旅へ
どれくらい経ったのだろうか。船を漕いでいるうちに霧はだいぶ薄くなってきていた。
オッカムとトリカを乗せた船はまだ見えない、だいぶ先にいるようだ。
「先ほどの話ですが、誰にも話してはいけませんよ」
「どっちの話だ。刃の解放軍にリーダーがいないってほうか?」
「そちらもですが、私の刃のこともです。例外として、グループの中でも両方を知っているのは副リーダーのテレスだけですから」
オッカムは、リーダーの命令は副リーダーを介して発信されると話していた。
事情を知っている副リーダーのテレスとやらもダモクレスの人間なのだろうか。
「テレスはダモクレスの人間じゃありませんよ」
またしても心を読まれてしまった。
「素直なのはいいことですが、もう少し思ったことを表情に出さないようにするべきです。テレスは私の弟子といったところでしょうか。十五年くらい前になりますかね、刃のせいで両親に捨てられ、一人で生きようとしていた彼を私が育てたのです。頭の回転が速く、刃も上手に使い、人を引き付ける魅力があります。それになりよりきれいな心を持っている。副リーダーとして申し分ない素養があります。私の教育の賜物といったところでしょう」
最後の一言がなければいい話でおわったのに。
「両方知っているのはテレスだけですが、私の刃を知っている人間はいます。ケファロさんも私の刃に気づいていましたね。なんにせよルイゼット君はどちらも話さないでください。そうすればなにも問題ありません」
「わかったよ。おっさんはただのおっさんで、ラーミナのリーダーはどこかに隠れてメンバーを応援してる。そういうことだろ」
おっさんは満足そうに頷いた。
船に座ってぼんやりと流れる水を見ていた。
「見えてきましたよ」
おっさんが突然声を出す。その言葉に従い、船の進路方向を見る。
そこには視界を右から左へと、収まりきらないほどの地面が見える。
まさに大地だ。
「西国です。思ったよりも早く着きそうですね」
船はその岸の側にある木が見えるくらいに近づいていた。
島の方を振り返ると、まだまだ深い霧に覆われており見えない。
もう一度、大陸のほうを向く。
多くの木、河の水、大陸から盛り上がる山。
その上には雲がぽつぽつと浮かんでいる。
「でかい……」
思ったままをそのまま呟いてしまった。
馬鹿にされるかと思い、おっさんの方を見るが、おっさんは微笑んだまま大陸の方を見ていた。
「私もダモクレスから下りてきたときはそう思いました。ただただ大きいなと。見渡しきれない大地、海かと見まごう河、いつもより高い位置にある雲、図鑑でしか見たことのない動物、味わったことのない料理。そして、そこに生きる多くの人々。すべての五感が新たな体験に戸惑い、しかし歓喜しました。どれも想像を遙かに越えたものでした」
おっさんは遠くを見て感慨深そうに話していく。
「ルイゼット君もおそらく同じような体験をしていくでしょう。任務もありますが、まずはこの世界を体験してみてください。きっと、今まで生きていた世界の小ささを思い知るでしょう。その中で君自身が世界を変えられるような成長していくことを我々は期待します」
おっさんの言葉を聞きながら、俺はこの世界でのまだ見ぬ体験に、心が打ち振るわされていた。
緊張、恐怖、希望、喜びといった多くの感情が渦巻き一種の興奮状態となっている。
ああ、世界は広い。俺はいままでいったい何をしていたんだろう。
俺は生きているうちにこの世界のどれだけを知ることができるんだろうか?
