第四話
―1―
太陽が地平線から顔を出し、夜から朝の柄へと空の帳が塗り替わる。
そのことに疑問を抱くことが無くなったのは、この世に生を受けた時から数えることも面倒になる程に陽の浮き沈みを繰り返し体験してきたからか。
上半身を寝床から起こした紫鷹は、閉じた木窓の隙間から差し込む何条もの光の中に舞う埃をのんびりと眺め、異世界に来てから二度目の朝が来たことを知る。
そしてふと、異世界にも普通に太陽があるんだな、という特に意味もない思考をしながら顔の前に右手を持ってくる。
じゃらりと、鎖のブレスレットが軽い音を立てた。昨日から装備し続けているそれは明らかに輪が手首よりも大きく、手を上げたことで肘近くまで下がってしまっている。
しかしこの鎖、昨晩に色々試したものの、どう手を動かそうとも手から外れることがなかった。意識して操作をすることでようやく離れたが、気を抜けば元通り。
新たな仲間的な道具、華藤丸から『あ、色々変えられるけど両手から鎖は消せないよ?』という言葉をもらい、特に鎖を付けていることに嫌悪感を持っていなかった紫鷹は紋様に戻すこともなくそのままにしていた。
一日ごとにと鎖の状態を変えてみるのもいいかと考えながら、なんとはなしに、右掌の開いたり閉じたりを繰り返して。最後に、グッと、拳を握って。
ぽつりと。
「……ああ、なんか、変わったな」
淡々とした口調は変わらず、呟いた。
使い慣れない物に慣れるためには日常的に使っていればいつの間にか慣れているもの。
そんな精神の下、ぐーすか眠る人間の片足をそれぞれ腕から伸ばした鎖で捕えて突然吊るし上げる的な目覚ましで起こした紫鷹と起こされた二人は、起きてそれほど時間を経たせずに森へと足を運んでいた。
木末で跳ね、木枝で跳ね、樹幹で跳ねる。
あたかも全ての人の通る道であるかのように平然とした様子で樹を駆けていく三人だったが、ただ酔狂でそれをしているわけではない。
無論上から獲物を探しているという目的もあるが、それだけではなく、体の調子を確かめることも兼ねていた。
突如として強化された身体能力は、はっきり言って彼らが今まで生きてきた中で扱う膂力とはかけ離れた物。
実際、異世界トリップ初日の初戦闘前までは、地球での体を扱う感覚に従い、スタミナ以外の身体能力も地球時のそれになってしまっていた。
戦闘時には思考を切り替えて使えはしたものの、結局は使っただけで使いこなしたわけではない。あくまで技術で補える範囲の力しか込めてはいない。
昨日のオオトカゲ討伐において、一葵が感情に任せて力を引き出したことで未だ自分達の身体能力に限界が見えていないことが判明しており、どこまで上昇しているのか予想すらできない。
どのような強敵が出現するかも分からない異世界で自身の能力を把握しきれていないというのは、状況判断を鈍らせ、容易に死を招く結果となる。
地球で軽く体験したサバイバルのレベルを引き上げたかのような異世界では、人が死ぬことなど日常茶飯事であることを彼らは理解していた。
故に、出来うる限り早く自身のことを知るために徐々に森を駆ける速度を上げたり、無駄にアクロバティックな行動に出たりしていたわけだが。
すでにイノシシ二頭を狩り終えた三人は駆けるのを止め、木々に囲まれ水面にて斑な光が明滅する湖を樹上より眺めつつ、各々楽な姿勢を取っていた。
「……なんか、あの時みたいだね。何処かに黒いの浮かんでる?」
「明るいお天道しかねぇよ」
「あとは真っ白な綿飴だな」
「うわ、綿飴食べたいかも……もう食べられないのかなぁ」
枝に座り込む暁良は地球に帰ることが出来ない可能性を考えての名残惜しそうな内容の発言をするが、見た目からは特に気にしている様子も無く、優しく頬を撫でていく風を感じつつゆったりとした笑みを浮かべながら、足をぶらぶらと動かしていた。
