遠征・三日目~後編~
翠色の獣は、足を止め、朔をじっと見上げた。
「あっ、あの…ちょ、ちょっと、こっちにきて!」
朔はキョロキョロと回りを見回して、周囲に誰もいない事を確認すると、翠色の獣を目立たない端のほうに誘導した。
そしてもう一度人がいない事を確認してから、朔は翠色の獣に向き直る。
「…久しぶり。また会えて良かった。この前は、本当にありがとう。あの魔獣から助けてくれた事、宿営地まで案内してくれた事、本当に感謝してる」
朔は膝をついて、翠色の獣と目線を合わせ、礼の言葉を口にした。
「だけど…ううん、だからこそ、貴方にはここから立ち去って欲しいの。ここには、貴方を退治しようとする人達がいるから…。すぐに、離れたほうがいい。…どうか、元気で、いてね」
朔は手を伸ばし、翠色の獣の頭を撫でた。
翠色の獣はじっと朔を見つめ、大人しく撫でられている。
…こんなに、大人しいいい子なのに。
どうしてレイドさん達は、魔獣だなんて言うんだろう…。
朔はほんの少しだけ、その表情を悲しげに曇らせた。
その時。
「お嬢さん!その魔獣から離れなさい!」
「!」
レイドの険しい声が響き、朔は反射的に立ち上がり振り向いた。
その目にレイド達騎士が駆けてくるのが映ると、朔は翠色の獣の体を押しやった。
「に、逃げて!すぐに逃げて!なるべく遠くへ、早く!!」
朔は慌てて言うと、レイド達から翠色の獣を隠すように立ち、両手を広げた。
「お願い、攻撃しないで!この子何もしません!人を襲う魔獣なんかじゃありません!」
朔は必死に訴えた。
「お嬢さん、まだそんな事を…!危険だ、離れなさい!」
「嫌です!危険な事なんて何もない!」
「お嬢さん!」
「仕方ありません、小隊長。ここから魔法で仕留めます」
黄色の毛の男性がレイドにそう告げ、一歩前に出た。
「…わかった。だがロイ、くれぐれもお嬢さんには当てるなよ」
「心得てます」
黄色の毛の男性ーーロイは、しっかり頷くと、手を前につき出した。
「あっ…だっ、ダメッ!」
周囲にひんやりとした空気が漂い出し、彼が何をするつもりなのかを察した朔は、翠色の獣の首に腕を回してしがみついた。
「お、お嬢さん!!」
それを見たレイドは慌てたような声を発した。
「何をしているんだ!危ない、離れなさい!!」
「嫌です!!」
「…ちっ、ああもぴったりくっつかれちゃ、打てやしない…」
ロイは苦々しげに呟いた。
「…お嬢さん。お願いだ。その魔獣から離れてくれ。本当に危険なんだ。私達と、その魔獣、どちらがより信じられる?」
なんとか朔を引き離そうと、レイドは落ち着いた声で説得を始めた。
しかし。
「この子です!!」
朔はきっぱりと即答した。
「………」
その答えにレイドは目眩を覚え、片手で額を押さえた。
「小隊長…」
キキ達、第二小隊の面々もまた、眉を下げ、複雑な表情をしている。
「…ぶ…ははははは!し、信用低…!」
「!」
突然横から聞こえた笑い声に、朔やレイド達の視線がそちらに向く。
そこには、イシュマを始め、ソドウィザムの騎士達が立っていた。
「イシュマ」
「…と、すみません」
たしなめるように名前を呼ばれ、イシュマは笑いを引っ込めた。
「…けど。どうやら、ここまでですね。こうも頑なにそのお嬢さんがその魔獣を退治するのを阻んでたら、手出しできないでしょう」
「…そのようだな」
イシュマの言葉に、イシュマの上役らしき騎士が頷いた。
「え、それじゃあ…!」
朔は顔をパッと輝かせ、イシュマ達を見る。
「ああ。そんなに嫌なら、逃がしていいよ、その魔獣。…今日は、ね」
「あ…ありがとうございます!ね、聞いた?逃げていいって!」
イシュマの言葉に朔は喜び、翠色の獣に話しかける。
しかしレイドは険しい表情で口を開いた。
「待ってくれ!そんな勝手な!この魔獣は足が速く、これまで何度か逃げられてきた!正直、我が国の騎士では手に余る…貴殿達ソドウィザムの騎士がいるうちに退治してしまいたい!」
「…気持ちは分からなくはないが、無理だな。今の貴殿らに、そのお嬢さんは説得できまい?」
上役の騎士は落ち着いた声色で告げた。
「それは…」
レイドは言葉に詰まった。
「…話は終わりだな。お嬢さん、そいつ、逃がしていいぜ」
黙り込んだレイドを見て、イシュマは朔に視線を向けると、そう告げた。
「………。…わかりました。私、ちょっとそこまでこの子送って来ます。行こう」
朔は一瞬レイドを見たが、イシュマに視線を戻すとそう言って、翠色の獣を促した。
「ああ、それなら念のため、おれもついてく」
「え?」
まさか、歩いてる最中に隙を見て攻撃するつもりじゃ?
