心に桜、柳に風
――騒ぎ出す空間。震える世界。崩れる均衡…
時は満ちた。
魂を駆ける新たな力と、揺らぎ始めるクラインの壷を見、マティスは進化の果てを知る。
進化した存在であるレインボーが存在するには、クラインの壷でさえ低次元であった。
低次元にレインボーが入り込めば、世界の因果が崩壊し、カタストロフが生じる。
それを知るマティスは、悲鳴を上げるクラインの壷に、自身の進化を確信した。
余裕もつかの間、自身にも変化が生まれていた。
身体がまるで、光に分解されるかの如く霧状に消滅していくのである。
消えゆく両手をまじまじと見、マティスの眉間にしわが寄る。しかし、それはすぐに微笑へと変わった。
(――いよいよか。)
新たな魂へと昇華するには、一度滅びる必要がある。
光が消滅する事は絶望ではない。大いなる進化のための希望へと変わるのだと、マティスは一人悦に入っていた――
―――――――――
――ファンクスの自然公園に身を置いていたザックにも、異変はすぐやって来た。
「あ、そうだラーソさん。ちょっと…」
言いかけた時、それは起こった。
胸を突く不気味な感覚。それは突如、今にも倒れ込んでしまいそうなほどにザックの中で渦巻いた。
――早過ぎる。
原因はマティスの存在にあることは明白。色濃くなるレインボーの力が、それを如実に示していた。
マティスが定めた覚醒までの時間は後一時間。だが、今感じる気配は、明らかにレインボーの気配そのものだった。
急に黙り込んだためか、ラーソは不思議そうに首を傾げていた。
ザックは、吐き気を顔には出さず、不安を一蹴する思いで「心配ない」と呼び掛けた。
「…良ければ写真、どうですか?」
その呼び掛けに、ラーソはすかさず諾を示した。
桜を背に微笑むラーソへカメラを向け、ザックは風景を覗き込む。
考えることは、構図ではなくマティスの進化。
対処出来るのか…急に不安が押し寄せた。
「ザックさん。"いって"下さい。」
被写体の美しささえも瞳に入らない悩みの中、ザックはその声にハッと我に返った。
"いって"とはどういう意味か、「言って」という事だろうか… だとしたら何を… ザックに聞かれ、ラーソは意地悪い笑みを浮かべ、口を開いた。
「行って下さい。まだ、やり残した事があるのでしょう?見ていれば解ります。」
その一言に、ザックは隠していた不安を見透かされていたのだと知った。
目元にあるカメラを下ろし、肉眼でラーソをしっかり見据る。
「ラーソさんには敵いませんね。」
無造作に伸びた髪を掻き、照れた心を誤魔化すと、最後に倒すべき者はマティスである事と、それを打倒出来る確率が低いことを隠すことなく伝えた。
潟躍達の思いを受け、戦い意志は固めたものの、勝率の少なさは僅かな弱気を肥大させていた。
マティスの名に流石に動揺を表すラーソだったが…
「ザックさん。本当に自分の事が解っていないんですわね。いえ、自分を低く見過ぎです。」
開口一番、ザックの弱気な心に火口を放った。
「わたくし達は今、一つの旅を終えたばかりです。これからきっと新たな旅路が広がります。その前に用意された障害物は、旅を終えたザックさんなら必ず退けることが出来るって、わたくしは思いますわ。」
初めは呆気に取られていたザックだったが、その叱咤にも似た言葉を受ける内、なぜか笑いがこみ上げてくることに気付いた。
聞き終えた後の一瞬の沈黙の中、笑いが出る自分が妙におかしくなり、更に愉快な心に拍車が掛かる。
そして、抱腹絶倒。
今度はラーソが呆気に取られる番だった。
「すみません。ラーソさんにそう強く言われるのは始めてだったもので。」
言われ、ラーソは顔を赤らめ頭を下げた。だが、ザックは笑いを堪え首を横に振った。
「いえ…俺ってホント弱い奴ですね。目が覚めました。」
