1、異郷
僕はきっと夢を見ているのだ。
そうに違いない。
でも、今のこの僕が現実なのだとしたら、それはそれでも構わない。
というよりも、夢から醒めないで生きる方法なんて、そもそもあるのだろうか…
1、異郷
なまあたたかい風が、ゆっくりと流れている。
とてつもなく大きな動物の吐く息のように、ねっとりと湿り気を帯びた濃密な空気が、密生している熱帯樹の幹や枝に絡まるようにして、ゆるやかに動いている。
月が出ている。
白夜の太陽のように輪郭のはっきりしない月が、中天近くに浮かんでいる。その光は、湿った風の中に浮遊する微小の水滴の一つ一つに反射して柔らかく輝き、熱帯林の上に乳白色のおぼろげな空間を作り出している。夜というにはあまりに明るく、星は見えない。
大きな樹の、肉厚の葉の一枚一枚が、月の光に照らし出されている。
巨大なヒトデのような葉、大昔の恐竜の背中のような葉、海の底でじっと何かを待つ深海魚のような葉が、それ自体が樹とは別の生き物のように空をあるいは地を向いている。そして、その中をどす黒い血液が流れているかのように厚くふくらみ、海の底から這い出してきたばかりのように鈍く光りながら、それぞれの幹や枝に舞い降りて、安らいでいる。
水の気配がする。
樹と葉の作り出す密度の濃い空間の向こうに、なまあたたかい風の流れる道があり、その下を川が流れている。
深い緑色と灰色が混ざった水面は、滑るようになめらかで波はまったくない。どちらのほうへ流れているのかもよく分からない。それは、地面とほとんど同じくらいの水位で、岸辺の草がなければそのままその上を歩いて行けそうなほどに静まりかえっている。
この水面の下には、どのような生き物が潜んでいることだろう。
太古の昔からじっと微動だにせずにいる魚、空を飛ぶことを止めて堅い殻の中に閉籠り息を潜める鳥、月の光る晩にだけ目を覚まし辺りを窺う爬虫類、飽くことなき細胞分裂を繰り返して自己増殖をはかる生物、同じ円を描いて永遠に回り続ける生物………。そんな多くの生ある物が胎内に蠢いていることを隠すかのように、鏡のように微動だにしない川。
あたりはまったく音のない静寂が支配していて、青白い月の光がすべてを眠りに包んでいるようだった。
ただ、僕だけは、一人眠ってはいなかった。
僕は、密生した熱帯樹の間のわずかな空間を探しながら歩いていた。
なぜ突然こんなところを歩いているのかわからないまま、ただひたすらに歩いていた。何かに追われていたのだろうか。そうだったような、でも、そうでなかったような気もした。とにかく、次々と覆い被さってくる枝を払い、足元の植物や樹の根に足を取られながら、密林の中を僕は歩いていた。
不思議と、暑くはなかった。ただ、湿り気を帯びたなまあたたかい風が僕の全身を包み、じっとりとした汗を掻かせ、さらにからだ中の穴からじわじわと僕の中に入ってきて、それはいつのまにか僕の頭の中まで到達し、そうして、思考力とか、判断力とか、そういったものをほとんど失わせていた。
月が出ているのだから、夜には違いない。しかし、あたりは太い樹を避けてシダ類のような植物を掻き分けながら歩いていくにはまったく支障がないくらいに明るかった。
僕は疲れていた。
ただ、どこへ向かえばいいのか、どこまで行けば休めるのかまったく見当もつかないまま、とにかく今は歩き続けなければならないような気がして、まるで歩き続けること自体が揺るぎない唯一の目的ででもあるかのように、僕は荒い息を吐きながらも進んでいた。