それに反応するように枝に立ち、幹に寄りかかっていた紫鷹が首を傾げる。
「うん? ……いや、砂糖さえあれば作れるぞ。魔法もあるからな、おまけで果物の風味もつけてやろうか?」
「うわお、寂しさを覚える暇もないタカの全能感が怖い」
「今更すぎて怖いとも思わねぇわ、オレは」
「あ、そだね」
「やかましい」
笑い声と溜め息が重なり、楽しげな音が勝って湖畔に響く。
水を求めてほとりまで近づいた小鳥や小動物達が反応して一度散るが、害が無いと判断した幾ばくかが戻ってまた飲み始める。
その光景は平和そのもの。
それを崩す気は彼らに無く、どうせ狩るのであれば大物を狙いたい。
地球的に珍しい四本耳のウサギなどが見受けられたが、興味深そうに眺めるだけで、獲物にしようという考えは浮かばない。
飢えを覚えないかぎり、愛でるに値するものは愛でるのが、三人の信条だった。
「……それで、齟齬はどれほどだ?」
「どれほども何も……調子が良すぎると思ったら、これ段階が一つ上がってんじゃねぇか? 出力高すぎてむしろ調節がむずい」
「ギア一つ違うって感じかなぁ。あ、でも五感とか動体視力が良くなってたのがさらに引き上げやすくなったみたいな感じだから……ブーストにかかるコストが軽減されて、さらに使用がお手軽に、ってところ?」
「ふむ、確かにそんな感じかもしれないな」
特に気負うような雰囲気を出さず、まるで道具の使用感を口にするかのような二人の言葉に、紫鷹は否定すること無く頷く。
何に関することかと言えば、総じて自身の体に関すること。
己に対し数倍の体躯を誇るトカゲを圧倒しきった身体能力を得ることになった彼らは、確かにその限界等を把握しきってはいなかった。
しかし、異世界に来て三日目の彼らの体は、そんなこと関係がないというように、初日よりもさらに出力を増加させてしまっていた。
その理由は分からない。
ただただ流れのままに、気分のままに行動して、目覚めた時にはすでに上がっていた力。
元々得体の知れなかった代物が、根拠不明瞭な状態でさらに磨き上がっていた。
街から出て一時間。
体を動かし、五感を働かせて悟ることができたそれは、まさに不可解な現象。
何故このような事態に陥っているのか、そもそもこの湧き上がる力は何なのか。
余りにも不思議で、もしかしたら不気味な物が、何かが身の内に潜んでいるのではないか……と、疑惑の念を抱いてもおかしくはないのだが、彼らはそんなことを一切考えず、というか考えても一切気にしない様子で、その事実を飄々と受け入れていた。
彼らの胸中にあるのは、とりあえず扱うことになったその力を、如何に使いこなせるようになるか。
「ああ、めんどくせぇ。また感覚が狂っちまったから、一つ一つ確認していかなきゃなんねぇじゃねぇか。もう一日で全部終わらせっか? 全力出し切ってみっか? 夕食のたくあん賭けて誰が最初に慣れるか勝負すっか?」
「そうだねぇ、一回本気出してみた方が早いかもね。あれ、そういえばもしかして、地面殴ったら地盤が崩れて地下空洞に落ちるとかできるのかな……どうしよう、ちょっとやってみたいシチュエーションかも。あ、ちなみに賭けるなら僕はごはんがいい」
「とりあえず地面をぶちぬく可能性は小さいにしても、現状の技術でどれほどのことができるのかくらいは知っておいた方が無難だろう。手加減を間違えて街を半壊させました、じゃ面倒事にしかならん。そしてごはんもたくあんもまだこの世界じゃ見てない、賭けるなら味噌汁だ」
「「味噌汁も見てないから」」
超シンプルな和食の献立を妄想して賭けの品に持ち出す三人。
もはや理由不明に上昇した身体能力のことなど忘れて今日の夕飯は何にしようかという話題にシフトしそうな空気が漂い始めたところで、紫鷹の頭に声が響いた。
