第190話 優しさと甘さと甘美な女神
煌士らが車に乗って移動していた頃。浬らはというと、僅かに顔を青ざめていた。勿論、彼女らとてわかってはいた。戦いが起きるとなった時点で、血が流れる事は。
だが、それがよりにもよって人と人同士で起きるとは、そしてその片方がまさか自分達より幼い少女だとは思わなかったのだ。それが、彼女らへと如実にこの世の現実というものを突き付けていた。
「・・・こんなの、本当にあるんだ」
「当たり前だ。そんなの、貴様らだってわかっていただろう。ただ、語られないだけだとな」
浬のつぶやきに、その回収を頼まれたフェルがただ冷酷に現実を突きつける。とは言え、それはわかっている。所詮表向きの外交交渉等は綺麗事と言えるのだ。その裏では、自分達が有利になる為に平然と人命と人道を無視した殺し合いが繰り広げられている。それぐらい、いくらなんでも浬達だってわかっている年頃だった。
「だが・・・貴様らとて覚えておく必要はある。日本だって、同じ様に密かに命を散らせている奴らが居る。貴様らの日々の安寧の為に、その血を流した者達は多い」
「そう・・・なの?」
「そうだ。だから、平和とは大切なのだ。誰もが争いが好きなわけではない。私とて争いは嫌いだ」
鳴海の問いかけにフェルは一切の嘘偽り無く、正直に明言する。常に傲岸不遜な彼女であるが、彼女とて戦いは嫌いだ。やらないで良いのならそれは避ける。が、避けられないのなら避けないという覚悟があるだけに過ぎないのだ。
「そうだな・・・空也の父。その前の総理大臣は貴様らも知っているな?」
「え? えっと・・・内藤総理だっけ?」
話の流れで問われた鳴海が数年前に不慮の事故で引退した総理大臣を思い出す。あの当時はかなり慌ただしい話になり、連日連夜テレビで報じられていた。幾ら一般家庭だろうと記憶に残っているような大事件だった。
「奴は、その一人だった」
「え?」
「わからんか? 内閣総理大臣が落石なぞ・・・普通にありえん。落石があり得る道なぞ通るはずがない。奴は暗殺されかかった。幸い、貴様らが出会った刀花達が間に合って救われたがな」
フェルは天神市より西、奥多摩の山中を見る。そこで、事件が起きた。あの当時の戦いをきっかけとして、今の世界情勢は構築されていた。そうして、その時の被害を少しだけ語る。
「が・・・内藤を庇って秘書は亡くなったし、運転手もどちらか一方しか救えない状況で応急処置が間に合わずに亡くなっている」
「そう・・・だったの?」
「ああ・・・覚えておけ。貴様らが暮らすこの平和は、その誰かの血によって守られている物だ。戦争が終わったから、誰も血を流さなくて良い。そんなことは戯言以下。夢想や空想に過ぎん。平和となれば、暗闘が始まるだけだ。知られない、というだけで血は流される。その平和を守る為に、誰かが闇の中で血を流している。そして貴様らが流そうとしている血もまた誰かの、貴様らの家族の平和の為の血だ」
フェルはかつて長として天使を率いた者の風格を纏い、これから死地へ挑む事になる浬らへと告げる。誰だって、逃げたいのだ。が、逃げればどうなるか、というのはこの一幕でよく理解できた事だろう。
「そしてだから・・・覚えておけ。こういう奴らが、貴様らの平和を守ってきたのだと。そして喩え巻き込まれたからとて、貴様らも血を流して守るべき立場になったのだ、と」
フェルは結界の中をせわしなく飛び回る陰陽師達を指し示す。彼らは、誰に知られる事もなくこの日本の平和を守ってきた。そしてこれからも、人知れず守っていくのだろう。
誰も楽しそうにはしていない。これは、遊びではないのだ。人格破綻者でもなければ、楽しいはずがない。辛いし、苦しいのだ。生まれを選べない以上、彼らだってある意味巻き込まれたに等しいのだ。だが誰かがやらねばならないからこそ、彼らがやっているのである。
「そして、私も永遠に貴様らの事を忘れまいよ。逃げたいだろう。誰かに任せたいだろう。だが、それはさせられん。これは貴様らが考えている以上に、辛い事だ。挫折もするだろう。大いに、挫けて良い。だが、逃げるな。立てないのなら、私達が立たせてやる。その為に力は授けてやる」
フェルは真剣な目で、浬達へと覚悟をするように告げる。おそらくシルフィもまたその覚悟をさせる為に、彼女らを巻き込んだのだろう。良くも悪くも、カイトは甘い。特に彼は身内には甘い。それ故、どこかで見せねばならない現実を避けようとする。
