靡く思い
――サムはゆっくりと目を開けた。
人の姿を確認しようと、簡素な作りの部屋内を見回すが、そこには誰も居なかった。
次にサムは記憶を辿る。
(――確か、父さんが今からリロードするって言って…)
そこまで思い出した時、改めて自分の置かれた状況に混乱した。
――リロードはどうなったか?
――父は、助産師のリルアはどこに行ったのか?
答えを探そうとも、動けない体は否を出す。
サムはもどかしさに駆られながらもテレパシーを始めた。父やザック達に連絡するが、誰一人応じず、消沈。
だが、挫けずテレパシーを続けた。
もっとも親しい人物「風花」と話せば、きっと気も安らぐだろう…
しかし、希望を込めた風花へのテレパシーも、梨の礫で終わってしまった。
混乱は、やがて悲観へと変わっていく。
泣くのを必死に堪え、父の名を連呼した。
扉が開いて欲しい…そう思いながら、十回ほど叫んだその時――
「うるさいわね。耳が痛くなるじゃない。」
扉を開け、入って来たのは一人の少女。
サムは、先ほどとは別の意味で大きな声を張り上げた。
「ち、ちぃ!」
それは、喧嘩別れをし、しばらく会っていなかった遊び仲間のちぃだった。
「全く。誰も居ないからって泣きべそ掻くなんて、やっぱりまだまだお子ちゃまね。」
久しぶりに会ったちぃは、前と変わらず憎まれ口を叩き込む。
サムは、ちぃのそれが苦手だった。
だが、今心に宿るのは、暖かい温もり。
「ち、ちぃ…ありがとう。それから…あの時はごめん!」
誰も居ない虚無の中に現れたちぃに、サムは素直に感謝した。それと同時、ずっと言いたくても言えなかった「ごめん」という言葉が自然に口を伝いあらわれる。
長い間の重しが取れたサムは、もはや憂いを完全に消していた。
「もう。大袈裟ね。それに昔の事なんかどうでも良いし。それより、いじめてあげるから覚悟しなさい!」
ちぃの言葉に、サムは笑顔で頷いた――
―――――――――
(――サム…)
――先ほど響いたサムの叫びは、庭先にいるテテの耳にも届いていた。
自分が殺めようとしていた息子が、自分の名を必死で呼んでいる。
不意に、テテは走り出したい衝動に駆られ、身体を動かす。
同情が芽生えたのか、はたまた一時の感情の突起か… いずれにしろ、音吏の手により樹と同化しているテテには、ただ黙って静止するより他はなかった――
――庭先から数キロ離れた森の中…
そこには、苦しみ叫ぶルシータと、困惑を浮かべるラーソ。眉間にしわを寄せる音吏が居た。
そしてもう一人…確かな存在感を示す男が。
「…ザック、さん?」
右肩ほどまで垂れた、暗い緑色の髪が、柳のように風に靡く。
消え入りそうな表情で佇むその男は、ザックではない。
いや、そもそも人であるのかも判然としない。なぜなら、その男は「ザックの中」から現れたからだ。
男を前にし、目を丸くするラーソとは対照的に、音吏は表情を変えず佇んでいた。
――男は、ザックの姿を水を弾くように飛散させ現れた。
その事から考察し、ある結論にたどり着く。
「キャプチャー…か。」
キャプチャーは、浄化した者の姿を再現することが出来る能力。
それを扱えるのは、今の世の中ではタルパのみ。
「まさか、ザックになりすましていたとは。無柳。」
音吏は全てを理解し、不気味に笑った。
「ラーソさん。ルシータさんを安全な場所へ。」
男は、依然立ち尽くしたままのラーソに対し、気遣うようにそう告げた。
それを受け、ラーソは呆然としたまま歩み出した。
無事、ルシータの元についたラーソだったが、ここでまた一つ、奇妙な光景と遭遇した。
あれほど苦しみ叫んでいたルシータが、気持ちよさそうに寝息をたてていたのである。
その姿に困惑しながらも、背中に担ぎ運び出す。
ルシータの異変を見、音吏は再び口を開いた。
