第1話 戻り始めた日常
『兄が消えた、それを聞いたのは、今から一ヶ月程前の事だ』
浬は当時を思い出しながら、そう述懐した。いや、正確には兄が消えたわけではない。正確に言えば、彼が通う高校とその生徒に教師達がそっくりそのまま消失したのだ。その中に、いつも通りに高校に出席していた兄も含まれていたのである。そうして、後の彼女はこう述懐する。
『今にして思えば、あの兄が消えた日こそが、全ての始まりだったのだろう、と』
そうして、勇者が居なくなった地で、新たなる英雄とその伝説が目覚める日が、誰に知られる事も無く、始まった。
ピピピッ、ピピピッ、という音と共に、目覚まし時計のアラームが連呼する。そして、すぐ下のベットから、もそもそと手が伸びてきて、目覚まし時計の上部についたスイッチを勢い良く叩いた。
「・・・ふぁあー・・・」
夢から目覚め、ベットから身を起こした天音 浬は欠伸をして、ベッドから降りる。年は15歳。丁度この春、中学3年生になったばかりだ。
第二次性徴は大凡済んでいるのか、溌剌そうで端正な顔には女性らしさが浮かび始め、身体つきも女性らしさが浮かび、スタイルが良い、と褒められる様な体型になっていた。そんな彼女は今、長めの髪を下ろし、その端正で溌剌そうな顔を眠そうに擦っていた。
「・・・ねむい・・・あ、またあの子だ」
浬はぼんやりとカーテンを開けて外を眺め、いつも家の塀に乗っている蒼い小鳥と天気を確認。浬はなんら変わりない一日を予想する。いつも通りで、何も変わらない。兄が帰って来ていない事も含めて、だ。そうして、ぼんやりとした眼を擦りながら、浬は自室から出て、1階の洗面台へと向かう。
と、そこで丁度リビングでテレビを見ていた母親を発見した。天音家の間取り上、洗面台へ行くには、一度リビングと台所を通り、風呂場までいかなければならなかった。
一応2階にもトイレや洗面器があるのだが、洗面台には温水機能が無いので、浬はものぐさから下を利用していた。引っ越した時には若干不便だとは思ったのだが、慣れてしまえばどうでも良くなっていた。
「あ、浬ちゃん。おはよー」
浬を見付けて、母親が笑いながら朝の挨拶を行う。彼女の名前は、天音 綾音だ。母親はどう見ても浬よりも年下、中学生入りたてから小学校高学年にしか見えない。随分昔に見た写真でも、この姿だった。と言うより、ランドセルを背負っていた当時も同じ見た目だった。彼女は朝の情報番組をソファの上で見ながら笑っていた。
まあ、見た目さながらの幼い精神も持ち合わせている綾音であったが、同時に、母親としての精神も持ち合わせていた。
それ故、心労からつい一ヶ月前には卒倒し、入院するほどに精神に変調をきたしていた綾音だが、二週間経った頃から何とか復帰し始め、今では普通の生活がなんとか送れる様になっていた。原因は言うまでもなく、兄が原因不明の事故で消失してしまったから、だ。
「おほよー、お母さん」
浬はそんな母親の笑い声を背にぼんやりした眼で挨拶を返し、そのまま風呂場にある洗面台へと直行し、ジャバジャバと冷水で顔を洗う。すると、冷水が目をさましてくれた。
「よし! 目が覚めた!」
先ほどまでの眠そうな気配は何処へやら、一気に目を覚ました事により、しゃん、とした雰囲気が浬に戻る。と、そんな浬に、台所に入ったらしい綾音が声を掛けた。
「かいりちゃーん。朝ごはん何にする?」
「あ、パンと目玉焼き!」
自らに問う綾音の声に、浬は寝癖等の身だしなみを整えながら答える。そうして、ほっと胸を撫で下ろした。
「うん、大丈夫そうかな・・・」
長めの髪をポニーテールに結いながら、彼女は母親がいつも通りであることに安堵する。退院してすぐの頃。兄が消えたというニュースを見る度に、震えが止まらず、精神不安定になっていた母親だが、今では大分と落ち着いてきた様に思えたのだ。
