最果て
――戦いは終わった。
アセンションを望む進化派は消滅。事態は一応の解決を迎えていた。
平和を迎えようとするヴァースのビル群を、ザックはリリの部屋の窓辺から俯瞰していた。
その両隣には、数分前に合流した潟躍とネムが。
リリを打倒した事を聞いた二人は、ザックと同様にヴァースを眺めていた。
だが、その目はどこか厳しい。
まるで、まだ遺恨があるような、鬼気迫る視線だった。
「…戦いは終わったってのに、時間は止まったままなんてな。」
「…まだ、肝心な事が残っていますからね。」
焦燥とした潟躍の言葉の後、ザックの呟きが部屋を伝った。
――そう。
戦いは終わっていなかったのだ。
リリに奪われていたプロジェクションタグが、本人を打ち倒しても尚、ザックの元に戻っていなかったのである。
おそらくは、退化派の長にして生みの親である存在の手に渡ったのだろう… ザックにとってそれは想定内の事態であったが、出来れば避けたい事だった。
なぜならば…
「…てことは、またクラインの壺を利用される可能性があるって事だね。」
ネムの問いに、ザックは小さく頷いた。
退化派にとって一番の邪魔者だったであろうリリ。それが居なくなった今の状況は、退化派にとって最良の時。時間逆行という目的成就のため、いつプロジェクションタグを発動させてもおかしくないのだ。
無論、ザックは対策を立てていた。
――無柳としての力を今こそ使い、その目的を食い止める。
単純にして易い。だが、単純ゆえに不安も多いのが本音だった。
「…わたしたちに出来ることがあれば何でも言って。」
ネムの一言は、収まらない不安の波を僅かばかり和らげた。
「しかし、マティスの奴、こんな大事な時にどこ行ったんだろうな。」
潟躍が愚痴を言ったその時、部屋の扉が開く音がした。
戦いで壊れた壁から入る風が、開いた扉へと流れ込む。それを受け、姿を現したのはルシータだった。
自分の姿を見たザックの口が半開きになるのを確認すると、ルシータはすかさず言葉を放った。
「クルトさんはもう大丈夫。隣の部屋で寝てますよ。」
聞きたい事を先に答えられたザックは、半開きのままの口から安堵の溜め息を吐き出した。
これで不安要素は退化派のみ。 全力でそれの打破に打ち込める…
そう覚悟を決めた、その時だった。
ザックは急に短い声を発し、片膝を床に付けた。
驚き、声を掛ける潟躍達を尻目に、無言で床を見つめ続ける。
何かに耐えるような鬼気を宿らせながら…
何かとは即ち、魂を撫で回すような不気味な不快感。突如、内より広がったその不快感と、ザックは必死に戦っていたのだ。
退化派の仕業と察したザックは、そのまま耐えの一手に身を投じる。
これが件の目的に関係したものならば、なんとしても防がねば… 心配する潟躍達の声を魂に響かせ、荒ぶる心を作り出す。
何度自分を呼ぶ声を聞いただろう… 気が付けば、ザックは深い闇の中にいた。
辺りを見回し、ここはどこかと一人呟いた刹那、暗闇の向こうで、淡い虹色の光が現れた。
近付こうと静かに足を加速させる。だが、いくら近付いても、暗闇から抜けることが出来なかった。
「久しぶり、になるな。ザック。」
向こうに広がる虹色の空間から、男の声がやって来た。
ザックは足を止め、ただ佇む。
その身体は僅かに震え、額からは冷たい汗が流れ落ちた。
明らかな動揺、だが、それもそのはず…
「ザック、いや、無柳といった方が正しいか。」
そう呼びかける声は、予想だにしない、いや、予想出来るはずのない相手、マティス=ハーウェイであった。
ザックは自分の時を止め、ただマティスの姿を眺めていた。
「驚きと動揺といった所か。ここからだと心の中がよく解る。」
視線の先のマティスの口が、不敵に緩み動き出す。
ザックはその間、必死に現状の整理を試みた。
