人質
扉から獣のように泰然と入ってきたオッカムは部屋の状況を軽く見渡す。
俺が両腕を縛られていること、豚男が驚いて変な顔をしていることを確認する。
そしてなによりもトリカを警戒していた。
オッカムはトリカがこちら側に付いたことをまだ知らない。警戒して当然だ。
トリカの鏡が自分自身へと向いていないことを確認したのか、オッカムはトリカの方へ体を向ける。
トリカは完全にオッカムのいでたちに呑まれてしまっているようでどこか虚ろだ。
まずい……このままじゃトリカが殺される。
オッカムを止めようとした。
「うごくな!」
俺はまだ何も言っていない。俺の後ろから豚男が叫んだのだ。
オッカムは足を止めて豚男を睨み付ける。さらに続けて、
「うごくんじゃねぇ! うごくんじゃねぇぞ。こいつの首が飛ぶぜ」
いつの間にかその手に持っていた剣を俺の首に当て付ける。
弾け飛ぶ風船のような体からは想像もできないほどの早業だった。
剣は倉庫で赤服達がもっていたものと同じ刀身が長いものだった。
先ほどの剣よりも明らかに刀身がきれいだ。
おそらくこの剣は人を斬ったことがない。
よく磨かれてはいるものの、あどけなさを感じる。
もしかすると俺の首が初めてになるかもしれない。ぞっとしない話である。
「両手をあげろ!」
豚男が俺を引き付け、剣を首筋にぺたりぺたりとつけながら要求する。
そのたびに冷たい感触が首をつたう。
その冷たい感触よりもむしろ密着する豚男の体の感触のほうがじめじめ、ぶよぶよと暑苦しく、正直やめて欲しかった。
オッカムが豚男の方を向き、ゆっくりと両手を挙げる。豚男の要求は受け入れられた。
ただし武器は手放さない。
確かに言われていないが、普通は武器も捨てるもんじゃなかろうか?
「おい、お前! なにをしてる! はやくこいつを捕まえろ」
豚男はそれには構わずトリカをまくし立てる。
トリカがどうしようといった顔で、俺とオッカムを交互に見ていく。
「トリカ。こんな豚野郎の言うことなんか聞く必要ないよ。君は俺たちと一緒に来るべきだ。そこに君の居場所がきっとある」
「お前……なにを言っている」
豚男は明らかに戸惑っている。俺の言っていることが理解できていない。
横目で豚男を睨む。
「彼女はもうお前らの物じゃない。トリカは一人の人間で、俺の友達だ」
それを聞いて、トリカの顔から戸惑いがなくなった。
目を閉じ、すぐにキッと開く。その目は覚悟を決めたことを物語っている。
「スース臨時基地長……私、カトプ・トリカは本日をもってシニストラ軍を辞めさせて頂きます」
凛とした声でそう宣言した。
豚男はその言葉をゆっくりと咀嚼していき、完全に理解したとき、その顔が真っ赤になった。
オッカムの表情は変わらない。
いや、口と目がさっきよりも開いている……気がする。
とりあえずトリカが敵でないということは理解してもらえたようだ。
トリカへの警戒が薄まったように見える。
「こ、この、この裏切り者め! ひとでなしどもが! だからお前らなどと任務に就きたくなかったのだ。だれか! だれかいないのか! くそっ、いいか動くんじゃないぞ! 動いたらこいつの首を落とすからな。おい、お前も手を挙げろ!」
豚男は発狂してきた。
俺の耳元でひたすら叫ぶ。俺の片耳が耳鳴りで良く聞こえなくなってきている。
トリカも両手を挙げたのを確認すると、俺の首元に剣を当てた状態で徐々に扉の方へ移動する。
部屋の外に出て、助けを求める気だろう。
なんとかこの部屋で片をつけたい。
オッカムに攻撃の合図を送れれば、なんとかなるかもしれない。
合図か……。
閃いた――が、果たして伝わるだろうか。
「オッカムさん。武器を捨てた方がいいんじゃないか」
いきなり俺が喋ったため、豚男が俺の方を見る。
しかし、言われたことに気づいたのか。オッカムの手を見る。
横目で豚男の視線が逸れたことを確認すると、豚男から見えないように縛られた腕をこっそり背中から出して人差し指を立てる。
「逃げるにしても武器を捨てさせてからの方が賢明だと俺は思うんだけど」
人差し指に続き、親指を立てる。
「武器を捨てろ!」
「いいのか?」
豚男が叫ぶとオッカムが聞き返す。