初日から全世界的に報道関係者が集まり、連日連夜行われていた天桜学園消失のニュース自体が一段落した事もあるだろう。
まあ、他人の不幸であっても、どんな大災害であっても、時は無情に全てを等しく流していく。一ヶ月もすれば、特番が組まれればマシだろう。下手をすればその次に起きた大事件や大事故に人々の記憶は塗り替えられ、忘れられる事とて珍しくもない物だ。
「ふんふーん♪」
「はぁ・・・でも休みは案外早いうちに終わっちゃったなー・・・」
母親の鼻歌を聞きながら、浬は小さくため息混じりに呟いた。大好きな母親の精神が持ち直してくれたことはありがたいが、やはり身近な問題は別だった。
近場にあった学校が現代科学では解明できない事態に巻き込まれて、彼女の通う中学校も休校になってしまっていたのだ。しかし、その休みは一週間程で解除され、今では――表向きは――普段通りの生活が始まっていた。
「はぁ・・・蘭は引っ越すって言ってたっけ・・・ゆーこはそのままだっけ」
嗜み程度にお化粧をしながら、浬がぼんやりと友人たちの現状を思い出す。表向きは平静を取り戻した天童市だが、その影響は明らかに現れ始めていた。
謎の現象で、500人もの人間と巨大な建物が一気に消失したのだ。なるべく遠くに離れようとする心理は、分からないでは無かった。まあ、何処まで逃げれば安全なのか、というのは誰にも分からないのだが。
「まあ、ウチは引っ越さないみたいだけどねー・・・あ、枝毛・・・」
ブツクサと自分の現状に言及しつつ髪解かしていた浬だが、後ろの扉から少年が現れた。彼女の弟の海瑠だった。どうやら、たった今起きてきたのだろう。寝癖で髪は跳ねていたし、目は寝ぼけ眼だった。
「あ、お姉ちゃん。おはよー」
「あ、海瑠、おはよ」
彼女の弟である海瑠は彼女と同じく整った顔付きで、見方によっては女の子にも見えるが、どちらかと言うと幼さが前面に出ていた。
幼さが取れれば彼女らの兄の様に端正な顔付きとなるかもしれないが、中学に入学して既に一年が経つというのに、一向にその気配は無かった。まあ、母も父も年に比べてかなり若い見た目だ。これが本来で、兄が例外なのかもしれない、と浬は密かに考えていた。
「はい」
「ありがと」
浬が洗面台の前を空ける。別に、髪を結っているだけなので、洗面台を専有する必要は無かった。そして、それを受けて、海瑠が顔を洗い始める。そうして、二人がしばらく洗面台の前で用意を整えていると、美味しそうな匂いと共に、綾音の声が聞こえてきた。
「二人共ー、ご飯出来たよー」
「あ、はーい! 海瑠、急げ!」
「うん!」
綾音の声に浬は手早く髪を結い終え、足早に鏡で最後のチェックを行なう。そして、何ら問題の無い事を確認し、海瑠に声を掛けて出て行った。
「はい」
風呂場から出てきた浬へと、綾音がパンと目玉焼きが乗った皿を手渡す。浬はそれを受け取って、リビングへと入っていった。するとそこには既に父の彩斗が座っていた。久しぶりに帰って来ていた彼を見て、思わず浬が目を丸くした。
「あ、お父さん」
「ん? おお、浬か。何やー、今から学校かー?」
どうやら彩斗は新聞を読み終えて朝の情報番組を流し見していたらしく、リモコンを片手にチャンネルを変更していた。父は母とは異なり、歳相応に年齢を感じさせる顔立ちだが、彼女ら兄妹の父親らしく、若い頃はさぞかしイケメンだったのだろうとわかる、端正な顔立ちであった。
「うん。今日は朝練無いし、ゆっくり行けるんだ」
問いかけを受けた浬は彩斗の目の前の席に座り、パンに目玉焼きの黄身を付けて食べ始める。ちなみに、食べ盛りなので彼女はパンを2枚食べる為、一枚目は黄身を付けて、2枚目は目玉焼きを乗っけて食べるつもりだった。
「いただきます・・・お父さんは今日は休み?」