ここは何処なのか、そして、マティスはなぜここにいるのか。
――否。
本当は、既に答えは出ていた。だが、それを受け入れない事で、ザックは平静を保っていたのだ。
「ここはクラインの壺だ。俺とお前は無意識化で繋がっている。俺がクラインの壺を使おうとした途端、お前は意識を引き寄せられて来たんだろう。」
マティスの言葉は杭となり、ザックの作り上げていた平静を完全に破壊した。
まさか退化派の長が、自分を作り出した者が、顔見知り…しかも共に戦ってきた者だったとは…ザックは震えを抑えるだけで精いっぱいだった。
「…あなたが。」
瞬間、ザックは一気にマティスの元に飛翔した。
だが意識体であるが故が、近付こうとも壁に阻まれるが如く、思い通りにいかなかった。
ザックは私情を捨てようと、心に鬼を生み出した。
だが、次にマティスが放った第二の杭により、その鬼は撃退される。
「俺もお前が無柳だと気付いたのはつい最近だ。潟躍達から聞いたお前の話は、なんとも興味深かったよ。」
"潟躍達"という言葉は、マティスも彼らの仲間であるのだと改めて自覚させるに十分な要素となったのだ。
やはり戦うことは出来ない… 踏み止まろうとする気持ちは次第に強くなっていく。
だが、それを押し殺し、マティスを敵と見なす度胸をザックは持っていた。
仲間としてみるか、危機の大元として捉えるか。 その答えはすぐに出た。
「男は、義侠、屈強、いい度胸、か…時間を退化させるという、あなたの歪んだ思想は、俺が必ず阻止します。」
迷いのないザックの視線が、虹色の彼方へ差し込んだ。
直後、「いい答えだ」という声色がザックに送り返された。
そしてもう一つの胸声が。
「だが、残念ながら俺の目的はディセンションじゃないんだよ。」
それは、あまりに意外なものだった。ザックはすぐに虚言だと言い返すが、マティスは悪びれることなく話を続け、真の目的を口にした。
それは、人類の本来の到達点「レインボー」に、自分のみが進化するというものだった。
今ここに居るのもそれが目的であるという。
「ここにある特殊に濃縮されたフォトンエネルギーは、ディセンションを受け次元の低下したワンダラーの魂を浄化し、元のレインボーへと昇華させる。お前も知っているだろう?」
レインボーにさえ進化出来れば、ネメキネシスによりあらゆる想像を現実に出来る… 確かに計画を達成するのにもっとも理に適った方法だが、それが可能ならば、リリも試みただろう。そうしなかったのは単純に不可能だからではないのか…
「そう。俺にしか出来ない事だからな。」
かつてマティスはクラインの壺に入り込んだ経験を持つ。
特殊濃縮されたフォトンエネルギーに耐える精神力と才能をその時開花させたからこそ、今回の計画が可能なのである。
「これまで世界中で起きていた小規模なディセンションは、俺が力を戻すに従い不本意に起きたものに過ぎん。まぁ、おかげでいい目くらましになったがな。」
マティスの真意に気付いたワンダラーも居たが、それは進化派やマティス自身に淘汰されていた。
すべてはマティスの思惑通りだったのだ… ザックの理解は焦燥に変わり、絶望へと成長していった。
マティスの言う計画は、アセンションとは違い、拒むワンダラーが残っていても関係なく実行出来る…その事実が確実に希望の芽を摘んでいった。
その僅かな光すらも消そうと、マティスは更に話を紡ぎ、レインボーに進化した後の目的を口にした。
――完全なネメキネシスをもって、置き去りにした低次元の旧世界、つまりアセンション前の世界を破壊する。
聞いた途端、これまで伏目がちだったザックの表情に変化が生じた。
驚嘆には違いないが、それはどこか別の感情を乗せた様な含みを持った表情だった。
「置き去りにしたって…まだあの世界は残っているんですか!?」
