其は何者なるや?
基地からの脱出は想定以上にたやすかった。
先ほどの爆音のほうに兵が集まっているためだろうか。
途中で遭遇したのは片手で足りるほどだ。
そいつらもオッカムがあっという間に処理してしまった。
外は明るくなっていたが、霧はいまだ晴れておらず見通しがかなり悪い。
オッカムの背中を見失わないように追っていく。
トリカの手を握っているため、あまり急ぐことができない。
東国の基地のときよりも移動速度はかなり遅い。
しかし、この霧で兵に見つかりづらくなっているのも確かだ。
かなり近寄らない限りばれないだろう。
少し走ったところで河の流れる音が近くに聞こえてくるようになった。
霧のせいで見通しが悪いが、おそらく霧がなかったら河が見えるところまで来ているだろう。
オッカムもすでに走っていない。少し前をゆっくり歩いている。
彼女の服はところどころ斬られており、浅いが傷もある。
あれほどの動きをするオッカムに怪我をさせられる人物が一人脳裏に浮かぶ。
「オッカム。その傷……ケファ兄と戦ったのか」
「ケファ兄?」
「蒼い髪をした槍のホルダーです。ルーの兄貴分で、ケファロというそうです……」
「彼か、変なやつだった」
どうやら名前を知らなかったらしい。変なやつって……。
トリカも納得するように頷いている。
確かによくしゃべるがそこまで変だろうか。まあ、いいや。
ケファ兄は刃の解放軍の一員になったものと思っていたが、オッカムと戦ったということは違ったのだろうか。
「ケファ兄も俺が来るすこし前にダモクレスから落とされたんだ。生きてるって聞いたからラーミナが保護したのかと思ってたんだけど……」
「どうやらそうらしい。聞かされていなかったが、彼はラーミナの第二部隊に保護され、間諜として西国軍に入ったようだ。私たちを逃がすように命令されたらしい。戦闘の途中で彼が私にそう告げた」
やはり、ケファ兄もラーミナに保護されていたようだ。
予想通りケファ兄はスパイとしてシニストラ軍に潜り込んでいるらしい。
オッカムはケファ兄のことを知らなかったため敵と判断し交戦した。
ケファ兄も、他に兵士がいただろうから彼らの目を欺くためにも戦う姿を見せる必要があったのだろう。
オッカムのところどころ切り裂かれた服やそこから見える切り傷を見るとかなり派手にやり合ったみたいだ。
「ケファ兄はどうだった?」
オッカムが口をつぐむ。足も止まった。
「――強かった。途中で執行者が横槍を入れてきたため中断したが、私は負けていた」
オッカムの口調の最後にはどこか悔しさがにじみ出ていたように感じた。
完全超人のような彼女も、どうやら自分と同じように負けたら悔しさを感じる人間だったことに安心した。
しかし、オッカムでも勝てないか。ケファ兄の実力が地上でも認められ、俺は自分のことのように嬉しくなる。
そういえばシニストラの基地でも聞いたが、執行者とはなんだろうか。
「執行者って何者?」
「デクストラの精鋭部隊だ」
「シニストラの赤服と似たようなものよ。でも、彼らの中にはホルダーもいるの。戦闘に特化したエリート集団ね」
オッカムの言葉足らずの説明にトリカが付け加えていく。
なるほど、戦力としてホルダーも組み込んでいるのか。だとすると、
「ケファ兄……大丈夫かな」
「ジャックがいたが、問題ないだろう」
「ジャックってまさか、あの斧使いのジャックですか?」
「そうだ」
「有名人なのか? そのジャックっていうのは」
「ええ……『ケッチ』という銘の斧の刃を持っているそうだけど、とにかく戦い方が残虐らしいの。相手を生かさず殺さずなぶり続けるから、敵からも味方からも恐れられてるって」
「その噂は間違いじゃない。戦ったことがあるが、実力も確かだ。しかし、ジャックは共鳴に達していない。しょせんはその程度」
ジャックというのが残虐な実力者ということに不安を抱いたが、それよりもオッカムの最後の一言が気になった。
ジャックは共鳴に達していない。
それはつまり兄貴が共鳴できていることを知っているとも受け取れる。まさか、
「見たのか?」
驚きのあまり『誰の何を』が抜けてしまったが、オッカムは正確に判断した。
「私が先に共鳴に入った。そのあとで彼も入った。あれは……厳しい――」
オッカムが共鳴に入れることは、なんとなくできるだろう思っていたためあまり驚かない。
しかし、ケファ兄に共鳴を出させたとは、恐ろしいな……。
