10、楽園の夢
『無理することはない』
僕は自分に言い聞かせた。
やがて夜になり月が出て、そしてあの笛の音が聞こえてくれば、僕はこのジャングルを自在に動き回れるようになるのだ。樹々に行く手を阻まれることも、食べ物に不自由することもなくなる。
そうして、その笛の音が聞こえるほうに行けば、そこには目指す広場があって、例の女が月明りの下で笛を吹いているだろう。その姿を思い浮かべながら、今は一休みしていればいいのだ。何も心配することはない。もう少しの辛抱だ。その間、眠りながら夢でもみていよう………。
女は、その鋼のような足で立上がり、長い髪を腰のあたりまでたらして、笛を唇にそっとあてている。そして、そのからだは月の光に照らされて、ブロンズ像のように輝いている。
僕は真っ黒い蛇になって、その女のほうへ近づいていく。女は、長い時間笛を吹き続けるためなのだろう、両足をわずかに開いて、自然な姿勢で広場の真ん中に立っている。僕はゆっくりと地面を這って行って女の足に辿り着き、親指の根元のところに優しく口付けをする。女は笛を吹き続け、みじろぎもしない。
僕は女の足の一方に絡み付いて、螺旋状にするすると上っていく。弾力のある足は徐々に太くなり、僕はその曲線に沿って微妙に力の入れ具合を調節しながら、さらに上の方へと登って行く。そうして、張りのある腰を一回りして、やがて禁断の場所に辿り着いてゆっくりと口付けをすると、女のからだがわずかに震える。だが女はまだ笛を吹き続けているようで、その姿勢は変わらない。
しかし、なぜか、笛の音が聞こえてこない。そう思ってみると、今初めて笛を吹くのを止めたわけでもなく、最初から、笛の音は聞こえてきてはいない。だが、もう僕はここまで登ってきてしまっている。あとは、頭の部分に力を入れて、女の両足の間に入って行けば、原色の熱帯植物の世界が待っているはずだった。
僕は気を落ち着かせるように深呼吸をして、もう一度からだ全体に力を入れ、大きく伸びをした。
その時、僕は目を覚ました。僕の頭が木の幹にでもぶつかったらしかった。 やはり夢だったか。惜しいところだった。しかし、これはそのうち現実となるはずのことだった。焦る必要はない。
そう思ってあたりの様子をうかがった次の瞬間、僕は大きな絶望感に囚われた。
あたりは、もうとっくに夜の帳が下りて、月は中天に懸かって青白い光を発していた。そして、昨日やおとといと同じように、なまあたたかい空気がゆるやかに動いていた。ねっとりと湿り気を帯びた風だった。
いつもと同じ、静かな密林の夜だった。
しかし、笛の音がどこからも聞こえては来ていない。
そして、僕のからだは、もちろん黒い蛇ではなく、昼間と同じ手足のついたヒトのそれだった。
まだ時間が早いのだろうか。
だが、月の感じもあたりの明るさも、僕が真っ黒い蛇となって旋回しているはずの時刻であることは疑いようがなかった。
僕は、祈るような気持ちで耳を澄ませた。
どこかからかそれらしい風の動きだけでも感じ取れないかと、僕は目を閉じた。しかし、まったくの静寂と沈黙があるのみで、笛の音は微かにすらも聞こえては来ない。
密林の中を歩き回っているうちに、僕は女のいる広場から遠く離れてしまったのだろうか。いつのまにか、ひたすら逆方向に進んできてしまったのか。今からでもその広場のほうに歩いていくことはできるだろうか。
しかし、今いる場所にさえ、どっちの方向からやって来たのか分からないのだから、もうこれ以上歩いて僕の目指す場所を探し出すことは不可能に思われた。朝から何も食べてはいないし、日中の暑い中を歩き回って体力も消耗し切っていた。
せっかく僕の楽園を見付けたのに、僕はそこで生きていくことができなくなってしまった。喜びを持って自由に生きられるはずの世界を目の前にしながら、僕はもうそこには永遠に辿り着けないのだ。
薄らいで行く意識の中で、僕はそのことだけを考えながら、深い眠りに落ちていった。