オッカムの剃刀
オッカムを追って木々の間を再び走り続けた。
夕日で木々が紅く染まり始めたころになって、やっと開けた場所にでることができた。
開けた場所から出る前にオッカムが先に森を出て周囲を見渡し、安全であることを確認した後で自分も木々から抜け出した。
森を抜けるとそこには大量の水があった。
ほぼ見渡せる限りが水面だ。
右から左へと果てしなく流れている。これが海というものだろうか。
ダモクレスにある水は川でせいぜい四、五メートルくらいだった。
プールでも三十メートルあるかないかだろう。
地上のスケールの大きさを改めて思い知った。
よく見ると向こう側には陸地が見える。
オッカムが岸まで近寄り「こっち」と呼びかけてくる。
岸から顔を出して下を覗き込む。
そこには十メートルほど下に小船が一艘あった。
ロープで岩に打ち付けられ、波に上下しながら浮いている。
「この河を越えて、あちらに移る」
「えっ! これ川なの!?」
思ったことがそのまま声に出てしまった。
「そう。この河が国境線となって――」
オッカムが言い出した途中で、川(らしい?)の上流岸辺から先ほどのキリン集団が「いたぞー!」、「止まれー!」と大きな声を出しながら、こちらに向かってきたのが見えた。
振り返るとオッカムが岸から小舟に飛び降りた。
十メートル近い落下にもかかわらず、小舟をほとんど揺らすことはなかった。
ほんとに人間なのか、彼女は?
「来て」
いやいや、来て言われましても困りますよ、オッカムさん。
十メートルは水平距離にしてみるとたいしたものではないが見下ろすと十分な高さになる。
しかも、着地地点は人が三人乗れるかどうかの小舟だ。
キリン集団もだいぶ近くに来ている。まだ俺がためらっていると、オッカムが叫んだ。
「受け止める!」
いままで聞いた中で一番大きな声だった。そんな声も出せたのか! と、驚き慌てて飛び降りる。
考えれば五千メートルを飛び降りたんだから十メートルなんて屁のカッパみたいなもんだ。
慌てたせいか飛び降りる位置が少しずれてしまった。
しまった! と、嫌な汗を流しながら心の中で叫ぶがもう遅く、着地地点には船ではなく水面が待っていた。
今日はよく落ちる日だ……なんて馬鹿なことを考えたとき、確かな殺気を感じた。
水面から殺気のしたほうに顔を向けると、オッカムが俺を睨んでいた。
睨むってものじゃない、睨み削ぐという表現がぴったしだろう。
本当に心が削がれる気分だ。嫌な汗は冷たい汗に変わった。
デジャブだ――前にも体験したこの感覚。だが、それならこのあと待ち受けているのは……。
予想通りにグッと上向きの力を感じた。落下速度が一気に落ちる。
「ルイゼット! 手を!」
オッカムが俺に向かって手を伸ばす。
俺もその手をつかむように手を伸ばしていく。
伸ばした俺の手をオッカムが掴む。
オッカムは「動かないで」と言い、俺をゆっくりと引っ張る。
かなり緩い速度で落下していく俺の体が、徐々にオッカムの方に移動していく。
そして、上向きの力がなくなり、オッカムにしっかりと抱きかかえられた。
逆ならカッコよかった……とか考えていると、船におとなしく座らされた。
「ありがとう」
お礼の言葉にはやっぱり反応なく、上を向き追っ手の状況を淡々と確認する。
オールを船艙から取り出し、船を固定していたロープを外した。
オールで岩を押し、推進力を生み出す。船が岸から離れていく。
彼女も座り、オールを漕ぐ。
そこそこ岸から離れたところでキリン集団が岸に追いついた。
そして、馬から下り背中に担いでいた弓に手をかける。
それを見るやオッカムが、「こいで」とオールを俺に預け、位置を変わるように言った。
へ?