これは彼の欠点の一つと言って良いだろう。それ故に彼は人足り得る事でもある。が、それを見せねば待つのは悲劇だ。故にシルフィがこの一件を使い、汚れ役を買って出てくれたと言ってよかった。勿論、そこには自分に縁のある少女を守りたいという彼女の思惑もあるだろうが。
「・・・凄いのね、フェルちゃんって」
「今更、気付いたか。なにせ、貴様らのようなぺーぺーの新人共を何万人と面倒を見てきたのでな」
浬の僅かな称賛の乗った言葉に、フェルが傲慢な口調で優しい笑顔を浮かべる。とりあえず、殺し合いを見た事に対するアフターケアはこれで良いだろう。別に一気に慣れさせる必要はない。ちょっとずつ、慣らしていけば良い。
「帰るぞ。今日はもう、休むと良い。明日からも日々は続く。そして、貴様らは歩かねばならんのだからな」
フェルは浬らへと帰宅を告げる。そうして浬らはこの日は式神を各々の自宅へと帰宅させ、フェルの手で特殊な調合をされたお香を密かに炊かれて、隠れ家の中で眠る事になるのだった。
さて、明けて翌日。この日も沈んだ状態で始まるのかと思われた一日であるが、そんな事はなく非常にスッキリとした目覚めが浬へと訪れていた。
「んぁー! あー・・・そっか。そう言えば昨日は泊まったんだっけ」
朝一番に見える光景が違う事を見て、浬は昨夜隠れ家に泊まった事を思い出す。そうして疑問に思ったのは、妙に気分が晴れやかだな、という所だ。
「んー・・・ま、いっか」
気にはなるが、どうでも良い事でもある。故に浬はそのまま上物のベッドから飛び降りる。隠れ家は元々が豪邸という事もあり、中の調度品の類も相当に高価な物で仕上げられていた。故に寝心地は抜群だった。と、そうして向かったリビングでは、フェルと煌士――カイトから大目玉をもらう為後から合流した――が既に朝の紅茶を飲んでいた。
「ああ、起きたか。貴様も飲むか?」
「おはよう! うむ、元気で何よりだ!」
「あ、うん。あとあんたは朝っぱらからうるさい・・・」
浬は寝間着として持ち込んだジャージのまま、フェルの促しに従って煌士の大声に顔を顰めながらソファへと腰掛ける。こちらもやはり、良い品だ。沈み込むだけではなく、まるでお尻を包み込んでくれるかのようだった。
「調子は・・・大丈夫そうだな」
「うん。なんか寝たらスッキリした」
「それは良い事だ・・・まぁ、ドーピングなのだがな」
浬の言葉に一つ頷いたフェルは、彼女にバレないように密かに呟いた。彼女が眠る彼女らの横に炊いたお香は、精神的に落ち込んだ時等に使えばそれをしっかり処理出来るようにしてしまう魔術的な力のあるお香だった。結構高価な物なのだが、彼女はそれを惜しみなく使っていた。
「ふぅ・・・」
浬はいつもの様にメイド姿の少女から差し出された紅茶を飲む。どこの銘柄なのかは彼女にはわからないが、相変わらず美味しかった。
「美味しい・・・」
「濃厚だろう? 最高級のアッサムだ。ミルクティーによく合う。各国の上流階級が飲むような品だ。貴様らの小遣いでは決して、手が届かんぞ」
「そう言われても味の違いなんてこいつでもないとわかんないって」
フェルの軽口に浬は気軽に笑う。今日は一日、学校は休んで良いと言われている。式神が受け持ってくれるらしい。おまけに勉強については別に問題ない。そして体育についても問題はない。それより、精神面が落ち込まないようにするのが大切だった。
「そうか・・・貴様の腕もまだまだだそうだぞ」
「精進致します」
フェルの言葉にメイド服の少女が一つ、頭を下げる。彼女は首元にチョーカーを装着していて、よく紅茶や食事等の世話をしてくれているメイドだった。と、そんな少女を見てふと浬が疑問を得た。
「そう言えばさ・・・皆可愛い子ばっかりだけど、式神って全部そうなの?」
「ん? ああ、こいつか。む? そう言えば貴様・・・浬らに自己紹介していたか?」
「え?」
フェルの言葉に浬が首をかしげる。浬らがここでの生活を始めた頃、炊事洗濯については一括して式神達がやってくれると聞いていた。
というわけで語られることこそ無いものの少女だけではなく何人もの式神少女がこの隠れ家では動いており、それが適時ジュース型の回復薬を提供してくれたり、汗を掻いたジャージを洗濯し、今日もまた寝ていた布団を洗って干してくれることになる。
が、式神という事で名前を教えられた事は一度もなかった。今のように浬らはチョーカーや髪色、髪型等でメイド服の式神達を見分けていた。
とは言え、お世話をしてくれているのだ。名前があるのであれば名前の一つは聞いておこう、と浬も煌士も思ったようである。煌士が興味を抱いて問いかけた。