「いちいち確認するなよ」
俺はそう言って親指、人差し指に続き中指を立てる。
オッカムの口が素早く動いた。しかし、音は発せられない。
はっきりとはわからないが、おそらく『うごくな』だと思った。
オッカムが両手を挙げた状態でナイフから手を離した。
ナイフはすぐに手を離れ地面に向けて落ちていく。
豚男がそれを見て安心したのを横目でしかと見届ける。
少し遅れてしまったが、俺はその場で、
「ぶたぁぁあああっ!」
そう思いっきり叫んだ。
豚男はギョッと驚いて俺を見る。
そんな彼に俺はとびっきりの笑顔を返す。
その笑顔で彼も気づき、正面を見直す。しかし、もう遅い。
豚男が顔を俺に向けた瞬間、オッカムは動き出していた。
手から離れたナイフはすでに地面すれすれのところにある。
オッカムはそのナイフを軽く屈んで空中でつかみ取り、その勢いを保ったまま俺の方へ投擲した。
電光石火、その動作の流れに無駄はなく、最適化されているようだった。
『うごくな』と釘を刺されたときに、何をする気かはだいたいわかっていた。
すこしでも手元が狂えば投げられたナイフは俺に突き刺さるだろう。
もしかしたら当たるかもしれないという思いはあった。
しかし、オッカムの動作を見た俺からそんな不安は消え去った。
大丈夫だ。これは自分に当たらない。理屈のない確信が俺を満たす。
かくして投げられたナイフは空中でわずかに回転し、俺の顔のすぐ横へ。
すなわち、オッカムの方を向き直した豚男の額へと吸い込まれるようにすとんと突き刺さった。
「ぶひっ」
まぬけた断末魔が上がる。
豚男は自分の額に突き刺さったナイフを見た。
自分の死を確認するや否や、目玉をぐるんと回す。
全身から力が抜けたのか、剣を持つ腕もだらりと下がった。
俺はすぐに体を豚男から避ける。すると豚男は力なくうつ伏せに倒れた。
すぐにオッカムが俺に近寄り、手に持っていた剃刀で俺の両手を縛っていたロープを切る。
手は感覚がなくなっていたが、徐々に血の巡りを感じてきた。
「気づいてくれてよかったよ」
「突入の合図だった」
そう。デクストラの基地で使った突入の合図だ。
三、二、一で人差し指、親指、中指を立てていく。
オッカム『さん』、『に』げる、『いち』いち。たしかに伝わっていたようだ。
トリカが立ち尽くしていた。
両手は下ろしているが、どうやら状況についてこれていない。
いきなりだったから、当然といえば当然か。
オッカムがトリカに向かって歩き出す。
「オッカム。彼女はもう敵じゃないんだ」
俺の声に耳を貸さず、さらにトリカへと歩み寄る。
オッカムは背を向けているため表情がわからない。
まあ、正面から見てもほとんどわからないのだが。
「どうしたい?」
いきなりの質問。明らかに言葉が足りていない。
おそらくオッカムがトリカを見据えているように、トリカもオッカムを見据えている。
「私は――私は今まで、ホルダーになったことを不幸に思い、自分の刃と向き合おうとしなかった。周りの状況に流されて、自分は誰にも受け入れてもらえないと思いこんでた。でも……彼は、ルーはそんな私の刃を美しいと言ってくれた。私を人と認めてくれた、そればかりか私を友達だって」
トリカはこちらを見てくすりと笑う。
「彼とこの世界を改めて見直していきたいと思う。ルーが一緒なら、この世界は別の見え方をするかもしれない」
「見えるのはいいものばかりではない」
「そうかもしれない。それでも……ルーは一緒にそれを受け入れて、悩んで、苦しんでくれると信じてる。だから――私は彼と共に行きたい」
「トリカ……」
改めて口に出されるとどうも小っ恥ずかしいものがあった。
トリカはオッカムを見つめる。
オッカムは、「そうか」とだけ言い踵を返し俺の横を通り過ぎる。
「島から脱出する。ついてきて」
彼女は軽く振り返り、そう言った。
彼女の鋭い目は俺とトリカ、両方を見ている気がした。
「行こう、トリカ」
俺はトリカに近づき手を差し出す。
「ついて行くわ、ルー」
――どこまでも、と続けて彼女は俺の手をしっかりと握りかえす。
そんな俺たちの様子を見たオッカムは背を向けて、ゆっくりと走り出した。