と安定のまぬけ声を出した俺を無視し、背を向け船尾に座りキリン集団の方を向いた。
俺はオールを漕ぐ。
見た目よりも力がかなり必要だった。なかなかまっすぐ進まない。
キリン集団たちは矢の先に何かを巻き、火をつける。
その矢を弓で引くと、こちらに向け射ってきた。矢はこちらには当たらず、大きく横に逸れ水面に落ちる。
その瞬間、水面から大きな音と共に水しぶきがあがる。
その波を受け、船体が揺れる。
どうやら、ただの火矢ではなく先端に火薬を巻き付けているようだ。
キリンに乗った人物が「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」そう叫んだ。
今の矢は牽制のようだ。
「こぎ続けて!」
そんな宣言を無視しオッカムは叫ぶ。「は、はい!」と引きつり気味に返事をして必死にオールを漕ぐ。
岸を見ると、こちらが止まらないことを確認して弓兵たちが構え始めた。
次は一斉に射るつもりだろう。
矢の先端についた火が直線に並んでいる。
一人、キリンに乗った偉そうな奴が「射れ!」と叫ぶ。
それを聞くや否や、構えていた全員がこちらに向け火薬付きの火矢を射る。
さきほどの火矢はやはり牽制だったらしい。
今度の火矢は多くの赤い弾道を残しながら、まっすぐこっちに向かってくる。
これは当たるだろう。絶体絶命だった。キリンに乗ってみたかった。
しかし、それらの火矢の軌跡は途中で止まった。いや、わずかだが動いている。
結局、こちらにたどりつくことはなく、火矢はそのまま空中で爆発した。
光、音とそして風圧がわずかに船を揺らす。
オッカムを見ると彼女は背を向けたままだ。顔も岸を向いている。
彼女の左手に目が行った。
先ほどまでは何も手にしていなかったはずだが、今はなにかを持っている。
剃刀だ。
きれ刃はかなり薄く、刀身は鏡面になっておりよく磨かれているのがわかる。
刃先が終わる鋼部分に木製の柄がつけられており、彼女はその柄を握っていた。
そうか。この剃刀が彼女の刃なのだ。
平原と乗船、二回ほど彼女の力を受けたが、その際は彼女の殺気と鋭い目に注意が行き、手元を見ていなかった。
そして、力はおそらく速度の減速で間違いないだろう。
その力で俺の落下速度を、火矢の速度を削ぎ落としていったのだろう。
しかし、今回の力の発現では殺気を一切感じなかった。
これはなぜだろうか?
火薬の爆発で生じた煙が晴れると、弓兵たちのあっけに取られたまぬけ顔が見えた。
おそらく、自分もあんな顔をしていたのだろう。
弓兵たちは気を取り直して再び構えた。
「射れい!」
再び大きな声でキリンに乗っている人物が叫ぶ。
火矢は弓を離れたが、先ほどのような赤い軌道を描かなかった。
火矢は射った瞬間にその速度を奪われ、弓兵たちのすぐそばで止まったのである。
弓兵は一瞬、火矢を見つめたのち、すぐに事態を察し逃げ惑った。
しかし、時遅く、一本の火矢が爆発すると他の火矢も一気に誘爆した。
兵士たちは吹き飛び、キリンに乗っていた人物は振り落とされた。
他のキリンたちも驚き兵士たちを蹴りつつ逃げていくのが見える。
「キリンに乗るのは難しそうだ……」
彼らに攻撃の意思が見られないのを確認してオッカムはこちらに向き直り、オール漕ぎを代わると言った。
手にはもう剃刀を持ってなかった。
俺は首を振り「もう少し漕いでいたい」と返した。
いま俺ができる彼女への精一杯の労いだった。
彼女もそれがわかったのか、静かに腰掛ける。
「すごい能力だね。ありがとうオッカムさん」
彼女は静かにこちらを睨む。
すこし怖いがお礼をきちんと言わないといけない。
「そういえば名前を読んでくれたね。ありがとうオッカムさん」
「『さん』はいらない。それにお礼は一度で十分だ」
そして、「無駄なことだから」と小さく続けた。
思うに、彼女は返事を無駄だと感じているのではなく、お礼をされることに慣れていないだけではないだろうか。
そうだ。最後に言い忘れていたことを告げる。
「遅れたけど、一番最初――ダモクレスから落ちてきた俺を助けてくれてありがとう、オッカム」
こちらがそう言って見つめると、彼女は少しあきれた顔をする。
「どういたしまして、ルイゼット」
そして、こう返してくれた。
オッカムの顔は少し朱を帯びていた。
夕日のせいか、照れのせいかを考えたが、それは無駄で馬鹿げたことだった。