最終夜・鈴の剣士
流れる厚い雲が月を隠した。
夜の闇に狂ったように、御影の高笑いは響く。
「……どうして?」
影の魔道の化身、巨大な影の塊と変じた御影に、瑞穂は立ち向かう気力なく、呟いた。
瑞穂が行使した魔術は、対象を確実に仕留めるだけの威力を持っていたはずである。
あれが効かないとすれば、最早、人の力でどうにかなるレベルの相手ではない。
御影は直撃を受けた訳ではなかったのだ。
影の世界へと逃避したのである。
御影は外界と隔離された、その空間にその身を移したのだ。
否、正確には、意思を有する影の魔道が、術者を失わないように強制的に彼を引き釣り込んだに過ぎない。
そう。御影は影に取り込まれたのだ。瑞穂の前に存在するそれは、暴走した影の魔道に侵された人の慣れ果てであった。
邪悪な気配を辺りに撒き散らし、それは嗤っている。その影の塊からは次々と影の怨霊たる首共が放たれていた。
瑞穂は寒気を覚えた。邪気に当てられ身震いを起こすなど、陰陽師として産まれ、数えるほどしかない。
疲弊している事実。確かにそれもあるのかも知れない。しかし、恐らくはそれに因る要因など些細なものだろう。
陰陽師の少女の上空を塞ぐのは厚い雲から、暗い感情の亡者たちへと変わっていた。先程の攻防戦とは比べ物にならないほどの、圧倒的な数のそれらは一つの生物のように彼女たちの上空で蠢く。
一部の首共は、致命傷を受け、倒れる滝口の少年に群がっていた。我先にと、その肉を喰らう為に。
「……ごめん、詩緒。お手上げだわ……」
瑞穂は溢し、うな垂れた。
「……私も終わりっぽいわね……」
獲物にありつけなかったその他の怨霊たちは、残る生者に襲いかかる隙を窺っていた。
鈴は戒め。他人を拒絶する決意の凝り固まったもの。
「僕は大切な人を、誰も守ることが出来なかったんだ……」
最後に一言、人としての言葉を残し、友を止められず、友を救えなかった稀代の滝口は、その悲しみに、無念さに支配された。
渡辺柾希という少年の最後は病に因るものでなく、鬼に堕ちたことで訪れたのだ。
だから、少年は他人を遠くに置く。例えどれほど優れた人間でも、どれほど強い人間でも、鬼という暗い感情の果てを知る者は、それに陥り易いのだ。感情というものからは、滝口とて護ることができないのだから。
渡辺柾希の最後は、その一例に過ぎない。
一例。
そう。その出来事は、彼にだけ心を開いていた少年にも耐え切れないほど悲しみを与えたのだ。少年の心に影を落とし、そして、その心にも闇を作る。彼を葬った滝口の少年もその時、悲しみに囚われて――。
突如として「魔」の気配がもう一つ、産まれた。
それは、真奈から発せられた影の波動ではない。
それを放つのは、怨霊の群がる、致命傷を受けた少年の体。
ゆらり、少年は立ち上がる。
美しい顔の面影はなく、内臓が垂れ、喰い千切られた肉からは骨が覗く。
少年が放つ邪気は、影の怨霊を霧散させ始めた。群がり来る怨霊を、断末魔と共に、次々と霧に変える。
その存在は、さらに、その負の力の霧を取り込むと自らの力に変換していた。異常な速度で肉体を復元、再生していく。
再生が完了したその存在の姿は、渡辺詩緒と酷似していた。
瞳孔の開いた、虚ろな目。
その身から絶えず放たれる凶悪な邪気。
それが渡辺詩緒との相違。
彼から発せられる邪気は、影の塊となった御影を畏縮させるほどに強烈であった。
「馬鹿な!? 滝口、貴様……」
焦りが表情に表れる。
「み、認めんぞ!」
それは御影が魔人となった時に、失くした感情を湧き起こす。
影から次々と産み出される怨念たち。その怨念たちが作る死角から、槍を放つ。
詩緒は高速で迫るそれを見切り、易々と片手で掴んで止めた。
「敵か……」
口を開く。虚ろなままの瞳を、しかし、影の塊へと向ける。
「うおぉぉォっ!」
御影は空間に作れるだけの魔弾を発生させると、怨霊共と一斉に少年へと仕掛けた。