「ネメキネシスで救ったか。ザック、いや、無柳よ。」
去りゆくラーソ達には目もくれず、更に話を続ける。
「今の今まで忘れておったよ。本物のザックはもっとふざけた奴だった。」
音吏は、砂浜での戦い以前のザックの事を思い起こした。
口振り、態度、性格など、鮮明に脳裏を駆けめぐる。
それは、これまでザックだと思っていた者とは随分かけ離れた人物像だった。
それはつまり、偽とも言うべきこれまでのザックに対し、いままでなにも疑うことなく接していたということになる。
その忘却ぶりは異常だった。
「なるほど、優れたキャプチャーは人格錯覚を起こすと聞いていたが…まさかお前がそうだとはな。」
――音吏は、かつてのザックを忘れ、先ほどまで対峙していた全く別の人格のザックを本物だと錯覚していたのである。
それを行った者は無柳。可能にしたのはヤーニを凌駕するキャプチャー能力。
「だが、私がソシノを排除しに向かったあの時、もうすでにお前はキャプチャーをしていたはず。ならば、今のルシータのようにソシノを救えたのではないか?」
言いながら、音吏はテレパシーをしようと意識していた。
紡いだ言葉は、言うなれば無柳を立ち止まらせるための鎖。
――無柳の事をリリに教え、ヤーニに浄化するよう指令を出させる。
タルパであるヤーニならば、戦力的に対抗出来る。その上、無柳を浄化出来れば、内に眠るプロジェクションタグも手に入る… 無柳の存在を仲間に知らせることが叶えば、音吏にとって勝利と言えた。
悟られないよう、さり気なく、慎重にテレパシーを行う。
だが、いくら試しても、まるで壁があるかのようにリリには通じなかった。
「無駄です。あなたの概念源回路は封じておきましたからね。」
これまで佇むだけだった無柳が、髪を揺らし言った。
その瞬間、音吏の脳裏はその髪色同様真っ白に染まった。
――無柳はクラインの壺を全解放し生まれたタルパ。
それを思い知ると同時、浮かび上がって来たものは、「死」という名の語彙。
湧き出る不を振り払うかのように、音吏は勇んで跳躍し、佇む無柳に向かった。
素早い拳突きを数十。無柳が防御し離れた後、追撃し更に数十。先ほどと違い、肉体的に攻めいった。
――無柳は、手のひらをかざさずともネメキネシスを行える。
それは、紛い物ではなく、より本来に近いネメキネシスであるということになる。
更にもし、「近い」ではなく「そのもの」だったとしたら…
本来のネメキネシスは、離れていても対象を心に思うだけで行えるため、自分はおろか、仲間やリリも狙われる危険があった。
音吏はそれを危惧し、無柳に思考する間を与えないよう猪突猛進を決めたのである。
老体とは思えぬ猛攻は、一つ一つの衝撃こそ弱いが、目に見えぬほどのスピードで、得も言えぬ圧迫感を与えていく。
無柳は反撃しようとはせず、ただ猛攻を避けるのみだった。
だが、音吏は次第にその流れを崩していく。
一瞬の隙を見抜き、身を屈め、左右の拳を同時に打ち出す。
それは、ついに無柳の腹部を捉えた。
――好機。
音吏は地を蹴った。
そして、生体磁場を右拳に纏わせ、強力な突きをよろめく無柳の顔面へ向かわせる。
決まれば、普通ならまず浄化するであろう一撃。
無柳相手では果たしてどうか… 現れた憂い隠しを、勢いだけを拳に乗せた。
不意に、無柳は左に半身し音吏の突きを右手で抑えた。
そのまま更に回り込み、左手で音吏の肩を押さえ込み、下方に力を入れる。
途端、音吏は顔から地面に向かい転倒した。
力強く踏み出した音吏の力を、無柳は利用し受け流したのである。
泥を口に入れ、音吏は戦慄した。
――ネメキネシスが来る。
口にした苦汁の味すら忘れ、音吏は歯軋りし、目を閉じる。
だが何も来る気配はない。