『ふわう……おひゃようごじゃます……』
「今起きたのか。というか異様に静かだと思えば寝ていたのかお前は」
拙いにも程があり明らかに寝ぼけていることを隠そうともしない声音に紫鷹がツッコミを入れる。
傍からは唐突に誰かへ語りかけているような独り言をしているようにしか見えないが、いきなりのそれが何なのかを知っている暁良と一葵は特に驚くような反応もせずに、紫鷹の言葉から推測をして話しかける。
「なんだ、藤のは今起きたのかよ、寝坊助だな……いやちょっと待てよ、武器って寝るのか?」
「へー、華ちゃんって眠るんだねぇ。タカが話しかける様子が無かったから、何か怒られるようなことをして罰ゲーム中なのかと思ってたよ」
『ふぇっ!? ハナお館様に怒られてるの!? お館様怒ってるの!? ごめんなさいお館様ごめんなさい怒らないでぇっ!』
「リョウ、華藤丸が残っていた眠気を一気に発散させてまで混乱して泣き始めているから滅多なことを言うな。大丈夫だ華藤丸、俺は怒ってないぞ」
「ありゃ、それは悪いことしちゃったね……華ちゃん大丈夫だよ、タカは怒ってないから」
「お前ら、武器に眠気が残ってただの泣き始めただの、全く気にしねぇのかよ……いや、まぁオレもどうでもいいんだけどよ」
脳に直接響く鳴き声に頭痛染みた感覚を味わいつつ暁良と共に腰の剣鉈を慰める紫鷹の姿を、苦笑を携えて眺めながら一葵は欠伸を一つ。
そして湖に視線を向け、異様に透明感のある綺麗な水を見て(環境汚染とかとは無縁なんだろうなぁ)と現代地球人的思考をこなしたところで、ふと首を傾げた。
「あれ? アオどうしたの、小首なんて傾げて。可愛くないよ?」
「うっせぇ、んなこと思われたくもねぇよ」
「あ、ごめん間違えた。気持ち悪いよ?」
「他の言い方をして心に傷を負わせてくれとか言った覚えはねぇんだけどなあ!?」
ナチュラルに罵倒してくる暁良に溜め息をつき、一葵はがしがしと乱雑に頭を掻きながら視線を紫鷹達の方へと戻す。
慰めを終えた紫鷹も一葵の方へと顔を向け、話を聞く体勢に入っていた。
「それで、どうした? 何か気になることでもあったのか? 透明な水を見て自身の心が有害ヘドロ並に汚れていることに今更ながら気がついたのか?」
「なんでお前らは呼吸をするようにオレを罵ってくんだよ明らかにお前らの方が汚染度高いだろうが!」
「ふっ」
「何を少し嬉しそうにちょっと口角上げて笑ってんだよ別に褒めてねぇんだよバカ野郎! ……で、リョウはいきなりなんでしょげてんだ?」
「……有害ヘドロ以上の汚染度なんだ、僕……」
「ガチへこみしてんじゃねぇよ! そしてさりげなくオレの心汚染度を有害ヘドロ並という認識で通そうとすんじゃねぇ! なんなんだ、お前らにとってオレの心汚染度はなんなんだよ!」
「「世間の常識」」
「オレへの弄りのために世間の方々を巻き込むんじゃねぇよ!」
「ん? 己の醜さに焦点を当てたわけではないのだとしたら……そうか、湖にあるヘドロに溶けたいと、そう思ったわけだな?」
「ちげぇよ!? したり顔で当たりだろって言いたそうにしてるけどちげぇよ!? オレ体までヘドロになりたいとか思わねぇよ!? いや別に心はヘドロじゃねぇけれども!」
「タカ、ダメだよ……まだ、教えるには早いと、思う」
「……そう、だったな」
「いやなんでいきなり悲壮感を漂わせて何かの秘密を抱えてます的空気を出してんの!? なんですでにオレヘドロになりかけてるけどオレは気づいてなくてお前らは何も言わないでいるみたいな感じになってんの!? ていうか分かった、今日オレがアウェイな日だろ、そうだろ!」
三人でいる際に必然的に訪れる話の種不足。
