3、水の中へ
僕は、しばらくの間そのようにして樹々の間を巡る空中散歩を楽しんだあと、地面に降りて滑って行き、川の中に入っていった。水の中でも、僕は、ほんの小さなからだの動きだけで、底のほうでも水面近くでも、どこへでも思うがままに泳いでいくことができた。
その水は、ねっとりとして重たく、空気よりももっとなまあたたかかった。しかし、月の光はこの濃密な水の中を照らすには弱すぎて、その世界の全貌を見渡すことは不可能だった。
薄暗がりの中を底のほうへ下りていくと、突然、僕は金色に光るものをみつけた。一瞬、僕の呼吸が止まったような気がした。
目を凝らしてみると、それは、大きな蛙の目だった。
その蛙は、いぼだらけの真っ黒いからだに埋め込まれたような両目だけが爛々と光り、みじろぎもせずに川底にじっとしゃがみ込んでいた。改めて視線を交わした時、僕はその光る目に射られたような気がして怯んだ。その視線に、悪意に似た、なにかただならぬ気配を感じたからだった。が、気を取り直して辺りを見回してみると、その横にも、後ろにも、もう川底のいたるところに夥しい数の蛙がいて、ほとんど同じ恰好ではいつくばっていた。
そして、僕がゆっくりと水中を泳いで移動していくと、その動きにつられて夥しい蛙の倍の数の光る目がじっと後を付けてくるようだった。それは敵意に満ちて不愉快な視線だった。
彼等の後ろに回り込んだとき、僕は思わず声を上げそうになった。その大きな蛙たちが密集して座っているのを背中の方から見ると、それは黒いいぼだらけの皮膚の連なりが大きな起伏を作って、川底の一部を成しているかのようだった。そして、彼等は、水面からわずかに漏れて来る月の光に向かって、同じ格好で座り続けていた。
それは、みんなで一斉に月の光を礼拝しているような、祈りを捧げているような場面に見え、そこには、なにか神聖で厳粛な空気が感じられた。彼らの頭上には、ねっとりとした水を通しておぼろげに光る月があった。
僕は、無神経にも、その前を通ってきたのだった。水面のはるか上から差し込んできて、水の中で弱々しい光に変わる月の光を、その両目で凝視しようとしている蛙たちの目の前を、僕は横切って来たようだ。彼らの視線がただならぬ気配だった理由がわかった気がした。
僕はしばらくその蛙の集団の後ろの岩影に隠れ、その神秘的な月の光を見ていた。
青白いはずの月の光が、水を通ってくることによってやや緑がかって、見たこともないような色の発光体になっていた。そして、ほんのときたま訪れる風によって波が立つのか、その瞬間にゆらゆらと揺れて輪郭が定かではなくなり、水の中にもその光が乱反射して不思議な影を投げ掛ける。しかし、やがて時が経つにつれてその揺れが徐々に小さくなっていき、だんだんと元の形を取り戻して、そうして再び静謐な光に戻っていく。
その瞬間に、蛙の集団は、ほんのわずかだが一斉に頭を垂れたように見えた。息詰まるような緊張が走った。しかし、その後はまたもとのようにじっと水底に座ったまま、静かに月の光る水面を見つめていた。そのようにして永遠のときが続いていくかのように、蛙たちはその場にひざまづいていた。
遠く遥か彼方から、まだあの笛の音が聞こえてくるようだった。
僕は、できる限り水を動かさないようにそっとその場を離れ、さらに水の深いところへと泳いでいった。
徐々に月の光は弱まってあたりは暗くなり、水も少しずつ冷たくなっていった。その先に、川底が絶壁のようにさらに深くなっている部分があっった。今までは、川でありながらまったく水の流れが感じられなかったのだが、この一番深い部分では、まわりよりも冷たい水が、それもかなりの早さで流れていた。
その時、がらがらっと石が崩れるような音がした。
水の中だから鈍い音ではあったが、ゆっくりと泳いで近づいていってみると、そこには川底の石を集めて築き上げたような壁があって、そのうちの一部分が水の流れで崩されたようだった。いくつかの石が川底に転がっていて、そうして、その回りには、夥しい数の甲殻類が群がっていた。彼らもからだ中が真っ黒で、鎧のような背中は不気味に黒光りしていたが、手足は昆虫のように細く折れ曲がった物が何本もついていた。
そして、その手足をせわしなく動かしながら、何とかその崩れ落ちた石を元のところへ持ち上げて修復しようとしているように見えたが、何をどうすればいいのかわからないらしく、ただ集まってはごそごそと動きまわっていた。よく見ると、一匹が石の上にのってはまわりにいる大勢の甲殻類たちがそれを持ち上げようとしているような感じもしたが、その動きに秩序を見出だすことは難しく、何らかの成果を認めることはさらに困難だった。
僕は、彼らの意図を理解できないまま、それでもその営みの一部始終を見とどけてみようと思い、ちょうどよさそうな岩を見付け、そこの陰にもぐりこんだ。
遠くの方から笛の音が聞こえてきた。
水の中から聞く笛の音にはまた別の響きがあって、僕はまた気持ちよくなって頭をゆっくりと回し始めた。




