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2、笛の音

 大きな樹の枝が絡み合って壁のように立ちはだかっているところをようやく抜け、立ち止まって大きな息をついたとき、遠くの方から笛の音が聞こえてきた。

 その音は、疲れたからだと頭を麻痺させるような響きがあって、僕はそのままその場に立ちつくしてその笛に聞き入った。

 ほとんど風そのものの音と変わりがないような音色が、ゆるやかな螺旋状の旋律を辿っていた。

 それは、今までに聞いたこともないような不思議な響きだった。その、はじめもなく終りもなく永遠に続いて行きそうな旋律は、いつのまにか僕のからだの中にそのままの形で入り込んできて、僕の体内の血液や体液の中をゆるやかに螺旋状に巡り始めた。

 僕は、大きな疲労を覚えてその場に座り込んだ。

 笛の音は、僕の指先や足の先まで、からだの隅々を丁寧に辿り、やがてそれは少しずつ纏まって徐々に大きな流れとなって僕の中を渦巻いていったような気がした。

 見上げると、頭の上に伸びてきている枝には真っ黒い蛇が絡み付いていた。その蛇は、尾のほうで肉厚の葉を付けた枝にしっかりと絡み付いたまま、上半身を大きく伸ばして、笛の音が聞こえてくるほうに頭を向け、その鎌首をゆっくりと円を描くように大きく回していた。それは、笛の音が辿る永遠の旋律に呼応しているかのようなゆるやかな動きだった。

 気が付いてみると、その向こうの樹にも、さらにその奥に茂る樹々の枝にも、やはり同じような蛇がいて、遠くから流れてくる笛の音に合わせてゆるやかに動いていた。そして、地面に生えるシダ類の茂みの中からも、太く凝り固まった樹の根の隙間からも、この密林のいたるところから蛇たちは顔を出し、笛の呼び掛けに応えていた。


 僕は眩暈がしてきた。

 あの笛はどこから聞こえてくるのか、一体誰が吹いているのか、そしてこの蛇たちは………、そんなことを考える余裕もなく、僕は強烈な眠気に襲われていった。しかし、こんなところで眠ってしまうわけにはいかない、そう思って手の甲で目を擦ろうとした。その瞬間、僕は愕然とした。

 僕には、手が無かった。

 右手を目のところへ持っていって、この眠気に囚われた目をこすって覚醒しなければ、という意識は辛うじて働いていた。にもかかわらず、そのようにして動かすべき手が、無かった。

 僕は、悪い夢を見ているような気がした。とにかく、自分のからだがどうなっているのかをこの目で見てみようとした。ところが、首だけを曲げて動かすつもりだったのが、上半身が頭ごと動いていったようで、視界もまったく変わってしまった。こんな体験も初めてだった。そして、やっと気を取り直した僕が見た自分の下半身は、真っ黒い一本の尻尾のような形をしていて、足も何もなかった。

『そんな馬鹿な!……』

 思わず口走りそうになって開けた口からは、そのような声はまったく出てこなくて、その代わりに、先が二つに分かれた真っ赤な舌がチロッと見えた。


 僕は、すべてを理解した。

 その瞬間に、さらに猛烈な眠気に襲われて、僕はその笛の音に合わせてゆるやかに動き始めた。それは、ほとんど意識をすることのないままに、からだそのものが何ものかに促されているような感じだった。

 笛の聞こえてくるほうに頭を向けていくと、肉厚の葉を付けた太い樹に触れ、そのまま螺旋状の旋律に合わせてからだをくねらせると、いつのまにか僕はその樹に自然と絡み付いて、そうして、ゆっくりとその枝に沿って高みに上っていった。

 僕は、自分のからだにほとんど抵抗を感じることなく、木の枝を自在に動き回れるのが何とも不思議だった。僕の一本に伸びた細いからだは、前へ行こう、上に登ろう、という意思とも呼べないほどの小さな心の動きだけで、そのことを可能にしていた。地面を歩いていたときにはあんなに邪魔で行く手を阻んでいた太い樹々が、今は僕をごく自然に森の奥へ、そして月の光に照らされた空へと導いていた。

 そのようにして、僕はほとんど重力というものを感じないままに、太古の時代からそこに存在していたような熱帯樹を上り詰めていった。そして、枝が終わるところで頭を大きくもたげると、月の光に満たされた空が舞い降りてきて、やわらかく僕を包み込んだ。

 笛の音はさらにはっきりと聞こえてきて、その旋律が空に向かって遠く消えていくのを追いかけるように、僕は梢の天辺でゆるやかに円を描いていた。

 それは、生まれて初めて僕に訪れた至福の瞬間だったかもしれない。

 笛の音に導かれるようにして月の光に向かって回っていると、僕は今までに感じたことのないような陶酔感に満たされた。密生した樹々と、それらの枝が複雑に絡み合うこの森が、僕の楽園に変わっていた。

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