それを補うために自然と行うことになった一人か二人をネタに使い弄ることを「アウェイにする」という単語で彼らは表現し、アウェイにされた人間はアウェイな日として大体一日を過ごすことになる。
稀に数日に渡りアウェイ的役割が続くこともあるが、騒ぐことを拒絶しない彼らは親友を生贄に……アウェイにすることに躊躇わない。
だがそろそろ真面目に話を聞こうかと、紫鷹が演技的悲壮感を何処かに押しのけてアオの方へと顔を向ける。
「まぁ冗談はやめるとして、一体何が気になったんだ? ちょっと言ってみろ、さっきから話しているヘドロ語じゃない言語でな」
「オレ今までヘドロ語とかいう意味の分からない言葉で話してたの!?」
訂正、顔は真面目でも吐かれた言の葉がふざけていた。
「というかヘドロ語って何!? 一体どういう言語!?」
「主に「ゴポォ」と「ボブェ」、そして「オレクサイ」の三つのイントネーションを使い分けて意思疎通する言葉だよ?」
「三単語のイントネーション変化だけで会話するとか無駄にすげぇなヘドロ語! というか絶対最後のおかしいだろ! お前らそのヘドロ語を解ってオレと会話してたのかよ! いや別にオレはヘドロ語とか使ってねぇけど!」
「さっきからオレクサイオレクサイ五月蝿いぞ、そんなこと周知の事実だ」
「ボキャブラリーが無いよね、もっと「ゴボォ」と「ボブェ」も使おうよ。意味は分からないけど」
「なんでオレクサイ連呼してることになってんだよてか意味分かんねぇならオレの言葉理解してるように返事すんじゃねぇよそもそもオレがその意味不明言語使ってるような流れやめろぉおおお!」
『お館様達は賑やかだね?』
感情が落ち着いたらしい華藤丸が、紫鷹の頭へそんな感想を投げかける。
紫鷹達三人のやりとりから出された言葉だったのだろうが、紫鷹からすれば賑やかというよりも騒がしいと表す方が心境的には正しい物。
しかしそうは思いつつも、基本的に年がら年中三人で行動して、何かしら有れば誰かがふざけて誰かがツッコミを入れるという一連をこなすことはもはや習慣と言ってもよく、むしろモチベーションを維持するためのツールであるということは、紫鷹自身も自覚していた。
場の空気が少々治まり、他に意識が移ろいやすくなったところで、一葵が視線を向けて首を傾げたであろう湖を紫鷹も見る。
その様子は湖畔に辿り着いた時から大して変わらず、水は澄み渡り悠々と泳ぐ魚達の姿すら遠目から窺うことができる。
特におかしな点は見当たらず、何に対して一葵が首を傾げたのだろうと紫鷹も首を傾げようとして、ふととある場所に目が行った。
「……泡?」
「え? ……あ、なんかブクブク出てるね」
紫鷹の呟きに反応してその視線をなぞるように目を向けた暁良が情報を補填する。
彼らの語る泡。それは湖の中央より外側の水面で浮き出てはすぐさま消えていくことを繰り返す、ただの水で作られていることを予想させる普通の泡だった。
大きさも視認できる限りそれほどではなく、大きくとも小石程度の物。
基本的に泡自体に不審に思える部分は無い。
しかし、その泡が出る頻度が高かった。
湖や沼で気泡が生じている光景という物は珍しくない。
それは水底に累積していた有機物が分解されて生じた物、温度の上昇に伴って水に溶けていた酸素や二酸化炭素がガスとなり生じた物など、湖で泡が浮かぶ要因は多岐に渡り存在しているからだ。
されど、絶え間なく数多の泡が浮かび弾ける光景という物は通常状態の自然で発生しない。
ダムや湖などで水の循環を目的に泡を発生させ続ける仕組みが設けられていることがあるが、それは地球における話である。
現在異世界にいる彼らが、それを目にする機会があるとは考えにくい。
「泡? ……ああ、なるほどな。なんか変だとは思ったけど、泡か」
紫鷹達の反応から、何故自分が違和感を覚えたのか納得した一葵が暁良達に向けていた視線を湖へと戻す。