「あるのか。それは失礼をした。式神とは言え、女性の名を聞かぬとは・・・出来れば、教えてはくれんか?」
「はぁ・・・シギンと申します。お見知りおきを」
「ごふっ!?」
優雅に紅茶を飲んで問いかけた煌士の問いかけに、シギンというらしいメイド服の少女が頭を垂れる。が、その名を聞いて、煌士が思い切りむせ返った。
「ああ、煌士様! どうされました!」
「ごふっ! ごふっ! い、いや、すまん・・・だが、シギン!? まさか、あのシギンか!?」
むせ返って粗相をした煌士にあわててハンカチを差し出した詩乃からハンカチを受け取りながら、目を白黒させながら再度問いかける。その名を北欧神話の神々にも繋がるフェルらが何の意図も無く名付けるとは思わなかったのだ。であれば、一つの答えが彼の頭の中では導き出されていた。
「はぁ・・・どのシギンかは存じ上げませんが・・・とりあえずシギンです」
「・・・」
「その、シギンで良い。言い忘れていたが、こいつだけは式神ではない。この屋敷の式神を操っているのはこいつだ。当たり前だが、私達も出ている時にも屋敷の管理は必要だからな。面倒だったのでこいつに管理を預けていた。イギリス行きだの何だのとすっかり紹介を忘れていた」
ゆっくりと視線を向けた煌士の無言の問いかけに紅茶を飲んでいたフェルが頷いた。これに、浬は首を傾げる。
「何? その詩吟って。歌うの? 吟じます?」
「その詩吟ではない! シギンだ! 北欧神話の女神! かのトリックスターの代名詞ロキの妻というべき女神だ!」
「え゛」
式神と思っていた少女が実は本物の神様だった事に、浬が思わず思考停止する。流石に彼女もロキの名は知っている。その妻が何故、とただただ疑問だった。と、いうわけで大慌てで浬が問いかける。
「え? そのシギンって女神さまがなんでこんな所で? しかもメイド?」
「ロキ様より、もう貴様は要らないのでカイト様に差し上げる、と献上されました。ロキ様曰く、流石に幾ら女神だろうと数千年も貴様の身体を楽しめば飽きる、とのことです。最近、ロキ様も女性のお体に凝っておいででしたし・・・突っ込めないこの身体ではな、と」
「「「・・・」」」
浬も煌士も詩乃もあまりに無体な扱いに思わずシギンに同情し、ロキに対して大いに憤慨してドン引きする。数千年連れ添った妻を飽きた、の一言でポイ捨てだ。ロキらしいといえばロキらしいのかもしれないが、それはそれで人としてどうなのだ、と思うばかりである。
なお、この時は流石にカイトもあまりの扱いに一発ロキをぶん殴ったらしい。とは言え、そういうわけではなかった。故に、フェルがため息を吐いた。
「はぁ・・・そんな顔をするな。何気にこの女、全くへこたれていないぞ」
「・・・」
「え? 良いの、そんなので・・・」
無言だがどこか同意するようなシギンを見て、浬が大いに引きつった顔で問いかける。それに、煌士も若干頬を引きつらせつつ彼の知り得る神話を思い出した。
「ま、まぁ・・・神話でもシギンはどれだけ酷く扱われようとロキに甲斐甲斐しく尽くしたという・・・と、当人が良いというのであれば、良い・・・のではないだろうか」
「えぇ? 絶対駄目だと思うけどなぁ・・・」
「・・・全然、駄目では」
「「え?」」
ぼそり、としたシギンの言葉に浬と煌士――ついでに詩乃も――が思わず彼女に注目する。それに、フェルがため息を吐いて首を振る。
「こいつは所謂ドMだ。しかも超絶のダメンズだ。先の一件の後、こいつがどうなったと思う」
「え?・・・えっと、ショックで泣いたとか・・・?」
フェルの問いかけに浬が有り得そうな事を述べる。が、フェルはそれに首を振った。
「気絶した」
「あー・・・ショックだろうからね・・・」
「違う。ショックで気絶したのではない。気持ちよすぎて気絶しやがったんだぞ、この女は」
「え?」
「・・・」
フェルの言葉にシギンは無言だ。が、頬は僅かに赤らんでいて否定はしていない感じがあった。
「・・・」
「「「・・・」」」
浬ら三人は無言を貫くシギンから少しだけ距離を取る。本人が満足しているのであれば何よりであるが、これはこれでどうなのだろうか、と思わないではなかった。
「ね、ねぇ・・・ダメンズって・・・お兄ちゃんはどう思う?」
「好みです。特に夜が。マニアック過ぎなければ大凡のプレイには応えてくださります。ロキ様、ああ見えて意外とそこまでマニアックな事は好まれませんでしたし・・・」