いま目に見えているものですら全部見て回るのにどれだけかかるのかがまったくわからない。
さらに、河を挟んで反対側にも世界は広がっている。
「世界の大きさにうちひしがれましたか?」
「そうだな……自分が今までどれだけ小さな世界にいたのかをとくと感じたよ。でも、それ以上にこの世界に歓喜してる。これから体験することが待ち遠しくて仕方ない」
俺は眼前に広がる大陸を見ながらそう返した。
「船はじきに岸へ着きます。待ち遠しいからと言って、くれぐれも河に飛び込まないようおねがいしますよ」
おっさんの余計な一言も今ばかりは確かに意識せざるをえなかった。
先ほどから俺の体は疼いていた。
この狭い船から早く出て、あの世界を踏み歩くのを今か今かと堪え忍んでいる。
やがて船は確かに大地へと到着した。
おっさんは船を岸へとゆっくり寄せ、先に下りて船を固定する。
そして、俺に手を伸ばした。
俺はその手を掴む。俺は船を軽く蹴り、岸へと移った。ついに俺は大地を踏んだ。
昨日も東国の大地を踏んだが、あれは落ちたというのが正しい。
今は自分自身の足で踏み込んだのだ。
同じ大地でも感覚がまるで違う。
オッカムとトリカは先に到着していたようで、こちらを確認すると近寄ってきた。
「お待たせしました。どうやらシニストラ軍は待機していないようですね」
「周囲を調べたが、人がいるような気配はない。しかし、いつ来るかわからない。早く移動した方がいいだろう」
「そうですね。そうしましょう」
四人になった俺たちはしばらく岸辺を歩く。
先頭を歩くのはやはりオッカムだ。迷いなく進んでいく。
そのあとを俺、オッカム、おっさんと早足で追う。
すぐに内陸へと延びる道に入り、しばらく歩いたところで開けた場所に出たのでそこで待機する。
俺とトリカは近くの大きな石に腰掛ける。
トリカはすでに息切れしていた。体力がないようだ。
大丈夫か、と声をかけると明らかな作り笑顔で首を縦に振った。
あまり大丈夫ではなさそうだ。
オッカムはそんな俺たちの前で付近を警戒している。
そんな中、おっさんが切り出した。
「話をしていたとおり、リーダーからの指示を伝えます」
おっさんが青服の前ボタンを一つ外し、手を入れる。
軽く探り、すぐに手を出すとそこには封蝋のされた封筒が握られていた。
その封を破いて開ける。
中には三つ折りにされた紙が入っていた。
かなり分厚い紙を使っているためか、裏から文字を読み取ることはできない。
「それでは読ませて頂きます。
『オッカム第三部隊隊長。まずは任務ご苦労様。引き続きルイゼット君を連れてルイーナへ向かって欲しい。ルイーナではホルダーと思われる集団が出没しているという報告を受けている。彼らを我々のグループに引き込むよう交渉を頼む。なお、シニストラが彼らに対して軍を送ったとの報告もある。くれぐれも注意して欲しい。
次に、ルイゼット君。地上へようこそ。君が我々のグループに入ることは織り込み済みだ。そこで、君を第三部隊に配属する。オッカム隊長の下で彼女を補佐して欲しい。
そういうわけでオッカム隊長。彼をよろしく頼みたい。彼は地上のことについて、ほとんど何も知らないはずなので、道中いろいろと教えてやって欲しい。もちろん、君の部下となるので死なない程度にこき使って構わない。
カナーリスの町に物資を置く。宿屋で言えば渡すように手配しておく。
ルイーナには第一部隊隊長のオイラーも入る予定だ。状況は彼女からいろいろ聞いて欲しい』
以上です」
ほんとにそう書かれているのか?