彼らの居座っている木々から泡のある場所までは、遠い。
泡が弾ける水面の揺れも甚だしいとは言えず、普通の人間であれば気づかないだろうが、五感が強化され視力も上がっている彼らからすれば十分に見える距離。
それでも見えづらいことは明らかなのだが、いまさらそのことに何かを言う人間はこの場に居なかった。
「常に泡が出続けている……異世界特有の何かがあるか、空気を水中に持っていくような生物がいるのか。それとも空気溜まりでもあってそこから漏れているのか」
「なんだろね? 僕としては何かしら面白い物があって欲しいけど」
「そんなもんが手軽に転がってる状況ってのも想像出来ねぇけどな。で、どうする? 確認でもしに潜るか?」
「……いや、後何体かモンスターを狩って普通に帰る」
「そう? まぁ反対はしないけど……なんで確認しないの?」
「異常なのかどうかは、ギルドに報告して話を聞いてみればいい。基本的に近辺にあることは把握しているだろう。それに潜る暇があれば、体を感覚に馴染ませる事の方を優先した方がいい。俺は華藤丸の鎖も使いこなせるようにならないといけないからな」
湖から目を離し、紫鷹は気合を入れるように胸の前に持ってきた自身の右手首を左手で掴み、両手の握力を強める。
するとその動作に引きずり出されたかのように四本の黒鎖が両肘両肩それぞれから伸び、個々で異なる動きを見せ始める。
すでに腕を超える数の鎖が紫鷹の制御下で操作されていた。
ただし、全てを一人でやっているわけではない。
『うひゃー、お館様順応はやーい! でもハナも頑張っちゃうからねー!』
(ああ、頼む)
『頼まれましたー!』
脳内に響く喝を入れる元気な声。
それに紫鷹は心の中で返事をし、顕現させた鎖の調子を確かめる。
特に操作に関する負荷はなく、抵抗も感じはしない。
しかしそれは自身が操作に慣れたわけではなく、本来感じるべき負担や抵抗の分をこの能力の大本、華藤丸が担っている上に操作のサポートもこなしているためだ。
昨日、就寝するまでに色々と試みをしてみた結果、華藤丸に対する会話は言葉にせず強く念じるだけでも可能であることが分かった。
その上、顕現させた鎖に関することのサポートを華藤丸が行えるということも分かった。
その恩恵は格別した物であり、華藤丸単体で容易に五十以上の鎖が同時操作できるほど。
もはや紫鷹の意識が介入する必要はないようにも思えるが、それでも紫鷹の思い通りの動きを華藤丸が行っているわけではない。
強く操作の要望を念じればその限りではないが、それでもタイムラグが生じる。
最も速く、そして思い通りに操作するには自身で操る方が手っ取り早い。そしてそれを可能とするためには、鍛えるしかない。
その結論に至ることに、さほど時間はかからなかった。
「タカが現実離れしてくぜ……」
「もうあの頃のようには戻れないんだね……」
「安心しろ、お前らも直に異常染みた何かがまとわりつくことになる」
「「予言染みたフラグやめい」」
などと会話でふざけつつ、各々体を伸ばすなどしてこれからの運動のために準備を始める。
枝という不安定な足場など関係がないというように屈伸などをする二人を特に感慨もなく見つめる紫鷹は、ふと空を眺めた。
思うのは異世界に来る直前の穏やかな空と、黒い珠体。
そしてそれらを見た後に邂逅した、見知らぬ少女。
邂逅時にあった何かしらにも意識が寄るが、気にしないことにして考える。
あの場所は一体何処で、何故鎖に縛られていたのか。
彼女が口にした、魔王とはどういうことなのか――と思考を巡らせた所で、不意に腰の辺りで何かが動いた気がして視線を向ける。
そこにあるのは、真新しいベルトにぶら下がっている剣鉈だった。
(どうした?)