張り上げたザックの声に、マティスもその心の変化を鑑みる。
だがそれ以上に、理由を聞いてくるだろうと予想していたマティスは、予想外の返答に思考を乱されていた。
今まで軽々と開いていた口は、自ずと違う言葉を紡ぎ出した。
「さて、だいぶ時間も稼げた。あと三時間もあればレインボーに進化を遂げる。お前は残りの時間をどう過ごすか考えた方がいいんじゃないか?」
ザックは意表を突かれ、後込みした。
確かに言われた事は最もだった。今はマティスとの対話より先に、計画を抑止する事を考えるのが先決。
考えていた方法をもう一度整理し練り直す。
無柳になり、ネメキネシスを持って阻止する方法なら確実に止められるはず。だが、それは同時に強い危険を孕んでいた。
「…そう。プロジェクションタグを扱える俺には、もはやお前は不要な存在だ。そうなれば、お前は消滅する運命(設定)にあるってことを忘れた訳ではないだろう。」
全てを見通していたマティスは、不安に駆られるザックの心を揺さぶった。
「無柳になった所で無意味だろうが…やはりお前のネメキネシスは油断ならない。そこで一つ提案だ。」
含み笑いの後、非情な言葉がやってくる。
それは、「自害」という不条理な提案だった。
「俺に知られずにネメキネシスを使えると思うなよ。無柳の気配を察した瞬間、お前に架した消滅の設定を加速させる。」
ザックは完全にマティスの作った流れの中に身を置いていた。
なんとか流れに逆らわなければ、と強く睨みを効かせるが、時既に遅し。
周囲が歪んで見えた刹那、意識までもぼやけ、全身が脱力していく感覚に襲われた。
「さよならだ。」
マティスの冷淡な言葉を最後に、意識は闇の中へと入り込んだ――
――意識が戻った時、始めに感じたのはルシータと潟躍達の声だった。
気だるい体とは裏腹に、頭は自分でも驚くほど冴えていた。
とりあえずマティスの事は伏せ、意識を失った原因と、その間に起きた事を三人に話し、鈍い体を起き上がらせる。
事情を知った潟躍達は、狡猾に仕掛けるまだ見ぬ敵に対し、強い闘志を燃やした。
潟躍は敵の容姿を問うが、ザックは知らぬ損せぬを決め込み、部屋を後にしようと歩き出す。
その普段とは違うよそよそしい態度は、すぐに違和感を覚えさせた。
更に問い詰める度、違和感は肥大していった。
――言いたくない訳があるに違いない。
切迫するザックの表情は、無言の答えとなっていた。
真実を言おうか言うまいかの狭間で揺れる「困惑」が、体の動きを鈍らせる。
だが、潟躍達の「真実を知りたい」という熱意が、ザックを困惑の狭間から掬い上げた。
真一文字に閉じていた口が、「マ」の形に開いた時、間の空気が硬直した。
「…おいおい、いくらお前が冗談下手でも、それは流石に酷過ぎだぜ。」
潟躍は調子の抜けた声で言うが、顔はまるで笑っていない。
ネムに至っては、明らかな不愉快さを体中から滲ませていた。
二人の事を考えれば言わない方が良いだろう。しかし、潟躍達はもはや歴とした関係者。それに、このまま事実を知らないのは残酷な事ではないか…ザックに迷いは無くなった。
「…俺がそんな冗談を言うと思いますか?」
真っ直ぐな視線が二人に突き刺さる。
しばらく睨み合いをしていた潟躍は、額から発生した冷たい流れが顔を伝うのを感じ、思わず目をそらした。
いつもはこの上なく頼りとなるザックの強い眼差し。それが今は何よりも恐ろしいものに感じられた。
――嘘ではない。
そう判断するに十分過ぎる効果があった。
ネムもザックの目を見やったまま、同じ感覚に捉われていた。
やがて静かにまぶたを閉じ、小さく首を下に動かす。
溢れ出るオーラが冷気を纏う。悲観が嫌と言うほど伝わった。だがそれだけでは到底理解出来ない負の深淵があることを、ザックは知っていた。
「今は二人だけにしましょう。」