意を決し目を開けた時、音吏の視界は泥ではなく、美しい白い砂浜を捉えた。
無柳を見ると、そこには見慣れた男が佇んでいた。
「なんのつもりだ」と音吏が言った時、対峙する男もまた口を開いた。
「あなたとは…この姿で。」
そこにはもう無柳は居ない。
居るのは、無造作に伸びた黒髪を僅かに靡かせるザックだった。
見覚えのある海岸の風景。そして切なげに佇むザックを見、音吏はいつもの冷笑を見せた。
「…あくまでこだわるか。」
吹き上がる風は、あの時と変わらない。
時が止まったザックの思念世界で、いつかの戦いの続きが今…
「音吏、今こそあなたを止めます。」
始まった。
先手を切ったのはザックだった。
風と一体となり、瞬間的に音吏に近づくと、空中で身を捻らせ、右足を力強く左側に蹴り込んだ。
音吏はそれを片手で防ぐと共に、目の前に据えたザックの腹部に眼から思念波を放った。
だが、ザックは空いていた右手を使い、思念波を相殺。地に着地後、すかさず音吏の手を取り、引き寄せる。
音吏がバランスを崩した所に、右膝を打ち出し、その顔面を強打した。
先ほど見せた、柳のような避け一辺倒の戦術はそこにはなかった。
追い込みは更に続き、右足を前方に押し出す一撃を決めた。
その脚撃は凄まじく、音吏は両手で防いだにも関わらず、波打ち際まで押し出された。
前方からは、ザックの思念波。
後方からは押しては返す強い波。
二つの狭間、音吏は波を味方に付けることにした。
思念波を避けず、最小限の力で防御し、余った力を波を操るサイコキネシスにあてがい、自身はその波の中へと入り込んだ。
巨大な青が、白を飲み込み、ザックもろとも押し流す。
音吏は水の中、自身の周りに渦を巻き上げ、ザックを迎え撃とうと身構えていた。
――攻防一体の優れた戦術。
そう自分を鼓舞し、息を整える。
実の所、音吏は未だこの状況に動揺を残していた。
概念源回路を塞がれた状態では、頼りの疑似ネメキネシスも使えない。
また、リリに報告しようにも、テレパシーは使えずじまい。
直接会って報告するには、思念世界を抜ける必要があるが、それにはザックを葬る必要があった。
恐れていた無柳は居ない状態だが、それでもやはり、ザックがいつキャプチャーを解除し、本来の力で向かってくるか解らない…
あらゆる不安の種が、波では押し流せないほど膨れ上がり、音吏の冷静さを押し出していく。
――ザックが今の状態でいる内、瞬間的に決着を付ける。
音吏は決断し、渦潮を更に強くした。
その間ザックは、思念波をもって四方八方から渦を攻めるが、まるで効果をあげられていなかった。
このまま海から出て動きを待つか… 思った時、ある言葉が脳裏をよぎる。
――お前が柔なら俺は剛。
それはかつて、本物のザックから言われた言葉だった。
(――そうだ。俺はもう無柳じゃない。ザックだ。なら…)
考えたと同時に、行動を開始した。
身体を再び半霊化し、刹那に消え失せる。
見事、テレポートで渦の中に入り込んだザックは、息も乱さず音吏を探る。
荒れる海とは違い、渦の中は静かで空気があり、心地の良いものだった。
その中心に音吏は居た。
ザックは背後。未だ、気配は気付かれていない。
――行くなら今か。
ザックは飛び出し、拳を振るった。
捉えたかに見えた、その時…
拳は音吏ではなく、小気味よい音で宙を裂いた。
(――テレポートか…)
途端、周りの渦が、音を上げ次第に狭まっていく。
いつか体験したこの圧迫感…
音吏に敗れたあの日の出来事が頭を擦る。
だが、ザックは慌てる様子もなく佇んでいた。
迫り来るのは生体磁場を纏った渦の壁。
ぶつかれば身体の飛散は免れない。
そしてついに、渦の壁は、四方から完全にザックを飲み込んだ。
その様子を、音吏は上空から見つめていた。
