三枚目の鏡
目の前には男が二人。ケツ顎とたらこ唇だ。
最初は俺が鏡から出てくる様子に呆けていたものの。
完全に出てくるころには臨戦態勢に入っていた。
腰にぶら下げていた剣を抜いてこちらに向けている。
よかった。
仲間を呼ばれるとやっかいだった。挑発した甲斐があったようだ。
デクストラの基地で奴らの仲間と戦ったときは不意打ちだったからあっさりと倒せたが、果たして彼らと正面から戦えるだろうか。
間違いなく奴らは刃は持っていない。そこは注意しなくていい。
だが彼らはエリートと呼ばれるくらいだ。きっと、腕も相当なものだろう。
はっきりとした実力はわからないが、彼らは油断している。
一に、武器の有無だ。
こちらに武器はない。良くいうと徒手空拳だ。
軽く見渡した限り部屋に武器は置かれていない。
一方、彼らは二人とも剣をもっている。ロングソードだろうか、腕よりも少し長い程度だ。
鈍い光を放つその剣は部屋で振るうためのものではないだろう。
二に、数の差もある。こちら一人に対し、あちらは二人だ。
三に、奴らは俺に刃がないこともわかっているだろう。
この三要素は俺の不利を示すが、同時に彼らを油断させている。
その証拠に剣線は下がり、彼らの顔もニヤニヤと緩んでいる。気持ち悪い。
本気で俺を相手にする顔ではない。
自分たちが狩る側の人間だと疑っていない。
この油断をついて一気にたたみかけるのが上策だろう。
うん、大丈夫だ。
怒りはいまだに俺の中を駆け巡っているが、頭は別にきちんと動いている。
これなら問題ない。奴らに煮えたぎる思いをぶつけることができる。
ニヤニヤしているケツ顎に一歩近づく。
彼はこちらが近寄るのを見ると一気に斬りかかってきた。
掛け声を上げての、斜めからの袈裟斬り。どうやら本気で俺を殺すつもりらしい。
だが、あまりにもわかりやすい太刀筋だ。剣の軌跡が簡単に読める。俺を案山子と勘違いしてるんじゃないだろうか。
体を半身にして、わずかに動くことでその剣を避ける。
そして、開いた脇腹に拳を叩き込む。
拳に当たる硬い感触、同時に体に伝わる鈍い音。肋骨が折れたかな。ケツ顎の顔が苦痛に歪む。
そんな気持ち悪い顔には構わず彼の足を払い、体を崩す。
仰向けに倒れようとしている彼の額を掴みそのまま床に勢い叩き付けた。
頭と床はその衝撃を低い音として部屋に木霊させる。
ケツ顎は何度か痙攣したものの、すぐに脱力し動かなくなった。
ケツ顎が片付くとすぐにたらこ唇の方へ向き直る。
彼はケツ顎のほうを信じられないといった顔で見つめている。
だめだな、見る相手を間違えている。敵を前にしてよそ見はいけない。
一気に距離を詰める。
たらこ唇はびくりと震え、剣をこちらに振るう。
こちらをまともに見ず振るった剣は当然のように空を斬る。
剣を持っていた手首を掴み引き寄せる。引き寄せた彼の首、喉仏を掌打する。
言葉にならない音が彼の口から漏れる。息が詰まりもがいている。
手に持っていた剣は床に落ち乾いた音を鳴らす。両手を首に近づけ息を吸おうとする。
そんな彼の鼻に拳を入れる。
たらこ唇もだらしなく床に倒れ気を失った。
当面の敵は片付いた。
床には赤い服に身を包んだ男が二人、意識をなくし惨めな姿で倒れている。
思ったよりも楽に片付いた。正直いって拍子抜けだ。油断していたとしても弱い。
地上のエリートってのはこの程度なのだろうか。
それとも彼らが特に弱かっただけなのだろうか。
ダモクレスでケファ兄、ロンらと師匠の元で鍛えていたが、どうやら地上でもこの武術は通じることがわかった。これはありがたい。
オッカムの体力、動き、息づかいを見て地上の鍛え方は尋常ではない思っていたが、どうやら彼女が異常のようだ。そう思いたい。
どちらにせよ。怒りは自分から霧散したし、よしとしよう。
トリカのいる方向に振り返る。
彼女は部屋の壁近くで呆然としていたが、俺がそちらに足を進ませると明らかにおびえ、その体を震わせた。
俺はそんな彼女には構わず、さらに近づく。
途中、足下に落ちたままの彼女の鏡を拾い上げる。
鏡面を下に向け俺の方が映らないようにしておいた。
鏡に触れないとその力を出せない類のものだとは感じていたが念のためだ。
彼女は俺が鏡を拾ったのを確認すると、その顔をさらに歪ませた。
見ているこちらの方が痛々しい。
俺がさらに近づくと彼女は腰を抜かせたまま体を後ろへとずるずると後退させる。
しかし、すぐに壁に当たりさがれなくなった。
壁の方を向くも、どうしようもできない。もう彼女に逃げ場はなかった。
すでに俺は彼女のすぐ前に立っている。彼女は俺を見上げる。
「ご、ごめんなさい」
震えた声で謝られる。俺を鏡に閉じ込めたことへの謝罪なのだろう。
立場は完全に逆転している。
先ほどまで彼女は鏡の中にいる俺に対して上から話していた。
だが、今は俺が上にいる。
彼女の手にもはや反撃のカードは残されていない。絶望的だろう、もう謝るしかないほどに。
そうだとすれば、彼女は勘違いをしている。
俺の怒りはもう発散しているし、彼女への敵意はもうない。俺が謝ることはあれど、彼女は謝ることなどもう何もないのだ。
