第八夜・少女、影と舞う
5月26日 「白い」誤を「紺色の」に修正。
致命的なミスです。これにより混乱された方もいるかも知れません。真奈の制服は紺色です。作中に出ていませんが、白い制服は瑞穂の学校のものです。著者が混同してどうするよ…ってまぬけな話です。申し訳ありませんでした。
ホテルの一室にいるのは「彼女」一人だけだった。
ソファーには少女の紺色の制服が乱雑に置かれ、ベット脇には男のシャツとスラックスが落ちている。
誰も横になる人物のいなくなったベット。「彼女」はそのシーツを引き剥ぐと、それで裸体を包んだ。
流れ込んだ風が、その銀色の髪を、即席にあしらわれた白いドレスの裾を揺らす。
赤い瞳が風の流れ来る方向に動く。バルコニーに面した大きな窓がそこにあった。完全に閉じられていなかったようである。
ゆっくりとバルコニーへ足を向け、「彼女」は、ふふふ、と妖しく微笑んだ。
己と同じ魔力の波動、その残滓を持つ何者かの接近を感じたのだ。
「あの鈴の滝口が向かって来るのね……」
窓を開き、バルコニーに出た「彼女」をビル風が迎える。白いドレスが靡いて、その下にある艶めかしい裸体の輪郭を露にする。
「私が殺してあげるわ」
妖艶な笑みを浮かべ、「彼女」はそこから地面へと身を躍らせた。
「彼女」が舞い降りた地は駐車場であった。そこにあった人影は三つ。車に乗り込もうとする若いカップルと、眼鏡の口髭を生やした中年男性である。
それぞれが驚きを隠せずに、上空から降って湧いた「彼女」を見ていた。
「彼女」が舞うように跳躍する。その右手に黒い大きな鎌が創り出された。影を魔力で具現化したデスサイズである。
着地際に、その死神の鎌を縦に振るう。その一撃は、悲鳴を上げようとした女に、その時間を与えずに死を贈った。
頭部から二つに割れた女の体。返り血を浴び、紅く染まる「彼女」のドレス。
恐らくは最愛の人物を失った男は、しかし、ただ呆然としていた。「彼女」の美しさに魅入られたのか、現実を受け入れられずにいるのか。だが、それもすでにどうでもいいこと。男も直後、その人生に幕を下ろすのだ。
大鎌を「彼女」が横に薙ぐと、男の上半身と下半身は切り離された。
辺りに血の臭いが立ちこめると、「彼女」の影が蠢いた。影は二人の肉塊を包む。辺りに散った血痕にさえも、吸い付くように這う。そして、それらを影の世界へと消した。
変幻自在に収縮拡大した影。それは「彼女」の正常な影の形に戻るが、地には伸びてはいない。「彼女」の横に寄り添うように並んでいた。
ただ一人の殺戮の目撃者となった男は、その様子を逃げもせず見ていた。驚きの表情のまま、凍りついた顔。しかし、その口から溢れた言葉は、恐怖を表すものではなかった。
「……真奈?」
男の手にしていたボストンバックが落ちる。眼鏡の奥の目から、一筋、涙が流れた。
「マナ?」
その名前を聞いて「彼女」は首を傾げる。
「彼女」は確かに真奈、藤川真奈に他ならなかった。赤い瞳、長い銀色の髪。確かにそれは通常の彼女のものではない。だが、その容姿はまさしく彼女のもの。声もまた彼女のものであった。
男には解ったのだ。
つい数時間前にぶつかった少女が、目の前にいる「彼女」であり、藤川真奈であることが。
「真奈!」
両手をに伸ばし、男が少女の名を叫ぶ。
しかし、彼に反応は返らない。そこにいるのは藤川真奈であるが「彼女」なのだから。
「ああ。この娘の名前なのね……マナ。ふふ。いい名前」
「彼女」は満足気に笑った。
「その名前、頂くわね……私はマナ。御影マナ」
「彼女」は名乗る。
だが、男にその声は届いていない。真奈を求め、マナに一歩、二歩とゆっくりと歩み寄る。男の頬を涙が次々と流れていた。
その様に興味を抱くことなく、マナが口を開く。
「名前をくれたお礼をあげるわね」
そう死を宣告すると彼女は左腕を男に向けた。開かれた掌に黒い拳大の球体が生じる。それは滝口の少年を襲った魔弾だった。
「ありがとう」
男に微笑むと、マナは魔弾を射出した。
「土行、土気を以って地を断つ!障壁よ!」