ネムの思い、潟躍の思い、ルシータの思い、そして…ラーソの思いを受け、ザックの道に新たな光が差し込んだ。
もはや、礼はいらない。言葉の代わりに写真を送ろう。ザックは思いラーソに願い出る。
と、その矢先、止まっていた風が小さく二人の髪をなびかせた。
時間が戻ったのか… 否。
「…来ましたね。」
世界のざわめきが、それを物語る。
秩序を見出す異物が入り込んだということを――
その異物は、ヴァースの上空に浮遊していた。
世界が揺らぐ感覚に、マティスはレインボーへと昇華した事を明確に悟った。
だが、喜びの福音より先に、警鐘が新たなマティスを出迎えた。
(――無柳か…だが怖くて何も出来ず仕舞いか。)
僅かに感じた無柳の気配を警戒するが、ネメキネシスを使う予兆が見られぬため、素早く計画成就に動き出す。
――「過去(旧文明)」と「今」を破壊する。
対象を頭に浮かべ、二つの次元を完全消滅すべく、マティスはネメキネシスを展開した――
「――そういえば、一つ夢が出来たんですよ。」
カメラ越しに、ザックは思いのたけを口にした。
残りの時間を惜しむように、けれども誇らしげに。
ラーソもそうだった。
今起きるだろう別れの瞬間より、この一瞬一瞬が何より大切だった。
「これからその夢を果たしてきます。応援して下さい。」
ラーソが微笑むと同時、カメラが鋭い光を放った。
桜木と、ラーソの姿が、終わることのない一瞬として収められた。
そして、その時がやって来る。
「ザックさん…」
名を呼んだ時…それが、ラーソがザックを認識出来る最後の瞬間だった。
目には自信を放つザックの表情。そして耳には、「さようなら」という言葉が残響していた――
―――――――――
――完全な無とはどういうものだろう。
何ものも消し去る深い闇か、全てを飲み込む強い光か。
今広がるのは後者だった。
光ともつかぬ白のみが、無限の空間を覆い尽くす。
そして、その世界の支配者マティスは、白と同化し物思いに耽こんでいた。
世界の再生。五次元をも越えた空間の中で、ネメキネシスを用いて理想郷を造り上げる。
拒む者も、来る者も居ない。
堪らないはずの孤独は、マティスにとっては安住のそれだった。
幸せを感じる最中、ふと、風が吹いた。
――風…
…有り得ない。だが、確かに風は吹いている。そして、いつかどこかで嗅いだ草の香がやって来た。
マティスは見上げ、見渡した。
どこから来るのか、いかなる存在も許されないこの次元に介入するこの風は何なのか…
答えは突如、目の前に広がった。
「これは…」
緑と桃色を従えた大地が、風の軌跡を辿るように向こうから押し寄せる。
その「緑の風」はあっという間にマティスを通り過ぎ、数十キロ範囲に拡大していった。
驚き、瞬き、マティスは四方をねめ回す。
地面が途中でぷつりと途絶えているのが目に入る。これは虚無の空間に不自然に浮かんだ大陸なのだと理解した時、風に吹かれた小さな埃が、目を閉ざすよう瞼を攻めこんだ。
再び目を開けた時、そこには桃の花香が広がっていた。
立ち尽くし、"不気味"に並ぶ木を見やる。
だが、マティスが本当に眺めていたものはそれではない。林のように連立する桜の間に不自然に聳える、一本の太い緑色を飾った幹だった。
「…そう。それがあなたの敗因です。」
後方から届いた声は、マティスを反射的に振り向かせた。
「驚き顔、頂きました。」
強い光とシャッター音が、驚くマティスを襲った。
閉じた瞼に焼き付いた姿は、右方に暗緑の長い髪を垂らした男。
目を威勢良く見開き、マティスはその名を口にした。
「無柳!なぜお前が?まさかお前がネメキネシスで…」
言うが早いか、マティスはそれを自ら否定した。無柳がネメキネシスを扱えない事は誰よりも理解出来ていたからだ。