朔はイシュマに疑いの眼差しを向けた。
するとイシュマは苦笑して口を開いた。
「随分疑り深いな?大丈夫だ、何もしない。約束する。…そいつが、お嬢さんを襲おうとしない限りは、な」
「…わかりました。本当にそう約束してくれるなら」
「ああ」
イシュマは頷き、歩き出した朔や翠色の獣のあとをついていった。
レイドはその後ろ姿を見ると、うつむき、唇を噛んだ。
その日の夕方、一行は街に向かって歩を進めていた。
朔は安らいだ気持ちで馬に揺られていた。
もうすぐ街。
これで遠征は終わり。
あの子は無事。
…良かった。
「随分、嬉しそうだな」
すぐ後ろから声をかけられ、朔は顔を後ろに向ける。
「嬉しいです。あの子を逃がしてあげられたし。…あの子、私の恩人だから。だから…見逃してくれて、本当にありがとうございました。イシュマさん」
朔の後ろにはイシュマがいた。
朔は今、レイドではなく、イシュマの馬に乗っていた。
周りにはソドウィザムの騎士達がいる。
「…恩人、ね」
イシュマは小さく呟いた。
「はい?今何か、言いました?」
「いや?…それより、もうすぐ街だ。着いたらお別れだな。遠征は終わったし、おれ達は国に帰るから」
「あ…そうですよね。…また、いつか、会えますか?」
何故か寂しさを感じて、朔はそう尋ねた。
「ん?ああ、たぶん。約束の地での話は聞いてるか?」
「あ、はい」
「そこで会うかもな。陛下の護衛、うちの隊も担うだろうから」
「そうですか…約束の地で…。…私、ちゃんとどこかの国に引き取られるでしょうか…」
朔は肩を落とし、不安げに呟いた。
「は?当たり前だろ。何言ってんだ?」
イシュマは怪訝な顔で朔を見た。
「だって…私、特別な才能とか知恵とか、持ってないですし」
「何だ、そんな事か。そうだな…それだと大国は無理だろうが、小国のどこかに決まるだろうな」
「小国、ですか?」
「ああ。ちなみに、うちの国も小国だぞ?何なら、うちに来るか?」
イシュマはいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「ソドウィザムに?」
「それもひとつの道だろ。ま、決めるのは陛下だけどな」
ソドウィザムに行く…そこに住む?
「…あの、ソドウィザムって、どんな」
「お、ほら、見えたぞ。街門だ」
「え?」
イシュマに言われ、朔は前を向いた。
すると街の門がすぐそこにあった。
「とりあえずこれでお別れだな、お嬢さん。…て、そういや、あんた名前なんていうんだ?」
「あ…」
尋ねられ、朔は再びイシュマに視線を戻した。
「…えっと。…私、朔といいます。日向、朔」
一瞬迷いはしたが、朔はこの世界に来て初めて、自分の名を名乗ったのだった。