『うん? お館様、どうかしたの? ハナは何もしてないよ?』
投げかけた疑問に返ってきたのは、疑問を投げかけられる事自体に心当たりが無なそうな声音。
確かに何かしら動いたような感覚を覚えたのだが、答えからは華藤丸が何かをしたようには思えず、どんな感覚だったのか記憶を掘り起こす。
強いて言えば、縦や横に動いたようなものではなく、単純に膨張したかのような、そんなもの。
覚えがあるとすれば、華藤丸に名付けをした際の一瞬の鼓動。
「おいタカ、どうした? さっさと行こうぜ」
「今日は後イノシシ二匹かイタチの群れくらい?」
「ん? ああ、それくらいで止めにするか。じゃあ、行くぞ」
準備が整ったらしい一葵と暁良の声に、紫鷹は思惟を止めて顔を向ける。
何にしても、それほど問題のあるような物には感じられなかった。ならば気にしなくてもいいだろう、と紫鷹は二人を引き連れて鎖を駆使しながら、湖に背を向けて森を駆け始める。
離れていく湖で一際大きな泡が一つ、弾けた。
―2―
服を買おう。
異世界に来て三日目。
一応日の始めや終わりに魔法で出した水で洗い魔法の風や火で手早く乾かすなど忘れずにやってはいるものの(主に紫鷹が)、流石に三日間同じ服を着続けるというのは現代地球人の感覚で許容できはしない……わけではなかったが、とりあえず気分的に清潔感を出していこうと考え、三日目の午後は服を見て回ろうという話になった。
寝間着も無く、異世界に来て着る服が学生服ばかりというのも味気ない。
そう、何と言ってもここは異世界。であれば、異世界にしか無い服もあるだろう……と、街を歩き出した彼らが目にしたのは、なんとも見覚えのある服達だった。
「おお、お客さんこれ似合いそうだね」
「……ああ、裏地が赤で表地が黒か……確かに、似合うかもな」
「んん? だとすると……この襟巻きも一緒にどうかな? 白地に水色の雪の結晶とかいうのを柄にしたものだけど、大分映えると思うんだよね。ところでお客さん知ってる? 雪ってのは、何一つ同じ形をした物が無いんだってさ。信じられないよねぇ」
「ああ、そうだな」
少々意識を現実から逸らしながら、紫鷹は適当に受け答えをしつつ押し付けられて持たされている布に視線を向ける。
腕を通し、体の前で布が折り重なるように閉じながら、それが崩れないように帯を締める仕様の服。
和服。
それも袴を着ない着流しが、目の前にあった。
いや、予想外というわけではない。
何しろ、異世界に行く前に見ている少女の服装が和服であったのだ。
そのため驚きはしなかったが、異世界に来てまじまじと目にする機会が訪れるとは思いもせず、そしてそれを着るように勧められるとも、紫鷹は考えていなかった。
街で服を探した結論として、彼らのお気に召す代物は安物、古着を売っている服屋には無かった。
別に着られないこともなく、柄が少ないなど考えなければそれほど問題はなかったのだが、その大部分、着心地が悪かった。
布のつなぎ目が妙にザラザラとしたり、触り心地自体に満足出来なかったり。
それほど服に対し執着を持っていなかった三人も、なんか違うと考えて多くの店を後にした。
そして行き着いた先は、少々お高めで特殊な素材を、というか珍しいモンスターや植物、鉱物を素材にしている服が多くあるという店。
実際に入って商品を見てみれば、装飾も凝り、触り心地や試着してみた場合の着心地も悪くなく、それでいて現代地球人が想像する魔法使いが着そうなローブ等も置かれていた。
ここは当たりかもしれない。そう考えた三人は散って店内を散策し始め、そして、紫鷹は出会った。
和服以外の何物でもない服に。異世界感どうした。
「おいタカ、なんかスタイリッシュな軍服みたいのあったぜ! 臙脂色なんて採用してる国あんのか!?」
「ねぇ見てよ中華服みたいのもあるよ!? それも色んなデザインのやつ! なんか現代人が着そうにない感じのやつ!」
「そりゃ色々あるよお客さん! だって私が過去の資料とか色々調べた上で自作してるんだからね! えっへん!」
服を片手に持ちながら嬉々として続々と報告が為され、それに対し小さな体で自信満々に慎まやかな胸を張る紫鷹の目の前にいる少女。
背は紫鷹の腰より少し上。まさに幼女と言えるような背丈と容姿であるが、これで彼女は成人しているのだと聞いて紫鷹は驚いていた。顔には出さず「へぇ」と一言で済ませたが。