駐車場に違う少女の声が響く。その声と共に、男の前にアスファルトが隆起し、文字通り壁が生まれる。
さらに現れた少年が男の体を鐺で突き飛ばす。
少年はその魔弾の威力を知っていたからこそ、男を乱暴に扱った。猶予はなかったのだ。彼の予想通りに魔弾はアスファルトの障壁を貫通した。それは男の体が物理法則に従って倒れようと動き出したと同時であった。
男が苦痛を叫ぶ。
黒い球体は男の脇腹をえぐり、後方に停車された白いセダンタイプの車両に穴を穿った。
「遅かったわね」
マナは薄笑いを浮かべると跳躍し、葬ったばかりの男女が乗り込むはずだった黒いワゴンタイプの車の天井に立った。
マナの前に現れたのは滝口と陰陽師である。
「お前が二人目、か」
詩緒はいつでも抜刀出来るように身構えた。瑞穂が詩緒の足元で呻く男に駆け寄る。
「その男を任せた」
詩緒は言うと、目の前の瓦礫と化した障壁を踏み台にして跳んだ。
右手で左手にある刀の柄を握る。鯉口に添えた左手を引くと鞘から刀身を走らせる。刹那の動き。何時抜き放たれたのか解らない神速の抜刀術。一閃。そして直後には納刀される刀身。
しかし、マナは後方に大きく跳んでそれを避けていた。だが、身を包むドレスの一部が切り裂かれ、白い肌がそこから覗く。
着地する滝口と魔人。互いの距離は大きく開いていた。
牽制の効果を考えれば、剣術において抜刀術ほど優れた技はない。間合いが測れないからだ。距離を作ることを目的にした詩緒の攻撃は見事に成功した訳である。
「行け」
振り向かず敵を見据えたまま、詩緒は言う。
「力仕事はアンタがすべきでしょうが!」
文句を返しながらも、瑞穂は男に肩を貸して立ち上がらせる。
陰陽師の代名詞たる式神を使えば、彼を楽に運ぶことも出来るのだろうが、人目についてしまう。結局、瑞穂には肩を貸すより他に方法はなかった。
詩緒は瑞穂の文句を流し、二人目の影の魔人との距離を少しずつ詰めていた。マナは大鎌を片手で持ち、空いた左手を詩緒に向けていた。マナは微笑んでいた。滝口と戦うのは二度目である。余裕を持っていた。自身の勝利を確信しているのだ。滝口ごときは敵ではない、と。
「貴方は私を愉しませてくれるの?」
マナが口を開く。
「安心しろ。殺してやる」
じりじりと距離を縮めながら詩緒は返す。
「この間の滝口みたいに失望させないでね」
嗤う。それを詩緒は冷ややかな目で睨んだ。
詩緒は背後の苦しそうな呼吸音を聞き取りながら、魔人と自身、魔人と瑞穂までの距離を探っていた。男の呼吸音がある地点まで遠ざかる。予想される安全圏への到達。詩緒の待っていたその瞬間が訪れた。
そして、詩緒はマナに向かい駆ける。抜刀はまだしていない。納刀されたままの刀を構え、中腰の姿勢で疾走する。マナは影で地面から伸びた大盾を創ると右半身を覆うように展開した。左後方に刃を寝かせて鎌を構え両手で柄を握る。双方が一瞬と呼ばれる時間で動き、攻撃を仕掛け、備えた。滝口の刀が斬間に入るや閃く。盾を頼りにマナは全身の力を込めて真横一文字に鎌を振るう。
側面に配されたマナの盾は斬撃に備えたものであった。しかし、詩緒の狙いは彼女の身体ではない。抜刀された刀が斬ったものは彼女の武器だった。
鎌の刃が回転しながら飛ぶ。柄の部分と刃の部分を斬り分けられた大鎌。マナが武器を失ったことに気がつき、魔道の発動を、新たな武器の創造を試みる前に勝負は決していた。詩緒はその暇を与えず、武器を破壊するために振るった刀を手首で返し、逆方向へと走らせた。流れるような巧みな太刀ゆき。そして、マナの喉元で切っ先が止められた。
「渡辺詩緒。お前を殺す人間の名だ」
魔人の赤い目を見据え、切っ先を突き出す間際に滝口が吐きつける。
「待って!」
焦り、マナは叫んだ。
「この娘は操られているだけなのよ……貴方に斬れるの?」
続いた彼女の言葉。
詩緒の刀に迷いが生じた。
<解説・刀用語>
鯉口:刀を納める鞘の口。
鐺:鞘の先端部。ある程度の強度を持っており、敵の鳩尾を突いたり、顎を打ったりと、打撃に使うことができる。
斬間:刀の刃が届く範囲。
太刀ゆき(たちゆき):戦闘で刀を振るうこと。