ルシータにそう告げると、ザックは部屋を後にした。
二人は廊下に出ると、扉を見つめるように並び立った。
思い起こすは潟躍達の暗い表情。
「大丈夫かしら?あの二人。」
マティスと潟躍達の関係をあまり解らないルシータでさえ、二人の落胆ぶりには深く心を痛めていた。
今は二人の意志の強さを信じるしかない… ルシータに言いながら、ザックは自分に言い聞かせた。
「でも、そのマティスの話もずいぶん変よ。レインボーに進化するなんて聞いた事もない。」
ルシータは首を傾げ一人呟く。
これまで退化派は、ディセンションにより時間軸を旧文明へと逆行させ、そこから歴史をやり直そうとしている者達として伝えられていた。だが、マティスのやろうとしている事はそれとはまるで異なる事である。
「…多分、退化派が壊滅して一人になった時、今の考えを思い付いたんでしょう。本来の計画とは違う今の計画を。」
ザックはマティスを見透かした様に言った。
だが、それが解った所で現状にはまるで意味を成さない。
マティスの強行に対抗する手立てを考えるのが先決だが、無柳の力を封じられた現状では明確な方法を見いだせずにいた。
ここに来ての完全な劣勢… 噛み締められたルシータの唇に苦汁が滲む。だが、それを見るザックの表情には、どこか安泰の色が滲んでいた。
打つ手もなく、劣勢な状況ではあったが、ザックはその中に僅かな光を見つけていたのだ。
それは、マティスとの会話で知った、旧文明が完全に淘汰された訳ではないという事実。
だが、ルシータは訳が分からず首を傾げていた。
その事実に一体どんな希望が隠されているのか… 考えるほど思考の糸が絡まっていく。
と、その時、絡まる糸を断つように、向かいの扉が口を開けた。
部屋の空気と共に、潟躍達が顔を覗かせる。
「今まで生きてきた中で一番頭を使った気がするよ。」
時間にして三十分… 短い時間とはいえ、久方振りに思える二人の顔つきは、先ほどとはどこか違う凛としたものを感じさせた。
「…戦うぜ、俺は。相手が誰であろうと、見逃せないものは見逃さない。それが俺の答え(正義)だ。」
潟躍の掌が拳に変わった時、固かった表情は軟らかく崩れた。
だが、一方のネムは、変わらず俯いたままだった。
「…わたしは、マティスを見ているだけで良かった。それがわたしの喜びだった。」
不意に、堅い口から言葉が生まれる。
「彼のする事はなんでも面白く思えたし、正しく見えた。だから、きっと今回も、理由があると思うし、それが正しい事なのかも知れない。」
口調を次第に強くし、思いのたけをネムは綴った。
だが、それを聞いていた潟躍の目つきも、次第に鋭く変化していく。そして…
「だからわたしには止められない。」
ネムがそう言った瞬間、潟躍は一気に眼前へと詰め寄った。
「だからって今のは良いわけないだろ!それにお前が一番許せないはずだろ!お前はマティスの事…」
「うん。…だから止められない。」
一気にまくし立てる潟躍と、それをものともしないネムの攻防。
マティスを許せない気持ちがあると同時、マティスを慕う思いがあるのもまた事実。
戦う決意は出来ていたが、体がどうにも動かない…
相殺しあう二つの感情の中で、ネムは微動だに出来ずにいたのだ。
「許せないから戦いたいけど、それを否定してマティスを美化する自分がいる。どっちも否定できないものだから、きっと戦いにいっても無意味だと思う。だから…」
言う最中、ネムはザックに目をやった。
これまで見た事もないような大きく澄んだ瞳に、ザックは強く胸を貫かれる思いに捉われた。
「だからザック。わたしの思いを受け取って。マティスを許さず戦かおうとする強い思いを。わたしの心から離れれば、思いはきっと、姿を変えずにザックの力になれるから。」
これまで俯きがちだったネムが、先刻の潟躍の様な、雪の如く凛とした表情を見せた。
