馬鹿で構わない
鏡は落とされた。
光はわずかにしか入らないし、声ももう届かないだろう。
この現状で俺にできることは一つだけだ。
「寝るか」
そう寝ること。
待っていればオッカムが助けに来るだろう。
それなら下手に動くよりも体力の温存を図るべきだ。
さっそく横になる。床は硬く冷たいが、体を休めるぶんにはたいした問題にならない。
枕が欲しいところだが腕で我慢しよう。
目をつむる。外から物音はほとんど聞こえない。
トリカは何をしているんだろうか。少し言い過ぎたな。
と、そんなことを考えているとしだいに意識が遠くなった。
なにやら声が聞こえ、意識が自分に戻ってきた。鏡の中はまだ暗いままだ。
いったいどれくらい寝てしまっただろうか。
体の感覚から察するに長い時間寝たとは思えない。
しかし、硬い床で寝てしまったためか体がちょっと痛い。
「なんでお前だけここにいんの」
聞いたことのない男の声。どうやら部屋に誰か来ているようだ。
「お前がピルスとバルバを殺したんじゃないのか」
こちらも男の声だが先ほどのものとは違う。じゃっかん声が太い。
ピルス、バルバ。どこかで聞いたような……。
そうだ、デクストラの基地にいた髭と後ろ髪を豚男はそう呼んでいた。ということは先ほど喋った二人は彼らの仲間だろうか。
俺は静聴を決め込み、聞き耳をたてる。
「違います。彼らは対象たちにやられました」
きれいな声だ。トリカだろう。
「じゃあ、どうしてお前だけが無事に帰ってきてんだよ。やっぱりお前があいつらを売ったんだろ」
「彼らは対象たちに急襲され倒されました。その後、私が対象の一人を不意打ちし捕らえたのです。もう一人は私では捕らえられなかったため、一旦こちらに戻りました」
はい、その不意打ちで捕らえられたのがこの私です。
そういえばオッカムも鏡を見ていたが、ここに捕らえられていない。
おそらく、この力は一人しか捕らえられないのだろう。
豚男と同じように男たちはトリカを一方的になじっている。
俺は静観を決め込んでいるためなにも言わないし、できない。
どうせ奴らはすぐに飽きて部屋から出て行くだろう。
「あいつらを囮にして対象を捕まえたのか。ほんと、ホルダーはやることが汚ねぇな」
「同じホルダーで仲間意識が沸いて、もう一人のほうは逃がしてやったんじゃないのか」
「そんなことは……」
「捕まえられなかったほうはお前の相方が追ってるんだよな、あの銀バッジをつけた蒼髪の。どうだろうな、ほんとはあいつらの仲間でこの基地に誘導して俺たちを殺す気なんじゃないのか」
……鋭いなこいつ。いや、いいがかりなんだろうけどさ。
「それにホルダーが銀バッジとかおかしいだろ。俺たちと同じ人間扱いだぜ。どんだけ殺して来たんだっての」
「お前も向こうの基地でだいぶ殺してきたんだろ。人間様を殺せて楽しかったか」
「私は殺していません」
トリカの声は震えてきている。
…………。
俺は静観をすると決め込んだんだ。
オッカムが助けに来るまでは何もせず、ただ黙って横になり夢をみていればいい。
トリカが何を言われようとも他人事だと割り切りほうっておけばいいんだ。
わかっている。ここで口を出してしまってはただの馬鹿だ。
「そうかそうか、ホルダーに武器は支給されないんだっけ。じゃあ、お前は人が殺されるの楽しげに観察してたわけだ。それで仲間が捕まったら、囮にして手柄だけ独り占めか。お前らほんとにカスだな」
「どうせ捕らえたやつも隙を見て逃がすつもりだったんだろ。この人でなしが」
「私は……」
トリカの声がかすれていく。
「お前ら、いい加減にしろよ」
静かな、しかし確かな声だった。
自分の声を聞いてから、口が出たことに気づいた。
体を流れる血の熱さを感じている。
髪の先から足のつま先まで血が流れているのではないかと錯覚してしまう。
そうだ、これは怒りだ。
この抑えきれない感情はいつの間にか俺を地面に二本足で立たせている。
ここで黙って横になっていることが賢い奴だというのなら、俺は――。
いきなり発せられた声に男たちが「あぁ?」、「なんだ?」と口にしている。
「お前らの足下を見てみろよ。鏡があるだろ、それだ」
男たちが気づいたようだ。足音がする。
