4、覚醒
そのままどのくらいの時間が流れたのだろうか。
甲殻類たちは、相変わらず川底を動きまわり、実りのない作業を繰り返していた。
そろそろ別のところに行ってみようか、と思ったその時、突然、水面から聞こえてきていた笛の音が高まった。樹々の葉を渡る風の音のように自然だった音色が急速に激しさを増し、螺旋状の旋律が一気に高潮していって頂点を築き、そうして、それまで延々と続いていた曲が、悲鳴のような音を最後にして、断ち切るように終わった。
その長い余韻が徐々に消えていくと、深い静寂が訪れた。
すると、その深い川底の水も流れが止まり、気が付くと、甲殻類たちもみな、川底にならんで眠りに就いたように身動きをしていない。
その瞬間、僕は息苦しさを感じた。
水が鼻や口から入ってきてしまい、気が遠くなりそうな苦しさの中でもがきながら、必死で手足をばたばたさせた。
手足? そう、確かに手足があった。
とにかく上の方へ、水面まで行かなければ、と思い、僕は手で水を掻き足で水を蹴り続けた。飲んだ水が鼻の奥に回り気が遠くなっていったが、なんとか溺れる前に無事水面に顔を出すことができた。立ち泳ぎをしながら飲んだ水を吐き出し、手で顔の水を拭いながら、僕は、自分がヒトの姿に戻っていたことに気がついた。
重たい水を掻き分けて岸まで泳いでいき、やっとの思いでシダ類が繁茂する地面に身を投げだし、僕は、自分の身に何が起こったのかを考えようとした。しかし、そのとき僕が体験したと感じていたことはまったく僕の理解をこえることだったし、まして納得できるような理由を考えつくことや説明をつけることは不可能なことに思えた。あの不思議な笛の音、螺旋状の旋律がそもそもの始まりだったかも知れないが、それも定かではない。
ただ、一番最初にこの熱帯林のなかに迷い込んだ時と違うのは唯一つ、今は何も着るもの、身に付けるものがないということだった。僕はまったくの裸で水から上がり、今、その無防備な姿で地面に横たわっていた。
月はいつのまにか消えて、もうじき太陽が上ってきそうな明るさがあたりを支配していた。僕は猛烈な疲労を覚えて、そのままそこで眠り込んでしまったようだ。
気がつくと、僕は、激しい水飛沫に打たれながら下のほうに引っ張られているた。滝の中を真っ逆様に落ちているようだ。
圧倒的な量の水に全身を叩かれながら、僕は遥か下にあるはずの滝壺に向かって急降下していた。目も開けていられない凄まじい水飛沫の中で、僕のからだは暴力的な水の塊に打たれ、ぼろぼろになり翻弄されながら、どこまでも落ち続けていた。
一体どうしてこういうことになっているのだろう。さっきのゆるやかな川の下流にこんな恐ろしい大地の割れ目があったとはとても信じられない。水面は鏡のように静かだったし、それに僕は確かに岸に上がっていたはずだ………
そんなことが一瞬頭の中をかすめていったが、今は理由や経緯を考えている場合ではなかった。僕は物凄い水飛沫で息もつけず、自分のからだが原型をとどめているのかどうかもわからないほどに全身が麻痺していた。
このまま滝壺に落ちたらどうなるのだろう、恐らく僕のからだは粉々にちぎられて、渦巻き返る水の中に消え去ってしまうのではないか。そう観念して目を閉じた。が、それでも僕はまだ滝壺には到達していなかった。
さらに僕を打ち付ける水の量が増し、息苦しさが限界に達し、すでに滝壺の底に叩き付けられたのかと思ってみても、なお僕のからだは落ちるスピードを増していくようだった。
このままどこまで落ちていけばいいのか、いずれにしても僕の最期は近いとあきらめた時、目が覚めた。
まわりは、バケツの水をひっくりかえしたようなスコールだった。その、空から塊のようにして降ってくる水は確かに滝のようであったけれど、僕はシダ類の逞しく肉厚な葉に囲まれて、地面の上に横たわっていた。
密生して生える樹々も、そこに付いている大きな葉も、このスコールを防ぐ役には立たなかった。僕は止めどなく降り続く激しい雨に打たれながら、一応、念の為、僕のからだがどうなっているかを確かめてみた。
手で顔を拭うことはできた。立って歩こうとすればできるような足もあった。今はとてもそうしてみる気にはなれなかったけれど……。
僕は、あの、蛇になって木の枝に上り、川底に泳いで行ったのも、今の滝壺に落ちていたのと同じような夢の中の出来事だったのだろうか、と考えてみた。そうあってほしいと思った。しかし、水の中で苦しくなって、そうして岸に泳ぎついて今ここに横たわっているはずなのだから、その一部を夢ということはできないように思えた。
そもそも、この熱帯林に迷い込んだところからすべてが夢だとすれば納得できる点はあるが、それでは夢ではない現実の僕は今どこにどうしているのかという根本的な問題に行き着いてしまう。夢ならば覚めてほしいけれど、そのように考えている僕がいる以上、今ここでこうして裸のままスコールに打たれている僕を現実の姿だと考えるほかはないような気がした。