そんな浬の言葉に、父は片手をひらひらと挙げて頷いた。兄が消えて数週間。唐突に殆ど休みなく働いていた彼だが、それ故、少し心配であったのだ。兄は原因不明の消失現象に巻き込まれ、母につづいて父まで倒れたら、どうなってしまうのか、と。それは仕方が無い事だろう。
そして、そんな少しの不安を、彩斗もまた、見抜いていた。なので彩斗は浬の方を向くことなく、笑いながら心配ない、と頷いた。
「おー。何や会長がえらい大慌てで人員集めおってな。この数週間それでちょっとした仕事やっとったんやけど・・・それが一段落してな。それで関わった奴全員に、お休み貰えたんや・・・まあ3日ぐらい結果が出るのに時間が掛かる、って理由があんねんけどな。その後はまた少しの間泊まり込みかもしれん・・・ちっ、まーた、やっとんのか」
テレビのチャンネルを変更しながら浬の疑問に応えた彩斗だが、ふと手を止めたチャンネルで忌々しげに舌打ちする。浬が父の悪態にテレビを見れば、そこには胡散臭そうな学者然とした男性が、天桜学園という、兄が消えた高校の消失に関する考察を述べていた。
『天城総理は自身のご子息の消失について・・・』
『えー、ですから、かつてあったフィラデルフィア計画によれば・・・』
『貴方達はいつも米国の所為にしたがりますねー・・・目撃者に聞けば謎の光が・・・』
「ありゃ、単なる都市伝説や・・・つーか、ユーフォーって。アホとちゃうか。はぁ、甘いもんでも見とこ」
どれもこれも、馬鹿げた意見。そうとしか、見ている方には思えなかった。まあ、原因不明なのだ。仕方がなくはある。
とは言え、それは巻き込まれた者を家族に持つ者からすれば、単なる見世物にしているだけ、としか思えなかった。なので彩斗は忌々しげに呟いて、チャンネルを変更する。
だが、どうやらタイミングが悪かったらしい。先ほどまでは流行りのスイーツを映していた情報番組は、此方もまた天桜学園のニュースを行っていた。
『天道 武会長によりますとこの一件は・・・』
『あー、昔には神隠しというものがあって、ですね・・・』
『それは昔の人間が転落死など不慮の事故で亡くなった方を受け入れられず・・・』
『日本政府の発表によりますと・・・』
「ちっ・・・」
忌々しげに舌打ちすると、彼は子供向けの朝の番組へと変更する。彼とて、自分の息子と娘の様に可愛がっている居候の少女が関わる案件を、まるで見世物の様に扱われては我慢ならなかった。まだ子供向けの番組の方が、こういったニュースを扱わなくて良いと判断したのだ。
「朝から気分わる・・・綾音ー、飯まだー?」
気分転換には愛妻料理に限る、とばかりに彩斗は台所で料理をしている綾音に向けて声を上げる。それを受けて、ひょこ、と台所から顔を出した綾音が、彩斗に応えた。
「あ、うん! 今出来るよ! ちょっと待ってね! はい、海瑠!」
「ありがとー」
顔を洗い終え、寝癖を解かし終えた海瑠がお盆をもってリビングの浬の横の席に座った。そうして、父親が居るのに気づくと、朝の挨拶をして、手を合わせた。
「頂きます。お父さん、今日は休みなんだ」
「おー、まあ、また泊まり込みやけどな」
「お父さん、営業系なんでしょ? 出張じゃないの? 泊まり込みなんて、今まで一回も無かったよね?」
天桜学園の転移後に、何故か急に始まった父の泊まり込みに、海瑠が首を傾げていた。それに、彩斗が苦笑する。
「営業系ってか、まあ、主には交渉やな。営業系やったのはまだ大阪やった頃や」
「忙しいの?」
「あー、いや・・・」
心配そうに自分を見る息子と娘を見て、彩斗はどこまで語った物かと考えこむ。そうして、しばらくして決心がついたらしい。
「まあ、忙しいっちゃあ忙しいんやけど・・・そっちと関係無い。ええか、母さんには黙っとけよ?」
彩斗はどうやら綾音には聞かれたくない類の話らしく、顔を二人へと近づけ、小声で話し始めた。語らないで彼らを不安にさせるよりも、少しでも情報を与えて、不安を解きほぐす事を選んだのだ。