共鳴は刃の道具としての力を最大限に引き出した状態だ。
刃によって共鳴できる難しさは異なるため共鳴状態に入ることが一概に強さを表すわけではない。
共鳴できなくても強い人は当然いる。
しかし、武器の刃で共鳴に入れないということは、自分の武器も満足に使いこなしていない、武器を持て余している状態だ。
相性の問題もあるだろうが、そんな奴が武器を使いこなしている奴に勝てるということはほとんどないだろう。
それにケファ兄の持つ『メリサニ』は、ダモクレス建国当初から存在していたにもかかわらず、過去に共鳴に達した人が確認されていないほどの業物だ。
それほど、共鳴に入ることが難しい刃だった。
その刃と共鳴し、自分の手足のように自由自在に操るケファ兄は、ダモクレスの上位十二人を示す刃吏の一人と認められ若くしてその名を連ねた。
そんなケファ兄に共鳴を出させる奴はダモクレスの戦闘要員でもほとんどいない。
ロンが一度だけ出させたのを見たことがある。
師匠は自分自身の共鳴を出さずに、ケファ兄の共鳴とじゃれあう化け物だ。
当然だが俺は共鳴を出させたことがない。
そうか……オッカムはケファ兄に共鳴を出させるほどの実力者なのか。
あらためて、オッカムの実力を認識した。
そして、そのオッカムをして厳しいと言わせるケファ兄の実力も再確認できた。
ジャックというやつも実力者だそうだが、オッカムが問題ないというくらいだから、ケファ兄なら大丈夫だろう。
そんなことを考えていると、オッカムが口を開く。
「忘れていた。彼から伝言を頼まれた」
ケファ兄からの伝言と聞き、俺の背筋は自然と伸びる。
「『風邪ひくなよ』」
「へ?」
少し待ったが続きはないらしい。
えっ、それだけ?
俺は絶句した。一方、トリカは楽しそうに笑っている。
ケファ兄なら確かにそう言いそうだ。
伝える時間もなかったのだろう。それはわかる。
しかし、他に言うことがあるんじゃないか。そりゃ変人あつかいもされる。
いや、待てよ――『地上に来ても自分は自分のままだから、お前も場所によらずお前らしくいろよ』という意味を含んでいるのだろう。
これを短い言葉にこめて俺に渡した。
これだ!
さすが、ケファ兄だ!
きっとそういうことだろう……そうだよね?
気を取り直して再び歩き出す。水の音は次第に大きくなっていく。
ついに流れる水が目に入った。
どうやら舟場があるらしい。木の橋みたいなのが河にかかっている。
桟橋だろう。俺たちはそこを歩いて行く。
急にオッカムが右手を軽く挙げて俺たちの歩を止める。
その目は桟橋の先を見つめていた。左手には剃刀を出している。
「お待ちしておりました」
渋い男の声だ。
霧の中から声の主と思われるシルエットがこちらにゆっくりと近づいてくる。
歩くごとに木の足場を鳴らす。
はたして完全にその姿を目に入れることができた。
服装はシニストラの兵たちと同じものだ。しかし、色が違う。
エリートの赤でも、ホルダーの緑でもなく一般兵を示す青色だった。
顔は予想していたようにおっさんだ。
適度な無精髭、痩せすぎず太りすぎず、髪は白髪が多く混じっている。
おっさんというよりも老境に足を踏み込んでいるように感じたが、まだおじいさんというほど皺は多くない。
外見的に明らかな特徴は一つだけ。
目に単眼鏡をしているということぐらいだ。
おっさんはオッカム、俺と見たあとにトリカを見て、明らかに目を瞠った。
「オッカム第三部隊隊長、ご無事で何よりです。予定通りリーダーからの命令によりここでお待ちしておりました。命令ではオッカム隊長と男性一人とありましたが、彼女は?」
「シニストラの基地で彼が保護したホルダーだ。トリカという」
オッカムは淡々と答える。その手からはすでに剃刀が消えていた。
どうやら彼女の仲間のようだ。
船の上で話していた島にいるオッカムの仲間とはこのおっさんのことだったのだろう。
トリカは計画から外れていたため驚いたのであろう。
トリカがおっさんに軽く会釈をする。
おっさんは少し悩むように目を細め、その顎を撫でる。無精髭がじょりじょりとこすれる音が響く。
「わかりました。船はもともと二隻用意しております。こちらはオッカム殿とトリカ殿がお乗りください。彼は私が乗せていきます。それと、前回に引き続きリーダーの命令を伝えます。『岸を渡ったところで先の命令は達成されたものとする。新たな指示は向こう岸についてから伝える』だそうです。まずは向こうへ渡りましょう」
