第七夜・悪夢は鈴の音を聞く
空に浮かぶのは、満月に向かい丸みを帯びていく月。今、姿を現しているのは三分の二程。
九日月。そういわれる月だった。
その周りに星の光は少ない。
都市の夜空である。地表は灯りに溢れ、大気は淀み、星々の光を遮っているのだ。
それを見上げた瑞穂は舌打ちした。先程、詩緒に否定された己の力量を見直させようと、星を読もうとしたのだ。占星術を行使するつもりだったのである。
その占術は陰陽師が政治や社会に深く関わっていた時代に、彼らが陰陽寮といわれる組織で行っていた星の魔術の一端である。
星は天に在る。天に在るは即ち神。そして、神は地上の命運を握る存在である。
つまり、星空には神の意思が示されており、陰陽五行の理を介して解くことで、そこから未来を読み取るという占術である。彼らは、その結果を政治や社会に活かしていたのだ。そして、秘術を行使して星を祀り、災厄を回避し福を招いた。それがその時代の陰陽師の役割の一つだったのである。
当然、見える星の数が多ければ多いだけ、その情報量は増加する。星が示すは唯、事実のみ。後は術者がその膨大な情報を集め分析し、そこにある未来を、いかに正確に読み解くかが問題なのであるのだが――。
「こんなの、やりようがないじゃない……」
この都市部で満足に星が見えないのは当然のことである。まして自分の住んでいる街の空。端からそれに気付かない道理はない。しかし、瑞穂は思い至らなかった自分を棚に上げ、小声でそう愚痴った。
ふと、視線を前方に戻すと、先程まで一歩前を歩いていた詩緒の姿は遥か前方、一区画は先にあった。人混みにかろうじて少年の後ろ頭が見え隠れしている。
「アイツは〜」
眉間に皺を寄せ、呟く。
言うや否や、瑞穂は駆け足で器用に人波をすり抜け詩緒に近づく。そして、無言でその後頭部をぐうで殴ろうと腕を振るった。手抜き手加減はまるでない。彼女は本気である。
しかし、その拳は虚しく空を切った。まるで後ろにも目があるように、詩緒はそれを難なくかわしたのだった。
勢い余った瑞穂の体は、前方にいた大学生とおぼしき青年の背中と衝突する。
瑞穂はあわてて彼に謝罪の言葉をかけた。そして、詩緒は無表情でその様を一瞥するだけで、結局足を止めはしなかった。
思いがけない美少女との出会いに、青年はむしろその出来事に幸運を感じたようだった。喜びを満面に浮かべて、お茶の誘いを切り出す。その間にも詩緒は瑞穂から離れていった。
瑞穂は青年との会話を手早く打ち切ると、改めて詩緒の後を追い、横に並んだ。
「アンタねぇ! かわいい少女をいたわる気持ちはないの!?」
並列して歩く、というよりは小走りで瑞穂は怒鳴った。
詩緒はしかし、それを気に止める素振りを見せない。ただ前を向きながら感覚を研ぎ澄まし、「魔」の気配を探り歩いていた。
彼らは感覚でそれらの気配を感知できるのだ。俗に言う殀気、魔力の波動等と言われる類のものである。
「……なんでこんなヤツと行動してるのかしら……」
無視無言を通す詩緒に、わざと聞こえるように瑞穂は愚痴った。
陰陽師と滝口の協力関係の歴史は古い。滝口という組織が成立した時からの関わりである。
その当時は共に、今で言う政府直属の機関に属する人間であったのだ。陰陽師は政に深い役割も担ってはいたが、共通した目的は「魔」からの守護と、その排除である。宮中を連携し警護したり、目標を共同で討伐したりしていたのだ。
詩緒と瑞穂の関係も二人の人生からすると長い。物心ついたときには、互いを実戦訓練の相手としていた。ある事件が起こってから数年、その関係が途絶えた時期があった。しかし、遊撃の滝口である詩緒が瑞穂の前に現れてから、再び始まり、今に至る訳である。
無愛想で無表情。
詩緒は幼い頃からそうだった。
他人を避けているのだ。瑞穂の知るところ詩緒がまともに話せる相手は、自身とあと一人いた修行仲間しかいない。彼の信念を知らなければ、自分だってこんな少年とはかかわってはいないだろうと思う。
詩緒の兄、瑞穂の憧れだった人物、渡辺柾希。
そして、その希代の滝口と謳われた柾希から、詩緒が受け継いだ小さな鈴。
その鈴こそが詩緒の信念の証。
詩緒の左手首に飾り気なく、ただ黒い革紐に付けられた銀色の小さな鈴を瑞穂は見た。根付けに使われるような小さい鈴が、微かな音色を奏でているのだろう。しかし、人混みの騒音にかき消されて、それを聞くことは叶わない。
瑞穂は何かを感じた。
「おい」
詩緒が唐突に声をかける。
それは恐らく、例の魔人が放つ魔力。
「感じたか?」
渡辺詩緒という少年は性格を除けば、やはり非常に優秀な滝口だと瑞穂は思う。戦闘能力で彼に匹敵する滝口はそうはいない。加えて索敵・感知能力も陰陽師でもトップクラスに入るであろう。瑞穂もまた稀代の陰陽師と謳われる少女である。その彼女とほぼ同時に、今の微弱な「魔」の感覚を感じ取ったのだ。
「私を誰だと思ってるの?」
瑞穂は薄く笑いを作る。
そして、二人の退魔師は同時に凶方へと駆け出した。
白い肢体がベットの上に在った。一糸纏わぬ姿。女性特有の美しい曲線が、艶めかしく横たわっている。
その裸体は、淫らな秘め事を終え、気だるい微睡みに身を委ねた真奈のものである。
真奈の横には付き出した腹を隠そうともせず、白いブリーフだけを穿いた禿頭の中年男がいびきをかいていた。
真奈は夢を見ていた。
それはいつもの「彼女」の夢だった。
「彼女」が行動を開始する。
「彼女」は全裸であった。その上半身をゆらりとベットから起こす。
――それは果たして夢?
――本当に夢?
真奈は疑問を抱いた。「彼女」が出現した場所は、真奈が今、眠りに着いた場所だったのだ。その「彼女」の右手に黒いナイフが産まれる。
「彼女」は隣で寝ている男の首筋に刃を当てた。
刃先がその太い首にゆっくりと埋まる。
男の顔は目を見開き、痛みと恐怖を叫んだようだ。
その男の顔は……
つい先刻まで真奈の体を弄んだ男の顔だった。
ナイフが頸部に根元まで埋まる。
勢い良く血飛沫が上がる。
――現実なの!?
真奈は思う。しかし、確かめる術はない。真奈は夢の中なのだ。
飛び散った血を、首に深い真一文字の切口を持った男の死体を、「彼女」の影が包み隠す。
それが、死者をあの世に送る、真奈がそう思っている行為だった。
影に喰らわれ、飲み込まれ消える男の死体、血の跡。
行く先は真奈の思う場所ではない。魔人の影の世界だ。
真奈の意思が薄れていく。
それは深い眠りに落ちようとしているのだろうか。それとも……。
酷く薄れた意識の彼方で、真奈は微かな音を聴いた気がした。
その夢の世界で、初めて目覚めた聴覚に届いた音だった。
――……鈴の音?……