無柳は手にしたカメラを下方に下ろし、人差し指を真っ直ぐ向ける。それはマティスをすり抜け、後ろの巨木を突き刺した。
「それが理由ですよ。あなたも気付いているはず。」
――マティスのネメキネシスにより、確かに世界は淘汰された。だが、崩壊から世界を掬い上げたのもまた、マティスであった。
地に立つ巨木… それはマティスの記憶。潟躍達との出会いの証。
それが残ると言うことは、すなわち、世界を破壊しても、ここだけは… 潟躍達だけは失いたくないという表れ。
ネメキネシスは常に使用者の深層を読み取り実行される。世界を壊すと念じ放ったマティスの心は嘘ではない。だが、その内に宿った迷いが、世界を僅かに留めさせたのである。
だがそれには、無柳の力も絡んでいた。マティスの心にコンタクトを取り、思い出を駆り立てていたのだ。たとえネメキネシスが使えずとも、他の手を打ち反抗を示す。マティスとはもはや一心同体と言える無柳だからこその策といえた。
「なるほどな。そして、お前が消えずに進化したのも、俺の進化に感化されたからと言うわけか。」
マティスは苦笑し吐き捨てた。さぞ屈辱に覆われているかと思いきや、表情には得意の毅然さが見えていた。
だが、内に眠る謀はとうに無柳に見透かされていた。
「…無駄ですよ。今のあなたではネメキネシスは使えない。」
張り付いたマティスの笑みが剥がれ落ちた。
変わりに木々が笑いを起こす。
進化したてで力を使い過ぎた事が原因か… 呆れた様にマティスは深く息を吐いた。無柳はそれを見、気持ちを切り替えた。
――来る。
挑発じみた殺気が魂を伝う。
「まぁ時期に扱えるようになるだろう。それに、不安定なのは…」
刹那、無柳は右手を眼前へと唸らせた。
それが、乾いた短い音を発した時、手の内にマティスの右腕が内包された。
「お前も同じだろ?」
囁き伝う言葉と一緒に、無柳は手にした右腕を力強く上空に振り上げ、マティスを投げ飛ばした。
勢いが消えぬ内に、風に吹かれる綿毛の如く高く飛んだそれに向かい、掌をかざし力を込める。
――ネメキネシスは使えない。
マティスの言うとおり、今の無柳も不安定な状態である。
ならば、思念波で戦いを決めるのみ… そう意気込んで放った一撃はマティスの胴体を確実に捉えるよう伸びていく。
一瞬、マティスが笑ったように見えた。
虚勢とも、諦めとも違う不穏な歪みの後、周囲の空間も奇妙にざわめき出す。
無柳は無意識に後方に飛んだ。
直後、マティスの周囲一キロ程の場所が、空を含み再び白のみの虚無の世界へと還った。
「タグや思念波は、ネメキネシスの出来損ないのようなものだ。それでも俺が使うと違うものだな。」
崩壊した空間が、緑の地へと再生していく中、マティスは思念波を局地的に放出していく。「半端に人情を語る出来損ないのお前を排除するにはうってつけのものだな。」
無柳は躊躇わない。
空間を消し去りながら向かう思念波をかいくぐり、マティスの元へと飛んだ。
手が届く所まで距離を縮め、短兵急。受けて見ろ、と握った拳を頬に放つと、待ってましたとマティスが笑う。
気付いた時にはもう遅い。全てを飲み込む歪んだ狂気の波が、周囲をあっという間に包み込んだ。
巻き込まれた無柳の影は虚無の彼方に消え失せた。
いや… マティスは直ぐに気付く。そこに確かな光があることを。
霧か、霞か…繊細に漂う光の粒は、意志があるかの如き輝きを見せ、一カ所に集中していく。
刹那の間にそれが無柳へと変化した。
思念波により消滅していた空間も、無柳の様に回復し、事態は振り出しへと戻った。
「ネメキネシスが使えないなら、つまるところ我慢比べになりますね。」
無柳の声が、木々の間へとこだまする。
レインボーはインディゴ(荒らし)を超える高次元の魂。