俺は膝をつき、身をかがませる。
目線は彼女とほぼ同じ高さになった。
これでいい。どちらかが上である必要はない。
俺が望んでいるのは同じ目線で話せる関係だ。
彼女に向けて手を伸ばす。
「ひっ」
彼女は小さな悲鳴を上げ、目を閉じる。
俺は彼女に手を触れない。ただ、
「トリカ」
名前を呼ぶ。
彼女はおそるおそる目を開ける。目が合う。
彼女の顔から少しだけ恐れが消える。俺の目を見て、敵意がないことを感じてくれたらしい。
恐怖の代わりに困惑がその顔を覆っている。
彼女に向けて伸ばした手には彼女の刃――鏡が握られている。
「これはトリカの刃だろ。大切に扱わないと」
彼女の顔は困惑から警戒へとシフトした。そんな変化は無視して続ける。
「トリカはこの力が嫌いなのかもしれない。これのせいで君は周りから疎まれ、人としての扱いを享受できなくなったのだから」
俺は鏡を見つめる。でも、
「俺はその力を心から望んでいたんだ。毎日、毎日、朝から晩まであらゆるものに触りまくった。能力者に――なりたかった」
同年代の奴は次々と刃に目覚め、俺だけが取り残されていった。
「時間が経つと諦めが出てくるんだ。俺にはもう無理なんだなって。俺とあいつらは別物だという自分への劣等感が彼らとの壁をさらに厚くしたんだ」
その壁は自分が作ったものだ。彼らは俺を受け入れてくれていただろう。
それが余計に俺を孤独にさせた。
「俺はもう生きることすら馬鹿げたものだと感じていたよ。人にはなれないし、そのうち殺される。そんな人生に意味なんてないだろうと。ただただ惰性で日々を過ごしてた」
俺は強くなかった。
しだいに心は擦り切れて、痛みに耐えきれなくなった。
「そんなとき、おせっかいな知り合いが俺にかまってきた。最初は無視してたんだけど、しつこく感じてきてそいつに当たったよ。『お前に俺の何ががわかるんだ』ってね。そしたらそいつは『わかるわけないだろ』って言い返したんだ。唖然としたよ」
笑いがこみ上げる。
ああ、懐かしいな……。少し目がうるむ。
「さらに『僕は君じゃないんだからそんなことは知ったことじゃない。でも君がいつまでたっても話してくれないんじゃ何もわからない。僕はもっと君のことが知りたいんだ』だってよ。俺は久々にぶちぎれたよ。それで、そいつと喧嘩をした。奴は本気で俺に当たってきたし、俺も本気で奴に当たった」
本当にどちらも動けなくなるまでやりあった。
肉は切れ、骨は断たれ、内蔵がやぶれ、口から血反吐も出した。
トリカは警戒の顔を、馬鹿を見る顔に変化させていた。
「そのあとくらいから俺は気づいたよ。俺が勝手に閉じこもっていただけで、周囲はほんとに俺を思っていてくれてたんだって。力の有る無しは関係なかったんだ。ロンは――その友達はそのことを俺に気づかせてくれた」
俺はトリカの目を見る。
「俺は地上のことについてほとんど何も知らないし、ましてやトリカがどんな生き方をしてきたのかはわからない。さっきも偉そうなことを言ったけど、ダモクレスと地上では意識の違いもあるだろう。でも、君たちが閉じこもっているままじゃ、やっぱりなにも変わらないと思うよ」
刃を持つということは、ダモクレスでは人になることで、地上では人でなくなることだ。
この違いはどんな差を生むのかも俺にはよくわからない。
「トリカはさっき俺に対して本気で怒ってくれたよね」
彼女は小さくうなずく。
「トリカは物じゃないし、兵器でもない。あそこで倒れてる連中は君を人じゃないって言ってるけど、そんなことはない。確かな感情を持っていた。だから君は俺に対して本気で怒った。その思いがあるのなら、俺たちは絶対にわかりあえる。刃の有無はその過程に関係しない」
「ルイゼット……」
「だから、この鏡を手に取って欲しい。これは君だけのものだ」
彼女は疎み、俺は欲したその力。だが、その力は俺たちの関係に関与しない。
彼女の手が鏡へと伸びる。
「私にも……そんな友達ができるかな」
「できるさ――」
トリカの瞳をまっすぐ見つめ、迷わずそう返した。
彼女の顔に見えていた不安は消え去った。
「友達は鏡と似ているよ。鏡は自分の目が届かない所を見せてくれる。ものに隠れて見えないところや自分自身の見えないところ。一人では見えなかった部分が見えてくる。時には見たくなかったものも見えるだろう。それでも、それを一緒に受け入れてくれる。さらに友達が二人、三人と増えると世界は新しい見え方をするようになる。友達が二人なら、彼らが俺に近づけば像は、可能性は徐々に増えていく。三人ならきっと世界を埋め尽くすほどになるだろう――そう、万華鏡のように。君の刃は無限の可能性を示す。故に美しい」
俺はこの地上でロン、ケファ兄に続く三人目の友人に出会うことができたと思っている。
果たして彼女は呼んでくれるだろうか。
彼女は受け取った鏡を見つめ、両手で持って胸にそっと押し当てる。
そして、こちらを見つめてやわらかく微笑み、
「ありがとう、ルー」
そう告げた。
目は潤んでいる。
……ああ、呼んでくれた。
それならきっとこの世界は、複雑で那由多ほどの可能性をどこまでも俺に見せ続けてくれるだろう。