ザックは目を閉じ、それを受けとる。
いつの間にか潟躍も、じっと事の顛末を眺めていた。
――それがお前の答えか。
言おうとした言葉を押し殺し、潟躍はザックの隣に並び立つ。
「よし。じゃあ行こうか!」
「では潟躍、ネムとルシータさんをよろしくお願いします。」
同時に響いた食い違う言葉。
潟躍はわざとらしく膝を崩し、すかさずザックに言い寄った。
「気持ちは嬉しいですが、多分、俺以外では彼の元へは行けません。…解って下さい。」
しばらく沈黙が部屋に居座った。
「…解った。仕方ないか。じゃあザック、俺の思いも受け取ってくれ!」
再びわざとらしく両手を広げ、力いっぱい潟躍は叫ぶ。
道化じみた態度とは裏腹に、ひん曲がる口からは、悔しさを押し殺す心が伺えた。
「解りました。」
出来る限り明るく振る舞い、ザックは右腕を潟躍に向けた。
伸びた手に、震える潟躍の手が向かう。
それが握手となった時、もう一つの手が重なった。
「ザック。マティスをお願い。わたしの大切な人…だから。」
と、そこに、じっとしていたルシータも仲間に入れてと手を伸べる。
三人の祈りに似た思いは、今まさに見えない力へと進化し、ザックの心を滾らせた。
「…では、また。」
静かに別れを告げた後、悠然とザックは歩き出し、部屋を後にした。
「…そういえば。」
潟躍は、ふと思い出したように口を開いた。
「マティスが良く言ってたな。どちらか選べずに動けなくなった時は、別の選択肢に逃げ込めって。…お前、ほんとマティスにいかれてるな。」
その後、二人の笑い声がしばらくカニールガーデンを震わせた――
―――――――――
――マティスが宣言した時間までおよそ後二時間… 潟躍達と別れた後、ザックはヴァースを離れ、ワイスへと足を進めていた。
そして今は、サムの家を前にしていた。
新しさが残る扉が、長い軋みを放った。
室内にある質素な家具や、空いた天井から覗く青は、カニールガーデンへと向かう前と変わらず、ザックに安らぎを与えた。
そして、隅に置かれたテーブルで、祈るように両手を組んで座るラーソの姿は、ザックに幸せと決意を与えた。
「ラーソさん。」
きつく目を閉じていたためか、ラーソはザックの訪問に気付かない。
再度名を呼ばれた時、ようやくその瞳は開かれた。
「ザックさん?」
瞬間、溢れてくるのは言葉ではなく熱い想い。
それは目を焦がす様な痛みとなり、喜びを実感させた。
ザックは差し迫った事態を話さず、ただ「戻りました」とだけ言った。そして、そのままラーソに一緒に来てほしい場所があると告げ、そっと手を差し伸べた。
「…喜んで!」
そして、二人は外の景色へと消えていった――
――話を交え着いた先は、ワイスからだいぶ離れた場所だった。
回復しない時間の停止を訝しがるラーソに、少しずつ元に戻るのだと嘯くザック。
説明の時間さえ惜しかった。少しでも長く会話を弾ませたい…それは、めったに見せないザックのわがままであった。
「なんだかここに来たのが随分昔に感じますね。」
言葉と共に、踏まれた落ち葉が乾いた音を打ち鳴らす。
ザックに対し「そうですね」というラーソの目には、枯れ木の列が映っていた。
以前見た時は一面の桜だった… 今だ色あせずに残った記憶は、鳴り止んだ風の変わりにラーソに花の香りを呼び起こさせた。
ここは、以前二人で訪れたファンクスの自然公園。今はかつての美しさの代わりに、溶けて泥混じりになった雪が足場を包む。
だが、二人にとってそれは些細な事だった。
話しても話しても無くならない思い出話は、桜以上に二人の心に花を咲かせていた。
「あの時はわたくしの依頼で来たのでしたね。」
「はい。正直、あの頃はまだ随分変わった人だって思ってましたよ。やはり初めて会った時の印象が強すぎて。」
