第伍夜・悪夢は暗く、深く
日が暮れて数時間が経っていた。
雲間から時折、九日月が覗く。
藤川真奈は夜の街を一人、歩いていた。
紺色のブレザーと同色のフレアスカート。上着の左胸元のポケットにある白鳥をモチーフにした校章。彼女が着ている制服は、ここら界隈では有名な私立進学校のものである。
真奈はまだ、帰宅していなかった。
部活動や委員会活動を行っていた訳でも、友人と遊んでいた訳でもない。
ただ、家に帰るのが嫌だったのである。
彼女は母親と二人で暮らしていた。
父親は、真奈がまだ幼い頃に母親と離婚していていない。
その原因は、彼女の母親の浮気だった。
そして、真奈が家に帰りたくない理由の原因もまた、彼女の色事にあるのだ。
母親は真奈の帰るべき自宅に、男を連れ込んでいるのだ。
今日に限ったことではない。
連れ込む男は日によって違うが、いつものことだ。
だから、真奈にとって、この様な行動は日常的なことであった。
母親にとって真奈は邪魔な存在でしかなかった。
愛人との甘い時間を邪魔する存在。
自由に使いたいお金を無駄に消費させる存在。
真奈の母親は、彼女をそのように扱ってきた。
当然、娘の生活に必要なお金を渡すことなどしない。
だから、彼女は自分の生活費は自分で稼いで生きてきた。
金蔓の一人に、女手一つで健気に娘を育てている女を演じている母を、気に入ってる男がいると聞いたことがある。その男は真奈の学費全額と、生活費の一部を負担しているそうだ。
「アンタは、その男から金を貰うためだけの道具なのよ」
酔った母親が真奈に言った言葉である。
それが真奈の母親の、彼女に対する認識なのだ。
母親だけではない。
父親にしても同じだ。
離婚した際に、父親が真奈を引き取らなかった理由。
それは、自分を裏切った憎い母親に、よく似た顔立ちの彼女を嫌ったからだと聞いた。
父親もまた、彼女を邪魔者としたのだ。
だから、真奈は母親に似た自分の顔が大嫌いだった。
パッチリとした二重瞼の目も、通った鼻筋も、色気のある唇も。多くの女性が妬むような美貌を構成するパーツの全てに嫌悪していた。
自身にとっても憎い女性、いや、世界でもっとも忌むべき存在を連想させる、それらをどうして好きになれようか。
そして、同世代をはじめとする他の人間もそうである。
どこから情報が流れるのかは解らないが、幼い頃から、男に金を貢がせる色狂いの女の子供として、いじめの対象になってきた。
友達と呼べる人物など、唯の一人も出来たことはない。
周りからは常に白い目で見られ、後ろ指を差される。
それは高校に入学してからも同じだ。
なまじ成績が優秀なだけに、煙たがられ、疎遠にされる。
誰もが彼女を厄介者扱いする。嫌う。
真奈を思いやる人間は皆無であった。
真奈を愛してくれる人物はいなかった。
――自分は必要のない存在。
いつの頃からか、真奈の心にはその思いが深く、どす黒くこびり着いていた。
そして、他人を完全に拒絶するようになっていた。
真奈の鞄が向かいから歩いて来た、ボストンバックを持った背広姿の男に当たった。
「あっ、失礼」
しかし、ぶつけられた男の方が謝罪の言葉をかける。
口髭を生やした優しい顔付きの男性だった。眼鏡の奥の目が、申し訳なさそうに彼女を見ている。
真奈はむっとした顔で男性を睨んだ。
そして、すぐに顔を背けると何も言わずに歩き出す。
「あっ! 君!」
と、男の声が背後から聞こえたが、それ無視をして、真奈はその男との間に距離を作った。
パーマはかけていないが、ややウェイブのかかった黒髪が肩の辺りで揺れる。
足早に歩く。
真奈は苛立った。
他人にやさしく接する人間を見ると、気分が悪くなる。
特に母親と同年代の人間のそういう態度は、気に障る。
無性に腹が立つ。
真奈は、その世代の人間を主な相手にして、生活費を稼いでいた。
だから、尚、その世代の人間の汚く醜い部分を見続けて来たのだ。
「偽善者」
吐き捨てる。
その言葉をかき消すようにクラクションが一つ鳴ると、真奈の横、歩道に寄せて一台の自動車が停車した。
どこにでもある、ごく普通のセダンタイプの白い車だ。
「ねぇ、君がマキちゃん?」
サイドウィンドウから顔を出したのは、油ぎった顔の頭が禿げ上がった中年男性だった。
彼が呼んだ名は、真奈の偽名である。
出会い系サイト等を利用するときに使う偽名、源氏名だ。
真奈は頷く。
その男が、今日の彼女の買い手だったようだ。
数年前から真奈は体を売っていた。
それが、彼女の生活の糧を得る手段だった。
自分の体に高値が付くことは、解っていた。
短時間で済み、月に1、2度行うだけでまとまった収入になる。
ただ単に、肌を許すだけでいいのだ。
今は、もう、そうとしか思わない。
禿げた男は、真奈を助手席に手招きして誘う。
真奈は誘われたまま、その席に腰を下ろした。
シートベルトを締める。
「マキちゃんは可愛いね〜」
男は上機嫌に声をかける。鼻の下を伸ばす。
その言葉に反応せずに、真奈は無感情に、ただ前を見て、
「出して」
と言った。
自分は結局、母親と何も変わらないのだ、と真奈は思う。
母親と同じように、女を売ることで生きていけるのだ。
そんな自分を憎いと思う感情は、日々、膨れている。
いや、むしろその憎悪はすでに限界を超え、殺意を孕んでいる。
自分の存在を厭わしく感じる。
死にたい。
自身を殺したい。
――本当に、「彼女」が私を殺しに来てくれたら楽なのに。
真奈は思う。
エンジン音を響かせ、車が発進する。
真奈を乗せた車は、ネオン街へと消えていった。