本来、形すら不要な存在に触れることの出来る者は同じレインボーだけであるが、それをもってしてもネメキネシス無しでは浄化する事は容易くはない。
「確かに。これは骨が折れそうだ。」
宙に浮いた二人は睨み合い、そのまま緑と桃の地面へと降り立った。
マティスは落ちていた木の枝を広い、剣を扱うように身構えた。
「いつかの手合わせの続きだ。今度は遊びじゃないがな。」
無柳もまた、拳を握り、身構える。
「あの時は丁度引き負けでしたね。」
互いの微笑が、互いの瞳に浸透する。
マティスの身体から思念波が放たれた。が、予知していた無柳も、すかさず同等の力の思念波を放ち、相殺。
虚無となった空間の中、拮抗したまま、二人は徐々に距離を縮めていった。
どちらかが力を強めれば、相手も同時に力を強め、拮抗を保つ。
未来予知による攻防… そこに「後手」という概念は存在しない。
ならば、とマティスが先に思考を巡らした。
思念波を放出したまま、停滞気味だった距離を突如突撃。そのまま眼前に迫る。
無論、無柳は一連の行動を予知していた。
全方位に放出していた思念波を、後方から飛び出して来るであろうマティスに集中させ迎え撃つ。
その瞬間、眼前に迫ったマティスが瞬間的に消え失せる。これも予知通りの行動。だが、消えたのはマティスだけではなかった。
右腕の感覚がない… 見ると、右側には枝を手にしたマティスが居た。
「首を狙ったんだがな。本能的に避けたか。」
マティスは枝を数十と突き出し、無柳の暇を封じる。それらすべては紙一重で避けられるが、マティスは動じるどころかはしゃいで見せた。
それもそのはず。
「予知が働かないだろう。ちょいと細工をしたからな。お前の脳裏に嘘の情報を流して、な。」
やはりかと、無柳は小さく唇を噛んだ。
魂の差というものを、否が応でも知らされた。
虚空を遠見に動きを追うが、それも長くは続かない。
マティスの枝が、再生したての右腕に突き刺さる。
瞬間、これまで身体中から継続的に放っていた思念波が弱まり、同じく継続的に放出されていたマティスの思念波が、機を狙って降りかかる。
その瞬間、世界は再度マティスだけのものとなった。
徐々に再生していく世界の中心で、マティスは勝利を確信していた。
ネメキネシスが扱えるようになるのは時間の問題。それも、無柳より段違いに早いだろう。そうなれば、もはやこの争いも必要ない。
高揚が、心の内を染めていく。
だが、そうはさせまいと、再生した世界が、大地が、桜がマティスに反旗を翻す。
「…なるほど。面白い手だな。」
桜吹雪がマティスの周りを瞬く間に取り囲んだ。
一片一片が思念波を帯びているそれは、攻撃と防御を兼ね備えて舞い踊る。
マティスも思念波を操り迎え撃つ。そして、徐に身体を左に半身させ、拳を握った。
繰り出した鋭い突きは、奇襲を狙い飛び出した無柳の頬を綺麗に捉えた。
「無駄だ。俺はお前を予知でき…」
次の瞬間、無柳はマティスの腕を掴み取った。
マティスは、殴り飛ばされる無柳に巻き込まれる形でバランスを崩し、前方に浮かび上がる。その後頭部を、無柳の脚撃が華麗に捉えた。
不安定な状態での一撃だったが、それでもマティスに強い衝撃を与えていた。しかし、身体から放出され続けている思念波は、以前止まることを知らない。
すぐさま身返った無柳は、その波動を相殺しながら、浮き足立っているマティスに追撃を開始した。
一度小さく浮遊し、勢いを付け落下。その力を利用し跳び蹴りを放つ。
両手で防がれるが、まだインパクトが残る内に姿を消し、背後へと回り込み、右肩から一気に突進した。
そして、激しくもんどりうったマティスに、先ほど手配した桜の花びらを一気に向かわせ攻め立てた。
「くそ…!」
マティスは空へと飛翔し、事なきを得る。