「やった」という感情と、「油断は禁物」という気持ちを反発させ、一旦呼吸を整える。
結果、警戒する心を取り、周囲に気配があるかを模索する。
その直後、大きな水の弾が複数海面から現れた。
警戒が功をそうし、音吏は造作もなく回避が出来た。
逆さに降り注ぐ無数の雨は、空の彼方に消えていく。
だが、一向に数が減らない。
(――この光景…どこかで…)
水弾を複数弾いた時、音吏の中に閃きが起きた。
(――ソシノの真似事か…)
既視感を覚えるザックの戦略。それが、かつてソシノが見せた戦い方だと思い出し、音吏は両手を広げ、力を込めた。
水弾を身体全てから解放した思念波で防ぎ切ろうとしたのである。
無数の水弾は次々に海へと還っていく。
残り僅か…
だが、そうは問屋が卸さない。
――身体が思うように動かない。
それと共に、思念波をうまく放つことが出来なくなった。
「…またしても、か。」
眼前には、力を込め音吏の身体をサイコキネシスで抑えるザックが居た。
防いでいた水弾は一カ所に集まり、一つの巨大な塊に変わる。
勇んで迫る、青の塊。
――このままではぶつかる。
音吏は、無意識に右腕を強く伸ばした。
開いた手には血管が浮き上がり、極限まで伸びた中指は僅かだが激しい震えを起こしていた。
それに呼応するように、水弾は弾けて消えていく。
ネメキネシスの力か… だが、音吏はそれを使えない状態であるはず…
「…どういうつもりだ?」
音吏は怪訝な表情で、海面に立つザックに言った。
水弾を消したのは、操っていたザック本人だった。
解せない音吏は、戦いを放棄したザックに疑念を向けた。
「勝負は付きました。…あなた自身薄々気付いているはずです。」
音吏は拳を握り、目を見開いた。
ふざけるなと罵倒し、半霊化したその時… 音吏の身体は、突如紅蓮の炎に包まれた。
「あなたの負けです。音吏。」
炎は瞬く間に身体を燃やし、心を凍らせていく。
波に打たれようが、海に落ちようが、炎は強い熱を帯びたまま変わらない。
なぜこのような状況を招いたのか…
――音吏は概念源回路を塞がれた事により、ネメキネシスを扱えない状態だった。にも関わらず、水弾にぶつかりそうになった時、無意識にそれを行っていた。
それが全ての元凶であることは、音吏自身気が付いていた。
概念源回路内で行き場を失ったアニマクオーク(ネメキネシスの原理を担う素粒子)は、使用者の指令を全うしようとする結果、暴走する傾向にある。
暴走後、ネメキネシスの矛先は、行おうとした対象ではなく使用者本人に向けられる。
つまり、ネメキネシスの失敗は、自身にはね返る事になるのである。
音吏は水弾に向かい、「燃え落ちる」ようネメキネシスを行っていた。
結果は失敗し、音吏は自らが燃えるという末路を辿ったのだった。
「まさか、こうなるよう仕向けたというのか…?」
焼けただれた喉元から声を絞り、音吏は言った。
「…あなたはいざという時、無意識にネメキネシスに頼ってしまう癖がある。それを利用したんです。」
ザックは、ソシノと音吏が戦っていた時の事を思い出した。
あの時音吏は、ソシノの放った球体がぶつかる直前、ネメキネシスを行い危機を凌いでいた。
ザックはそこから音吏の悪癖とも言うべきネメキネシスへの依存を見抜き、そこにつけ込む策を練っていたのである。
――音吏をソシノの時の様に瀬戸際の状態まで追い込み、ネメキネシスを行わせる。
見事、それは成功した。
「あなたにも解って欲しかった。ソシノさんの苦しみを。」
ザックは燃え盛る音吏を見、両手を広げた。
その姿は、再び無柳へと変化を遂げる。
「アセンションを諦めるようリリを説得してください。そうすれば、その炎を消します。」
脅迫にも似た言い分だったが、ザック(無柳)なりの精一杯の交渉だった。