途端に高い笑い声が響きあう。
そして二人は、改めて初めて会った日を思い起こした。
互いに変わり者だと言い合った事。だが、なぜか妙に馬が合った事…
そして、ここで談笑した事…
順々に思い起こしていく度、ラーソの歩調が熱を帯びていく。
ラーソにしてみれば、ザックと出会った時は、自身の占術に自信を失い、さらには進化派によりワンダラーであると知らされた混乱の時期だった。
この先どう生きようかと自問し、自分というものを見失いそうになっていた日々…
改めて思い起こした時、その足はぴたりと静止した。
「…そういえば。」
同時にザックのつぶやきが耳に入る。
「ラーソさん。あの時の決意、覚えてますか?」
今まさに同じ事を言おうとしていたラーソは、心で微笑した。だが、実際に表に見せた表情は、不機嫌を滲ませた膨れ顔。
「忘れるはずありませんわ。」
スパンセで自分がワンダラーであるとザックに告げた時、互いに交わした一つの決意。
――これからの旅を通して、本当の自分を見つけよう。
自身への苦悩と、それを解決出来ない自分への自虐で塗り固められていたラーソは、ザックのその言葉で奮い立ったのだ。忘れられるわけがない事を、忘れられていると少しでも思われたのでは膨れるのも無理はない。
「わたくしは答えを見つけましたよ。わたしはわたし。もう周りの主張に振り回される自分とはさよならです。」
言い終えた後、今度はラーソが質問を返した。
ザックは何も言わず、真正面へ人差し指を向けた。そこには、枯れ木の中で一本だけで小さく咲く桜の木が。
それを見、ラーソは答えを知る。
「…俺の中には、常にソシノさん達の影がありました。」
――多くのワンダラーを浄化した自分は、生きるべき存在ではない。
常にそう感じていたザックは、本来、生きるべきはずのソシノ達を残し、この世界に止まっていることに深い自虐を感じていた。
そのためか、「自分」というものを殺し、内に眠るソシノ達の存在を押し上げ、生きる理由としていた。
リリ達との対立は、ソシノ達に託されたからやる、やらなければならない。そんな使命感で動いていたのが本音だった。
そして、好きな写真でさえ、その実感を失い、浮ついたものとなっていた。
旅も、そこで出会った人達にも、自分というものを出せず、どこか距離を置く日々…
もちろん、写真は好きであり、綺麗な風景を見ては感動したりもする。多くの人との出会いで学ぶ事もあり、大切な記憶となっている。
だが、それらはフィルターを通して感じているかのように、どこか実感が持てないのも事実だった。
「自分の中に生まれる感動は、俺(無柳)が起こしているものじゃなくザックのものなんじゃないかって。」
話しながら、足はゆっくりと桜の樹に向かう。
「でも、今は違います。この世界には沢山の人の物語や、美しい風景がある。それを守りたい。これは誰の意志でもない…やっと素直に、そう思える様になりました。」
――自分を包み隠さず表に出せる人との出会い。その人との旅の末に、心に聳えた壁が、静かに崩れていく事を、ザックは偽りなく理解していた。
「ラーソさん。あなたに会えたおかげです。」
後ろを振り返り、照れるように言った。
視線の先には、更に負けじと顔を照らすラーソがいた。
「どう致しまして。」
静止した時間の中で感じる確かな実感。二人は互いを向き合い、それを幸せに感じていた。
自分を見つめ直そうという旅路。その最果に立つラーソは、これから新たに紡がれるであろう旅の予感に心を踊らせていた。
(――そろそろ時間か…)
隣でそう思考するザックは、世界の終焉を予感していた――
第四十九話「最果て」 完
四十九話登場人物集
※イラスト協力者「そぼぼん」
※登場人物一部割愛
ザック=ルーベンス
潟躍
ネム
ルシータ
ラーソ=ボローニ