明らかに彼女が着るためのものではないサイズの服の列に埋もれてしまっている彼女の種族は小人族。
有名な言い方で言えばホビットやハーフリング辺りだろうと、紫鷹は予想を立てた。
この店は彼女と同じ小人族である夫と切り盛りしているらしく、旅をするものが多い小人族の中でも珍しく若い頃――口調や容姿は言わずもがな幼く、年齢が不詳に過ぎる――にナリオレンに住み着いたとのこと。
手先の器用さを活かし、先祖伝来で溜めた服飾系の書物に書かれている服を改造オア創造して商品にしているらしい。
つまり、和服等もその書物に有った、ということなのだろう。どの土地由来なのかは定かではないにしても、この世界に存在している衣服であるということはすでに明らかだ。
とは言うものの、まさかの和服登場である。
ノリを大事にする紫鷹、否三人に、異世界でのネタ服を買わないなどという選択肢は無かった。
「となると、甚平も欲しいところだな」
「ジンベイ? えっとね、お客さんには申し訳ないんだけど、私達作るだけで名前とか知らないんだぁ」
「あは」ととある趣味の人間が見れば垂涎当然の可愛らしい笑顔を浮かべる。
明らかに誤魔化そうとしているのが丸分かりだったが、彼女は「でもね」と続けると服が無数に掛けられたハンガーラックを漁り始めた。
「その服……えっと、お客さんワフクって言ってたっけ? そのワフクが書かれた本に一緒に載ってた服の中にお客さんの欲しいのがあるかも……えっと、ここらへんかな?」
そう言って小さな手で器用に持たれたハンガー達には様々な和系の服が並ぶ。
黒い割烹着や真っ赤な羽織、さらには真っ黄色な袴など。
明らかに色のチョイスを間違えている気がするもツッコまず、とりあえずその中から無難な配色の藍色甚平を見つける。
異世界での和服のレア度に対しさらに普通な配色というレア度をかけレア感が増した甚平。
そう聞くと何処と無くレアアイテムな感じがして、紫鷹は手に取りながらも不思議な感覚に駆られる。
わりと地球では家着として使っていた物であるため、甚平に対してそういう感覚を抱くというのは違和感を抱かざるを得なかった。
「んん? それがジンベイなのかな? あ、じゃあ出来ればでいいんだけど、ここらへんの服の名前も教えてほしいなぁ」
顎の下で手を握り、小首を傾げながら上目遣い。
後頭部で小さく結わえられている明るい緑色の髪がピョコンと跳ね、その姿は愛らしい。
そして格別にあざとい。
紫鷹がこの系統の服に造詣が深いことを聞かずとも話の内容で悟り、服の名を教えてもらうことが出来れば広告しやすくなると見込んでの頼みであることが明らかだった。
無論、それが分かっていて引っかかる紫鷹ではない。
どんなに頭を撫でたい衝動に駆られようと、それを態度に出し交渉材料をひけらかすようなことはしないのだ。
「そうだな、別に教えることが損になるわけでもないし、隠しておかなければならないという物でもない。しかし、教えた後に損だったと感じるのも億劫だ……正直、俺は服が手に入ればそれでいいからな」
片笑みを浮かべ、持っている服を僅かに上げる。
その仕草に、見た目が幼い店員は僅かに眉をしかめて唇を尖らせた。
傍目から見れば、わがままを聞いてくれない兄に機嫌を損ねる幼い妹という微笑ましい姿とも思える光景。
しかしここに血縁関係はなく、年齢で言えば上下が逆転していることを察することの出来る人間がどれほどいるだろうか。
「むぅ、お客さん手強いね……男のお客さんならこれで少しは油断したり動揺したりしてくれるのに」
「そう簡単に手玉に取られたくはないからな」
「まぁそうだよね。じゃあ手っ取り早く交渉! 服お安くするから色々教えて!」
心に隙を作る策が不発に終わったと思いきや、すぐさま気分を一新させて笑顔で素直に交換条件が提示される。
譲歩案を先に示したのが店側であるため、優位性は紫鷹の方にある。
ここからさらに値段を下げさせるための交渉をしても良かったが、別に商魂などという魂は持ちあわせておらず、正味有事の際に使える分の金銭さえ残していればいいという考えであるため、適正値段から少し落とさせた形で教授を了承した。
惑わされはしなかったが、子ども(容姿だけでも)の無邪気さという物を紫鷹は基本的に嫌っていない。
それに明るい笑顔と素早く柔軟な切り替えという物にも好意的だ。