「詳しいことは話せんねんけど、もしかしたら海徒の行方が掴めるかもしれん。今、会長さんがかなり忙しゅう動いとってな。俺も始めは眉唾やと思っとったんやけど・・・どうにも、もしかしたらかなり正確に分かるかも知れん」
小声で、彩斗が二人に告げる。カイトとは、行方不明になった兄の名前だ。この結果が悲惨な物や、成果が出なかった場合、せっかく持ち直した綾音の精神が再び変調をきたす可能性は高かった。それ故、彼は黙っておけ、と言ったのだ。
その話を初めて聞いた時、彩斗は思わず耳を疑い、不遜にも彼の勤める会社の会長が孫が居なくなった――孫はカイトの同級生で、彼女も事件に巻き込まれている――影響で遂に狂ったのか、とさえ思ってしまった。それほどまでに、その当時の彼の会社の会長の取り乱し様は凄まじかったのである。
「会社って・・・天道財閥?」
「ああ、そこの会長さんが、母さんさえも知らん事を教えてくれはった。そして、協力してくれ、ってな」
浬の問いかけを受けて、彩斗が真剣な目で頷く。それを聞いた時、彼はにべもなく頷いた。取り掛かっている業務はかなり激務であるが、それさえも苦にならないほどであった。
選ばれた面子は、彼と同じように子供達を天桜学園に通わせている親達だ。それ故、誰もが喩え眉唾な方法であっても、熱心に取り組んでいるのである。
「まあ、そういうことやから、当分は忙しくなる」
「でも、倒れないでね」
「倒れておれんわ。ガキが何処でどんな怖い思いしとるかもわからんのに、親がきばらんとな」
にっ、と父が笑う。その笑顔は、今の海瑠よりも数年前までの兄に近かった。そしてその笑顔に、姉弟は不安をほぐされる。兎にも角にも、父は大丈夫そうだ、と理解出来たのだ。ならば、仕事を頑張って、と言うしか無かったのである。
「そっか・・・お父さん、頑張ってね」
「はーい、お父さん、ご飯出来たよー」
「おー、腹減った。頂きます」
丁度話が一段落着いたところで、綾音がお盆をもってリビングへと入ってきた。そして、彩斗が味噌汁に口をつけ、ほっと一息ついた。そうして、しばらくは家族で朝食の時間を共有する。
『本日のゲストは俳優の一津屋 和成さんと蘇芳 正宗さん、藤堂 菫さんです。三人は現在収録中の時代劇、立花三代記で・・・』
「はぁー、やっぱりモデルさんって綺麗よねー」
結局子供番組は嫌という子供達に説得され、無難な情報番組へと変更したテレビを見て、綾音が呟いた。テレビに映っていたのは、3人の芸能人だ。その中の一人の女性――菫という人物――が、元モデルで現在女優だったのである。
「何言うとんや。ここに女神がおるや無いか」
「もう、さーくんったらー」
そう言ってイチャイチャし始める両親を見て、浬が手で団扇を作って仰ぎ始める。何時までたってもバカップルが治っていない両親であった。と、そんな両親に対して呆れた浬だが、丁度食べ終えた事で、お皿を持って立ち上がる。
「はいはい、朝からごちそうさまでした。あ、もう一個おまけでごちそうさまでした」
「僕もごちそうさま・・・あ! お姉ちゃん! 遅刻しちゃう!」
「あ! マズ! ほら、海瑠! 急いで鞄持った!」
「うん!」
暫し家族団欒を楽しんでいた浬と海瑠であったが、ふとテレビに表示された時計を見ると、既に出発の時間であった。それに驚いて、二人は大急ぎで用意を整え始める。
「いってきまーす!」
「きいつけろやー」
「いってらっしゃーい」
そんなのんびりした両親の声を背に、二人は登校するのであった。
お読み頂き有難う御座いました。次回投稿は来週土曜日21時です。
2016年3月13日 追記
・誤字修正
『綾音』とすべき部分が『魁音』になっていたのを修正
『送れる』とすべき部分が『遅れる』になっていたのを修正
2016年8月7日 追記
・誤字修正
『カイト』の漢字が『海従』になっていたのを修正。『徒』の方です。