転がっていた。
それは、ほとんど風の音そのもののような素朴な響きが出てくるに相応しい、ごく簡単な作りの横笛だった。
その瞬間、僕は、夕べの、あの不思議な笛の音を思い出した。
あの笛を吹いていたのはこの女だったのか、あの螺旋状の永遠に続いていきそうな旋律は、この女の仕業だったのに違いない………。
なるほど、この女だったら一晩中あの不思議な旋律を吹き続けられるかもしれない。だからこそ、昼間はこうしてぐっすりと眠っているのだ。
この女を最初に見付けたとき、なぜそのことに気がつかなかったのだろう、とさえ思った。
だが、その笛の音に続いて起きたことはなんだったのだろう。そう、何匹かの真っ黒い蛇がどこからともなく集まって来てその旋律に酔うように動き、そうして、この僕も、いつのまにか蛇に姿を変えていたのだった。
そうだとすれば、また同じことが起こるのだろうか。また夜になって月が上り、薄明りとなまあたたかい風が辺りを包む頃、この女は起き上がって笛を吹く。そうするとまた僕は姿を変える………。
夕べは、危ないところで溺れ死なずに済んだ。そして、また元の姿に戻ることができた。しかし、今度はどうなるか分からない。
そうだ、この女に笛を吹かせてはならない。同じことを繰り返させてはいけない。そのためには、今、あの笛を奪い取らなければ………。そうして、どこか遠くへ逃げなければ………。
僕は一瞬のうちにそこまで考えると、それ以外の道はないのだと自分に言い聞かせながら、足音を忍ばせて女の後ろに回った。
しかし、いくら眠っているとはいっても、こういうところに住んでいるのだからおそらく神経は敏感だろうし、笛には女の髪の毛が掛かっているのだから、笛を取るときに感づくかもしれない。それに、そもそもそんな魔力のようなものを持った女であれば、僕の意図を見破った時に一体どんなことになるのだろう。
そう思うと僕は足がすくんでしまって、心臓だけがどきどきと早鐘のようになった。僕は何もできないままそこに立ち尽くした。
その鼓動が僕の足を通じて地面に響き、それが女にも伝わっていったのだろうか。女は目を覚まし、ゆっくりと上半身を起こすと、じっと僕を見つめた。真っ黒い顔の中で白目の部分だけが異様に光っていた。
そのまま長い時間がたったようだった。
女は、なおも無言で、僕の目の奥を覗き込んでいた。
僕は、この女がどの程度僕のことを知っているのかが気になった。
単に目が覚めてみたらそこにいた、というだけならば、いろいろと言い逃れのしようもあるだろう。道を尋ねてもいいし、何か食べ物はないか、と頼んでみることもできるだろう。
しかし、そうではなくて、なんとなくだが、女は、僕が今その笛を奪おうとして近づいたことや、その前にこの女とからだを交わしている夢を見ていたことなんかも、要するになにもかもを見通しているような気がして、僕は頭が混乱していた。
女は、全裸のからだのどこも隠そうとせずに、ゆっくりと立ち上がって僕を正面から見つめた。僕も、仕方なく、同じようにどこも隠さずに女と向き合っていた。そのことも、そうしている時間をずいぶんと長いものに感じさせたような気がする。
女の目は鋭かった。
確かに彼女にしてみれば、仮に眠っている間に僕のしたことを何も知らなかったとしても、それでも、突然自分の楽園に踏み込んできて心地好い午睡を破った、得体の知れない闖入者が目の前にいるのだから、穏やかでいられようはずがない。
ほとんど、僕の忍耐のほうが限界に近付いてきていた。