いささか疑問であった。
自分に関する記述は半分以上ねつ造ではないだろうか。
こちらから文字が読めないことをいいことに、都合のいいことを言ってるんじゃないだろうか。
「了解」
一方、オッカムはただそう言うだけであった。
ここで一つ問題が残る。
「あの……私はどうしたらいいのでしょうか」
「トリカさん。あなたのことはルイゼット君から聞きました。ルイゼット君について行くそうですね」
トリカは頷く。
「あなたの刃は戦い向きではない。見たところ体力もなく、武器も使えないでしょう。さらに軍の裏切り者です。力もなく、顔が割れている。そんなあなたがルイゼット君について行くことで、あなたは彼を――友達を命の危機に巻き込むかも知れない。それをわかっていますか?」
「それは……」
トリカは気まずそうに黙り込む。
たしかにその通りではあるが、言い方があるだろう。
俺はおっさんに対して口を開こうとするが、おっさんの目がこちらを向いて『黙っていてください』と押さえ込まれる。
「しかし、あなたが我々のグループへの入隊希望者というのなら話は変わります。我々は同胞であるあなたを守る必要がある。入隊の権限を私が持っているわけではないので、何ともいませんが、おそらく第一部隊への配属となるでしょう。これからオッカム第三部隊隊長隊長が向かうルイーナにはその第一部隊の長であるオイラー隊長がいます。彼女に会ってみるといいでしょう。さて、どうしますか?」
トリカは少し迷ったようだが、どうやらそれしかないと認めた。
「私はラーミナ・リベラティオへの入隊を希望します」
「わかりました。リーダー及び副リーダーには私から伝えておきます。オッカム隊長、申し訳ありませんが、トリカさんをルイーナまで一緒に連れて行ってもらえないでしょうか」
「わかった。ただし、彼女を保護対象ではなく、一時的に第三部隊隊員として扱うがいいだろうか」
「トリカさんがいいと言うのなら構わないでしょう」
オッカムとおっさんがトリカを向く。
「私はそれでかまいません。オッカム隊長、よろしくお願いします」
「よろしくトリカ」
どうやらトリカはルイーナというところまではついてこれるようだ。
話がうますぎる。茶番もいいところだ。やはり先ほどの手紙はねつ造だろう。
そう思い、おっさんを見ると俺の視線など、どこ吹く風といった表情で空を眺めていた。
「それでは私はここで別れます。オッカム隊長、トリカさん、そしてルイゼット君。くれぐれもお気をつけて」
おっさんがそう言って頭を下げる。
オッカムはただ頷くだけだ。トリカはただおっさんを眺めている。
誰も言わないなら仕方ない。
「じゃあな、おっさん」
俺が別れの挨拶を告げる。
「ええ、ルイゼット君。さようならです。君なら言ってくれると信じていました」
やっぱり一言多かった。
別れが済むとおっさんは木の中に入って消えてしまった。
「さっそくルイーナへ向かう」
おっさんが消えるやいなや、オッカムが宣言する。
そもそも俺はルイーナがどこにあって、どんなところなのかも知らない。
「オッカム……隊長。ルイーナってどれくらいかかるんだ……だい、ですか?」
「話しやすいように喋ってくれればいい。丁寧に話そうとしているんだろうが、蒼髪のように聞こえる。それに隊長はいらない。トリカもだ」
「わかった。オッカム」
「わかりました。オッカムさん」
蒼髪とはおそらくケファ兄のことだろう。
あのふざけたような口調を体験したようだ。
俺も最初はふざけた口調だと思っていたからよくわかる。
「ルイーナは一週間といったところだ。すぐ近くにカナーリスの町があるから、そこまでは徒歩になる。夕方には着くだろう。そこで衣服を調達する」
オッカムが歩き出す。
俺も歩き出すための一歩を踏み込む。
きっとこのさき数多くの体験が俺を待っている。
様々な物を見て、聞いて、触り、そしてそのそれぞれに新しい解釈をしていくことになる。
これはその始まりとなる一歩だ。
刃を持たないこの俺がただ一人の人としてこの広大な大地にその足跡を刻んでいくのだ。
「ルー、どうしたの?」
二歩目を踏み出さない俺に対してトリカが声をかけてくる。
「楽しみだなって」
トリカは微笑んで俺の先に進む。そして、俺に手を伸ばす。
「いっしょに世界を見ていきましょう」
「――ああ!」
俺はトリカの手を取る。
そして、彼女と共に第二歩を踏み込んだ。