「…見逃すと言うのか。」
音吏はすぐさま受け入れを拒否するが、苦痛から逃れたい思いも僅かにだがあった。
一旦、受け入れる振りでもしようか…迷えば迷うほど、気が遠くなっていく。
気がつけば、その心は、ワンダラーの使命に目覚めた時の記憶の中に居た。
四股とほとんどの臓器や五感を失い、死ぬことも出来ず、感覚のない暗闇に身を預けていた忌まわしい記憶。
そこに突如、色彩が生まれ、景色が生まれた時の記憶。
美しい風景の中、居たのは一人の白髪の老人だった。
『俺の意識に入り込んだのか?あなたは一体…』
若かれし音吏の問いに、老人は、チャネリングというものだと告げ微笑んだ――
(――そうだ…彼の言葉で私はワンダラーとしての使命に目覚めたのだ。彼の様に、人を導く者になりたいと…)
追憶を映す瞼を見開き、音吏は今の景色に戻った。
その表情には、苦しいはずの状況下、それを感じさせない笑みがあった。
「私はワンダラーを導いてきたワンダラー。お前如きの導きなど、無用。」
音吏は、自分の胸部に右手を翳した。
何をしようとするのか無柳は察し、止めさせようと叫ぶが…
「無柳、私に姿を見せたのがお前の失敗だ。我々は決してアセンションを諦めたりはしない。」
音吏は、自らの身体を思念波で打ち抜いた。
光となり、その魂は思念の世界を抜け、ある場所へ飛び立った――
――カニールガーデン、リリの部屋。
中央に配置された長方形のテーブルには、食べきれないほどの料理が置かれていた。
――アセンション達成間際を祝うパーティー。
そう評して開いたイベントだったが、部屋にいるのは、主催者のリリとクレロワを除けば、クルトのみ。
静寂の中に並べられた冷めた料理は、虚しい香りを漂わせていた。
「ヤーニもママンもジジも、みんな忙しいみたいですね。もうすこし待ってみましょう。」
笑って言うが、リリにはどこか暗い影が宿っていた。
誰一人テレパシーに応じない事など今まで一度も無かったため、不安が芽生えていたのだった。
ギベオンティーを飲み、心を落ち着かせる。
ふと、後ろに風を感じた。
心地良い、だが、儚さを帯びた暖かい風…
振り返ると、そこには青い瞳の若い男が立っていた。
見覚えがある瞳と茶色に短髪…
リリは、無意識にその名を呼んだ。
「…音吏?」
そして、勢い良く立ち上がり、今度は声を張り上げ名を呼んだ。
「リリ、突然どうした?」
クルト達には、リリが一人壁を前に話しているように見えていた。
何度も呼び掛けるが、依然リリは話を止めない。
その心は、既にここには居なかった。
『じじ、どうしたの?なんでそんな姿に…』
音吏は静かに微笑むだけだった。
やがて、手をリリに向け、言葉を送る。
『最期の手土産だ。私の記憶をリリ、君が記憶してくれ。』
ネメキネシスは、優しく穏やかに放たれた。
途端、音吏は霧の様に儚く消えた。
『…じじ。』
リリは一言呟くと、目を閉じ上を見上げた。
あふれる涙は、それでも抑えきれず、静かに頬を濡らすのだった――
―――――――――
――ザックは空を見上げていた。
その瞳からあふれるものは、涙ではなく、淡い光。
おそらく音吏の魂は還ってくることはないだろう… ザックは察し、静かに暗闇へと入る。
宿敵ともいえる音吏の打倒を果たしたが、心は空のように晴れ晴れとしてはいなかった。
シオンの最期を聞いた時と同じ、言い知れぬ虚無感だけが広がっていく。
(――ソシノさん。俺は…)
一陣の風が吹き荒れた。
虚無感は、風に吹かれても尚、平穏へと靡く事はなかった――
第三十六話「靡く思い」 完
三十六話登場人物集
※イラスト協力者「そぼぼん」
※登場人物一部割愛
ザック=ルーベンス
無柳
音吏=穢土(おんり=えど)
青年(音吏の前身)