だが、それに動じず、少年は手に在る刀を真一文字に薙ぐ。
魔弾が、怨霊が、剣閃で生じた斬撃の波に裂ける。空間自体を切り裂いたかのように、一太刀で前方の障害を断つ。
その斬波は御影にも及んでいた。
巨大な影の塊が二つに分断される。
「……鬼?!」
御影が呟く。詩緒が放つ気配は確かに鬼の気配であった。藤川郁子が堕ち変じた、その化け物が撒き散らした邪気と同種のものだった。
しかし、質は違う。この少年の放つそれは、絶対的な力の差を感じさせるのだ。恐怖、という感情と共に。
それこそが、御影が失くしていた感情。
その眼前に、恐怖の権化が舞う。
「ひいぃぃぃぃぃぃっ!」
御影は足掻いた。影からあらゆる武器を具現化し、幾種もの殺戮の力を解放した。
その総てを。
少年の姿をした破壊者は、手にした一本の刀で紙屑のように斬り裂き、己の瘴気で無力化する。
そして、影を斬り刻む。寸断していく。
ほんの僅かな時間に。魔人は、影の魔道はこの世から消滅した。
鬼の気配を持つ少年は、己の敵と見なした存在を滅殺すると、静かに立ち尽くす。
滝口の少年は、完全に鬼に堕ちたのだろうか。
「……詩緒?」
瑞穂は立ち上がると、少年にゆっくりと近づいた。
そう。それはまだ、鬼ではない。少女の呼ぶ、渡辺詩緒という存在。
身に付ける少年は枷としている物が、しかし、彼をまだ、人として繋ぐ絆となっていた。それは人の心の結晶。渡辺柾希という滝口が守り、渡辺詩緒という少年がもたらした「笑顔のカタチ」。
小さな鈴は微かに奏でる。しかし、その存在の心にやさしく、大きく響く。
渡辺詩緒は鬼ではないのだ。ただ人を「魔」から守り、「魔」を討つ武士、滝口。
鈴の剣士。
鈴は鳴る。
少年から生じる障気の波に揺られ、鳴る。
少年の秘められた暖かい心に震え、鳴る。
その鈴の音が浄化していくように。鬼に極めて近い存在の放つ邪気は薄れていく。
「……言ったはずだ……渡辺詩緒。お前を殺す人間だ、と」
呟いた詩緒の瞳に、正気が戻っていた。
雲間から月が覗く。
その光は、辺りを静かに照らしていた。
影の暗躍した街から、遠く離れた空の下。
住宅街の一角、一人の女学生が玄関横のチャイムを鳴らした。
チャイムの上の表札には「本田」と標されている。
暫くの間があって、扉は開かれた。
「ごめん! 沙織、待たせたわね」
そこに現れたのは、かつて「藤川」と姓を名乗っていた少女。
「ううん、全然待ってないから」
沙織は微笑む。
「行ってきます」
少女は振り向き、中にいる父親に声をかけた。
「気を付けて行っておいで」
返ってくる声。
「は〜い!」
返事をすると、少女は沙織を促し歩道へと出る。
そして、二人の少女は並んで歩き出した。朝のやわらかい日差しを受け、いつもの通学路を行く。
「そう言えば、昨日ね」
他愛もない話が続く中、沙織は唐突に話題を変えた。
「何?」
「真奈はどうだ? って、いきなり聞いてきた男の子がいたのよ」
「え?」
少女は驚いた。引っ越してきて、まだ数ヶ月と経っていない彼女に、思い当たる節はなかった。
「かっこいいんだけど、無愛想なヤツだったよ。態度でかくて。全身黒づくめの格好をしてた」
「え?」
「あ! そうそう! 左手にね――」
「小さい銀色の鈴?」
沙織の言葉をそう引き継いで話すと、少女は笑った。
「なんで解ったの? 誰? やっぱり、知り合い?」
「他人よ」
少女は返答して、再び笑う。
少女の背負う罪。影に操られたとは言え、人の命を奪ってしまった事実は消えない。しかし、だからこそ、彼女は懸命に生きる義務があるのだと思っている。
必要とされるから、人と接するのではなく。必要とされなくても、人に尽したいと思う。
あの少年のように。
「今日もいい天気ね」
沙織は空を見上げた。
追って少女は、本田真奈は空を仰いだ。
「そうね」
明るく晴れやかな声。
月の残った朝の空。
それは高く高く澄み、青く青くどこまでも広がっていた。