あぁ、早くしろよ。
この待つ時間がじれったい。必死に押さえ込んでいる感情がいまにも俺を突き破って出てきそうだ。
俺を突き破って出てくるそれは、この狭い鏡の世界をあっという間に満たしてしまうだろう。
世界に光が入る。眩しいが俺は瞬きをしなかった。
丸枠に男たちの姿が映る。一人の顔の特徴は一言にすると顎だ。ケツ顎だった。見事に割れている。
後ろに見える男はたらこ唇だ。それぐらいしか特徴がない。
どちらもエリートなのだろう赤服を着ている。
「よお」
挨拶をする。
ケツ顎とたらこ唇は鏡に映る俺を見て目を見開いた。
「なんだこれ」
「さっきトリカが話してただろう。不意打ちして対象を一人捕まえたって。俺だよ」
さっき豚男の部屋に何人か他のやつもいたが、鏡の中はみてなかったらしい。
ケツ顎は理解し、笑い出す。
「見ろよ。鏡の中に野郎が入ってるぜ」
ケツ顎が鏡をたらこ唇に見せつける。
たらこ唇もこちらを見て笑う。
ついでに俺も笑う。
「そういやお前らの仲間のなんていったかな……髭と後ろ髪。デクストラの基地にいたやつだけどさ――」
男たちが笑いを止め、こちらを見る。
「めちゃくちゃ弱かったよ。赤服はエリートとか聞いてたけど、なにがエリートなんだ。態度か。ああ、顔の特徴か。お前らもケツ顎にたらこ唇だしな。たしかにエリートだ」
男たちの顔色が明らかに変わる。
顔から笑いは完全に消え、口は閉じ、目がつり上がってきていた。
だが、こちらも口を止めない。
「ああ、あと口もよく動くな。自分の身が安全だから立場が弱い奴には強いんだよな。わかるよ、怖いんだろ。だから、その赤い服を着て二人で立場の弱くて武器も持ってない女の子一人をなじるんだよな。一人じゃなにもできないんもんな」
ケツ顎の鏡を持つ手に力が入っている。鏡の枠がきしむ。
「ホルダーごときが誰に向かって口をきいてんだ、コラ」
ケツ顎がこっちを睨みつける。
「怖いのか。よかったなぁ、俺が鏡の中にいて。そこなら思う存分強がることができるもんな」
「てめぇ」
「あと、俺はホルダーじゃない。お前らと同じ人ってやつらしい、まったく吐き気がするよ」
「なに、ホルダーじゃない?」
「何度も言わすなよクズども、俺はホルダーじゃない。聞こえたか?」
ケツ顎はトリカの方を見て真偽を確認する。
トリカは後ろで首をコクコクと縦に振る。
「こいつを鏡から出せ」
ケツ顎は挑発に乗った。
挑発と言うよりも思ったことが口から出ただけだったが、結果良ければなんとやらだ。
「スース臨時基地長は絶対に出すな、と」
「んなこたぁいいからとっとと出せ。こいつをぶっ殺してやらないと気がすまねぇ」
「おい、落ち着けよ」
たらこ唇がケツ顎をなだめる。
「そうだぜ。そのたらこ唇が言うとおりだ。俺が鏡から出たら強がれなくなるぜ」
ケツ顎の顔はまっかっかだ。
「いいんだよ。こいつが対象を鏡から逃がそうとしていたところを俺たちが仕留めたって説明するからな。誰もこいつをかばわない」
ケツ顎はトリカを指して、そう言う。
どうやら濡れ衣工作はできているらしい。さすがだエリート様。
たらこ唇もその意見に賛成して、トリカを見つめた。
トリカは困惑し、涙目になってこっちを見つめる。
「出せよトリカ。エリート様が命令してるぜ」
諦めたようで彼女がゆっくりとこちらに近づき、指を鏡面にむける。
丸枠には彼女の細い指が映り込んでいた。
指が鏡面に触れる。その触れたところを中心として波紋が丸枠に広がっていく。
「私の指に――」
俺は波紋の中心点である彼女の指に触れる。
すると、俺の手が丸枠から引きずり出される。
おぉ、これはすごい。
腕、体、頭、足と徐々に丸枠へとめり込んでいく。
俺の体は徐々に鏡から外部へと像を結んでいた。
トリカが鏡から離れていく。
視界は完全に外部へと移った。
足下には先ほどまで入っていた小さな鏡が転がっている。
鏡に映るその顔は――その目は俺の嫌いな父とそっくりだ。
瞳の奥にいる何かは殺気を放ち、俺を見つめている。そんな気がする。
その錯覚は俺を余計に苛立たせる一方で、爆発寸前の思いを押さえ込む。
鏡から目を逸らし二人のエリート様を睨みつける。
さて――この激情。どうして彼らにぶつけてくれようか。