「了解」
どうやら前回の命令はこのおっさんから聞いたものらしい。
このおっさんはリーダーの使いっ走りのようだ。
先の命令が達成されるということは岸の向こう側にリーダーがいるのだろうか。
オッカムがトリカを、おっさんが俺を連れそれぞれ船に乗る。
「先に行ってください。我々は後ろから追います」
おっさんがオッカムの船へそう声をかけるとオッカムが船を漕ぎ始めた。おっさんもそのあとを追うように船を漕ぐ。
河の上の霧はさらに深い。船はそんな霧の中へ入っていく。
オッカムの船はすぐに見えなくなった。オールが水を切る音が聞こえるが、その音も流水の音でよく聞こえなくなってくる。
さて、もうそろそろいいだろうか。
いろいろと聞きたいことがあった。まずは、
「おっさん。あんた何もんだ?」
「私はリーダーの使いでございます」
おっさんは表情を柔らかくしてこちらを見てそう言う。
体つきはふつうのおっさんだ。顔もふつう。
だが、明らかに異常な部分が二つ。
その二つの要素が俺にこのおっさんをただの使いと感じさせない。
「その単眼鏡、刃だろ。銘は、たしか『ヘイムダル』だったはずだ」
一つはその左目につけた単眼鏡。一見、それはただの単眼鏡だ。視力を補うためにつけているに過ぎない。
しかし、俺は知っている、かつてダモクレスに単眼鏡の刃があったことを。
恐ろしい力を秘めたその刃はダモクレスからすでに失われており存在しない。
だが、見た目の形状はいまもなお伝わっている。
金の枠縁、度が入っていないレンズ、落とさないためにつけられた銀のチェーン。
そして、それらの特徴はこのおっさんがつけている単眼鏡と一致している。
これだけでもこの柔和な顔をしたおっさんがただものでないことを示唆するが、俺としてはもう一つの要素の方が気がかりだった。
それはその単眼鏡の奥に潜むもの。
「それにその目。その瞳はまるで――」
そう、二つ目の要素は瞳だ。
その目はあいつ――父とよく似ている。
おっさんは柔らかそうなまなじりをしているが、その瞳の奥に何か化物がいる。
その恐ろしい怪物が俺をねめつけて離さない。
周囲は涼しいのに汗がとどまるところを知らない。体中に剃刀の刃を当てられている気分だ。
とてもじゃないが動けないし、動きたくない。
瞳の奥にいる化け物は父と似ているが違っている。
あいつの中の化け物はその圧倒的な力をもって,俺を握りつぶしてくるようなものだった。
一方、このおっさんの中にいるそれはやはり圧倒的な力を持っているにもかかわらず、こちらに近づかない。
その距離は俺を害するには遠く、害意がないというには近すぎる。
なによりその化け物は俺をジッと見つめている。
俺の一挙手一投足を見逃さまいという思いさえ感じてしまう。
なにがしたいのかわからない。
なにをするのかわからない。
得体が知れないのだ。
それ故に俺は動けない。口を出すしかない。
「あんたは使いなんてもんじゃない――」
これは願いだった。
こんな化け物が誰かの使いだなんて現実は受け止めたくない。
この恐怖は使いっぱしりのそれじゃないだろう。
じゃあ、このおっさんはいったい何者だ?
森で聞いたオッカムの受けたという命令を思い出す。
『指定されたポイントに待機し、我らが同胞を助け、この国から無事に脱出させ、自分と合流する』だったはずだ。
『この国』からはすでに脱出している。
命令元はリーダーだから、『自分』とはリーダーのことだと考えた。
しかし、『前回に引き続きリーダーの命令を伝えます』と言ったように前回の命令を伝えたのはこのおっさんらしい。
それなら『自分』とは、おっさん自身のこととも考えられる。
さらにこのおっさんは『岸を渡ったところで先の命令は達成されたものとする』といった。
渡ったところで達成されるのだから、リーダーは向こう岸にいると考えたが、すでに命令が達成されているとしたらどうだろう。
前回の命令元はリーダー、その命令がすでに達成されているならば、オッカムはすでに『自分』と合流しているということになる。
それなら、このおっさんは、
「あんたが……リーダーか」
おっさんはただただ優しく微笑む。その微笑みは肯定も否定もしない。
「すこし……話をしましょうか」
微笑みと同様に優しく渋い声。
しかし、それは俺に恐怖しかもたらさなかった。