商人としては気安く自身の願いを表に晒すことは避けねばならないのだろうが、客目線からすれば素直に心内を晒してくれるほうが心象に良いだろう。
見た目からしても挙動からしても客から好まれそうだという感想を抱きながら、服の名称を聞いて興味深そうに頷く少女を見る。
一葵や暁良は先程の報告を終えた時点ですぐさま店内に散って服を漁っていた。
良くも悪くも、移り気が甚だしい二人である。
「ふむふむ、ハッピにハカマと……うん、教えてくれてありがとねお客さん! いやぁ、大体服の絵を見ればどんな風に作るのかとか大体分かるんだけど、文字が読めなくて名前とかで困ってるんだよねぇ。ご先祖様も、どういう経緯であんなに読めそうにない本溜めてたんだろ」
首を傾げつつそう言うも、「まぁいっか」とすぐにカラカラと気持ちの良い笑顔を浮かべて名前を教えてもらいたがった服を元の位置に戻していく。
紫鷹は少女が構わなくなったその僅かな時間を使って脳内で買う予定の服の値段を考え、それを三人分となると本格的に今日の狩りの成果が消える計算になることを悟る。
そのことにさして動揺はしないものの、普通にしばらくの食事代と宿代になる金額が服で消えるのだ。
ただの服で出費がかさむことにそれほどファッションに気を配らない紫鷹は首を傾げたくなるが、文明が発達しているとは思えない異世界の現状から考えて、珍しい素材と着て違和感を覚えさせない服を作る腕前を組み合わせればそれほどおかしい額ではないのかもしれない。
しかし、そうなると今自分が買おうとしている和服達は一体どんな素材の物を使っているのかと気になるのは、別段おかしくないだろう。
「一つ聞きたいんだが、これらは一体どんな素材が使われているんだ?」
「え? えっと、確かどれも氷火山の綿が主で、染料には質の良い彩椎の蜜各色。それに洗っても色落ちしないように色楔の上澄水に何日も漬けたくらいだから……うん、それくらいかな? って、お客さん明らかにこの素材達の価値分かってないよね?」
「ああ、知らない物ばかりだ」
隠しても仕方のないことだと言わんばかりに言い淀むことなく少女の問いに頷く。
目を逸らすこと無く言い訳も無いその潔さに、少女は隠すこと無く苦笑を浮かべた。
「まぁ、うん。知らない人は知らないよね。とりあえず、基本的に気温に左右されずに熱い時でも寒い時でも服の内側が一定に保たれて快適、多少乱暴に扱ってもほつれたり破れたりしない丈夫さ、普通に洗っても色落ちしない扱いの簡単さとかが備わってると思ってくれればいいかな。服は長持ち一番、この店の信条だよ? 後、私達は出来ないけど魔法の付与とかもできるよ、そういう素材を使ってるしね……あ、お会計今行きまーす!」
何やら色々と気になることが言葉の内に並べられたが、店内にいた他の客が会計をしようと店の入口近くにあるカウンターの前で少女を呼んだため、説明を求める機を紫鷹は失う。
しかし、何かと便利、というか好都合な代物であるということは知ることができた。
それも洗濯をする際に色落ちしないと聞いて、家事を日常的にこなすことに不満を抱かない紫鷹のテンションが僅かに上がる。
本来服の内部の気温一定などに注目すべき不思議があるのだろうが、それをガン無視して洗濯関係に注意を向ける程度に、紫鷹の家事に対する造詣は深い。
元々武器よりも包丁を求める辺りからも、そのことは想像できるだろう。
一通り買う物を決め、荷物を片手に抱えた紫鷹は未だ好奇心を絶やさずに店内を回っている二人の下へと向かう。
そして三人が寄り集まった結果、上がってしまったテンションは各々の普段着だけでなく頭から足先まで隠せる黒ローブを三人分追加させ、予定していた金銭面に少々だけでなくかなり足が出させたが、躊躇なくとあるオッサンより与えられていた資金兼小遣いに手を出したため問題は無かった。
ちなみに、テンションの上がった三人に服関係では関われないということでふてくされて黙っていた華藤丸は、宿屋で着流しを来た紫鷹とのマッチ具合に一葵と暁良におだてられて機嫌を取り戻していた。
ドスの如く懐に華藤丸を忍ばせ、顔の前で鞘から刃を僅かに覗かせる姿などどれほどにはまっていたか。
照れ隠しの果てに二人の若者が鎖で簀巻にされたが、その後は寝るだけであったため特に問題は無かった。
くそぅ、リアルが鬱陶しくて投稿できんぜ(((――)))