だが、戦いの流れを手にしていた無柳は、躊躇うことなく追撃し、休む余裕を削ぎ落とした。
(――なぜだ、なぜ予知出来ない。)
魂がぶつかり合う激しい攻防の中、怪訝にマティスは思考する。
先刻までは明らかに自分が上だった。その差を未来予知の妨害という形で無柳に知らしめていた筈が、なぜか同じ立場に置かれている…納得出来るはずがない。
「…あなたは本来、クラインの壺を旧文明への時空逆行の手段として使おうとしていた。そして、逆行した後、その次元を破壊しようと考えていた。」
無柳は拳を突き上げ、不可解な言葉を口にした。
なにかの作戦か、とマティスは何も言わず空を切って拳を放つ。
無柳は、負けじと更に啖呵を切った。
「なぜあなたがリリ達とは違い、次元の破壊に拘るのか。今の俺には解ります。」
拳と拳が交わり合う。双眸に写る互い表情を確認し、二人は一旦動きを止めた。
「あなたは恐れた。他の次元の魂が、アセンションを遂げた世界に干渉し劣化させることを。」
――レインボーは、一人に付き一つの世界を創り上げることが出来る。そこは外部の干渉は有り得ない絶対自由空間である。
だがマティスは、こう考えた。
例え外部の干渉は無くとも、魂の回路を塞いでも、他の次元の干渉は起こるのではないのかと。
「…そうだ。だから俺はまず低次元の空間を破壊するとこにした。次はそう。他のレインボーの排除の予定だった。今回はその手間が省けたがな。」
だが、それがどうしたというのか… マティスは小馬鹿にし、臨戦態勢を作る。
だが、急に浮かんだ第六感が、戦闘意識を鈍らせた。
「まさか、お前…」
呟きを受け、無柳が笑う。
「そう。俺はその魂の干渉であなたの進化に負けない力を手に入れた。」
マティスの心に、進化と時に置いてきたはずの「焦り」が生まれた。
――次元消滅と共に消滅したはずの魂が、概念源回路を伝い無柳の魂へと流れ込みエネルギーとなっている。
だが、次元の低い魂がこのような「しぶとさ」をもつのは考え辛かった。
そして、仮に魂が存在しても、それはクラインの壷へ流れ着くよう手配していたはずである。
その疑問を晴らすように無柳は言う。
自分が魂を呼び寄せたのだと。
クラインの壷ではなく、自分の元へ来るように。そうすれば、ネメシスウェーブによる魂の浄化を免れるのだと。
「でもあれほどの魂が来るなんて、俺も予想外でしたけどね。」
そう話す無柳はどこか誇らしげだった。
例えネメキネシスで他の営みを強制的に排除しようが、魂に残る本能的な力は、得てして想像以上の事を成し遂げる。それが魂という生命の真理なのだ。
理解し、マティスは身を震わせた。
怒りか、恐怖か… 否。それは愉快の意。
「馬鹿が。低次元の魂の力など、お前にとってむしろマイナスだ。今はプラスとなろうがお前の魂は確実に劣化する。もはやネメキネシスは絶望的だろうな。」
マティスは周囲に思念波を放出した。予知なしに無柳もそれに合わせ、戦いの幕を作り出した。
虚無の空間にて、拳と蹴りの応酬が続く。
少しずつだが、拮抗した争いを無柳が先行し始めた。
マティスは賭に出た。受けたままでは不利なだけ。ならば、逆に真っ向勝負をと打撃を覚悟で前に出た。
賭は成功。突進の際に放った肘打ちが、無柳の胸部を猛撃した。
そのまま肘を軸に前腕を上げ、顔面を殴打。直ちに前蹴りに転じる。
無柳は息を乱さず、意識を左脚に移した。
素早く膝を上げ、迫り来る前蹴りを外腿で抑え込み、左方に払う。一瞬マティスの腹部が無防備になった。しかし、無柳が狙った所は別の部位。
身体を空中で前転するように軽く浮上し、勢いを付ける。回転を加え、繰り出したかかと落としは、腹部を防御するマティスを最大の効果で直撃した。
マティスは虚無の中、真っ逆さまに落ちていく。