「はぁ・・・X指定の話はするな」
「・・・」
あ、この人色々と駄目な人だ。どこかうっとりとした様子で頬を赤らめつつも一切躊躇いない暴露に、浬は直感でシギンをそう判断する。と、そんな浬にフェルがため息を吐いた。
「言い忘れていたが性格が性格なのであまり無駄な事は喋らすなよ。甲斐甲斐しく世話を焼くが、同時にロキ並に厄介な性格だ、この女は。ロキが物事を引っ掻き回すのが趣味だとすると、こいつは虐められるのが趣味だ」
「・・・」
「・・・」
ポッ、と頬を赤らめるシギンに浬はこの女神の性根が危険、それもかなり危険だと把握する。
「ああ、なんだったか・・・カイトの奴は主治医を思い出したとか云々言っていたか。シギンの扱いも慣れているらしいな、あの男。懐くのも大層早かった」
「懐いているだなんて、そんな・・・服従しているだけです」
もじもじと身を捩り顔を赤らめながら、シギンが断言する。それに、浬らはもう一歩後ろに下がる。そろそろソファからずり落ちそうである。色々な意味で相当危ない女神だとはわかったようだ。
と、そんな浬がふと問いかけた。このチョーカーは何かに似ているな、と思っていたのだが、ようやく理解出来たのだ。犬の首輪に似ていたのである。
「・・・もしかして、そのチョーカーって」
「・・・なんだと思いますか?」
にこやかな笑顔でシギンが首に装着しているハートマークの装飾が施されたチョーカーを指し示す。その言葉に促されてよく見れば、ハート型の装飾には何らかの名前が刻まれている。それは文字の様だ。と、じっくり見せる為に浬へとゆっくりと近づいていくシギンに対して、即座にフェルがチョップを御見舞する。
「あうっ!」
「やめんか、馬鹿者。保護者権限で貴様はそれ以上の接近は禁止だ」
「うぅ・・・」
「はぁ・・・あの男。駄目な所があるとすれば、女の趣味を見境なしに受け入れる所か。ノーマルからアブノーマルまで大半がどんと来いだからな・・・」
フェルは呻くシギンを見ながらカイト最大の難点を口にして、ため息を吐いた。なんというかあの男。女性関係に関しては奔放らしい。昼夜問わずに大抵の望みは叶えてやろうとするらしい。というわけで、現状にシギンは一切の不満は無いそうである。
「うぅ・・・神話では近親姦なぞ普通だというのに・・・」
「・・・やはり、それが目的か。それは神話だけにしておけ。現代はアウトだ」
「・・・」
シギンのどこか肉食獣的な視線を感じ、あ、もしかして自分、ロックオンされてる? と浬は内心で危機感を覚える。それに、フェルが断じた。
「覚えておけ。こいつの世話は確かに一流だ。が、このメイド服を着ているのも、こいつの性癖によるものだ」
「そんな・・・ご主人様のご提案に沿っただけです」
フェルの言葉にシギンが抗議の声を上げる。この場合のご主人様とはカイトの事だ。が、そんな彼女をフェルが睨みつけた。
「ほう・・・ではぬ・・・いや、今は脱がんで良い。貴様は本当にここで脱ぎかねん。明日の朝からは別の服を着てこい」
「わかりました」
「言っておくが、巫女服も駄目だぞ」
「え・・・そんな・・・」
フェルの命令にシギンはまるでこの世の終わりとでも言わんばかりの表情を浮かべる。ロキに捨てられた時にだってこんな顔はしなかっただろう程だった。
実のところ、メイド服の他にも巫女服も彼女はよく着る。どちらも理由は一つだ。女神という奉仕される側が奉仕する者の服を着て人に奉仕するという倒錯的な立場に彼女は快感を得ていたからである。
というわけで、彼女としては主としては神であり幹部クラスのロキより普通の一般人であるカイトの方が良いらしかった。なお、一応間違いの無いように敢えて言及するが、発案者はカイトである。主従どっちもどっちである。
「はぁ・・・貴様はそういう女だ。決して、安易に近づきすぎるなよ。ロキ並にヤバイぞ、この女は。好物が禁断、とか駄目、とかそういう単語だからな。パンドラ並にパンドラの箱を渡しては駄目な人物だ。下手にうっかり近づくと食われるぞ・・・勿論、性的な意味で、だ」
フェルの忠告に浬は現在進行系で身を以てこの清楚で可憐な女神が危険人物だと理解する。そうして、この日から浬はなるべくシギンからは距離を取って行動する事になるのだが、逆にシギンは浬を獲物と見定めて甲斐甲斐しく世話をされる事になるのだった。
お読み頂きありがとうございました。ロキ・シギンらの事については断章の二度目の北欧神話編にて触れる予定です。