どれほど下方に進んだのだろうか…大地が破壊された空間では、もはや感覚さえも入り込めない。
(――分が悪いな。ならば…。)
これまで絶えず放出していた思念波をふいに止め、自身も宙に停止する。途端、足元に緑が溢れ、戦う前の大地が生まれた。
追撃に来た無柳は息を飲む。
大地を見渡してもマティスの姿が見付からない。
だが、気配は確かにある… 無柳は目を閉じ感覚を研ぎ澄ました。
眉間が見る見る険しくなっていく。
大地全てからマティスの気配が感じられた。それは、そこにいるだけで圧倒されるほどの狂気に満ちていた。
その時、澄ましていた感覚が、敵意を捉えた。
咄嗟に思念波を巡らしたと同時、地面全土からマティスの思念波が波打つように押し寄せた。
『よく見抜いた。流石だ。』
大地が語りかけてくる。いや、身体をフォトンエネルギーに変え、大地と同化したマティスが。
だが、同化した状態では思念波だけでしか戦い得ない。無柳は同じ力で打ち消し、無効にする。これでは戦力ではなく時間しか削ぐことしか出来ない。
それでいい、とマティスは思案する。
時間さえ稼げれば、ネメキネシスを扱えるようになる。成就すれば後は造作もないこと。そのためには道化を演じることも厭わなかった。
「それがあなたの答えですか。」
怒りを表す無柳だが、湧き上がる衝動とは対照的に、思念波を弱めていく。ついには思念波は完全に消え、マティスの思念波を受け入れてしまった。
『やはり来たか。さっきお前が言っていた低俗な魂の力が、いかに無力か教えてやろう。』
無柳は今、マティスの精神(魂)と対峙していた。
大地と同化し、マティスと接触。概念源回路を通じ、魂へとたどり着いたのだ。そこは武力は介さない。制するものは、魂の力…精神の咆哮。
『あなたがアセンションの先に見るものは何だ?それだけがどうしても伝わらない。』
――信念。
リリやシオンと対峙した時には確かに感じられたそれが、今はまるで感じられない。
そんな無柳にマティスは轟然と言い放つ。
自分の行為はワンダラーの総意だと。それを忘れ、争いを始めたのは他のワンダラーが低俗だからなのだと。
ワンダラーは一人だけで十分だった。一人のワンダラーが世界を創り、その中で生まれた新人類―レインボーをも管理し、創造主の思想を受け継がせ新たな世界を創造させる。
これが本来あるべき進化の姿…
『お前の魂が劣化しているのが解るぞ。土壇場で低俗な魂に頼ったお前では俺の次元には辿り着けまい。』
冷笑を浮かべるマティス。そこには強者の覇気が滲み出る。
だが… 次の瞬間、それは苦渋へと変わった。
『なぜだ…なぜ。』
苦しみ悶えるマティスを無柳はただ見守っていた。
憐れみにも似た表情は、マティスに更なる苦痛を与えた。
そして景色は移り変わる。
同化が溶けたマティスは、大地に踵を返した。
「低次元の魂が…なぜこうも忌々しい!」
――魂の対峙に負けた。
その事実が解せないマティスは悪態付く他無かった。
「どんなものより強く、光輝くものがある。あなたは、それを誰かに教えてもらわなかったんですか?」
無柳はマティスの前に凛として立った。
「いや、知っているはず。それには劣等だとか高尚だとかは関係ないって事を。」
聞く耳持たぬ、とマティスは遮二無二に無柳を殴り飛ばした。
そして、落ちていた枝を手にすると、なりふり構わず向かっていく。
その不格好な姿は、常に冷静さを漂わすマティスらしからぬ滑稽さがあった。
「マティス…これで最後です!」
無柳も不格好に身構えた。
戦いの終わりを見守るように、周りの木々は揺れていた――
第五十話「心に桜柳に風」 完
五十話登場人物集
※イラスト協力者「そぼぼん」
※登場人物一部割愛
ザック=ルーベンス
ラーソ=ボローニ
無柳
マティス=ハーウェイ