8.におい
朝食の後、リリアナから貰った地図を見ながらフレデリックたちは迎えに来た護衛と共に離宮の森へと入った。昨日は昼過ぎから森へ入ったのだが、今日は午前の早い時間のせいか昨日とは空気が違う。湿った土や草木の香り…まさしく森のにおいとしか言えない清々しく爽やかな香りが実に心地よい。
「僕、初めて朝の森に入りました」
アイザックが昨日とは打って変わって穏やかな表情で辺りを見回している。
「僕もこのような時間に森に入るのは初めてだな。これは良いものだな……」
深呼吸をすれば体の中から洗われていくようだ。普段のフレデリックならやっと起き出してぐだぐだとメイと攻防を続けている頃だ。もしかしたら王宮の庭園も朝にはこんな風に空気が違うものなのだろうか。
「早起きも悪くないですよ。俺は朝は父上と鍛錬なので割と早いんです」
「こんな時間から鍛錬なのか?」
「父は俺が鍛錬に出る一時間前から鍛錬しているそうです」
「リンドグレン侯爵は努力家なのだな……」
第一騎士団の騎士は権力や容姿を重視するために剣の腕は良くないのだと聞いていた。鍛錬場にも第一の騎士はそれほど現れないと聞いていたので皆そういうものなのだとフレデリックは思っていたのだが。
それに父親と朝の鍛錬をしているのなら、レナードもまた家でも日々努力しているということだ。
フレデリックは自分に見えていないものの方が多いことは理解していた。けれど、これほど近い場所ですらフレデリックは見えていない。それどころか個を見ようともせず聞いた話でひとまとめに考えてしまっていた。
ちらりと後ろを見れば今日も見目麗しいふたりの騎士が着いてくる。白い騎士服、彼らは王族の護衛を主とする第一騎士団の騎士だ。腰には当然、長剣を下げている。
よく考えれば彼らも王族の護衛をするのだ。しかも爵位がどれほど高くとも、そもそも従騎士試験を通らなければ騎士団に所属することがまずできない。
第二騎士団や第三騎士団に比べれば実戦経験も少なく実力にも劣るかもしれないが、王族警護を任される騎士である以上彼らも十分に戦えるのだろう。
フレデリックは自分の視野の狭さと思い込みに気づき改めて顔から火が出る思いがした。表情は意地でも変えなかったが。
「僕も朝の鍛錬をしてみたいな」
「王弟殿下にお話をしてみてはいかがです?朝のかなり早い時間にいつも鍛錬をなさっていると父が言っていましたよ」
「叔父上がか!?」
またもフレデリックは衝撃を受けた。普段の叔父はだらしがないが、それでもそのだらしなさが格好良く見えてしまうくらい引き締まった均整の取れた体をしているとは思っていたのだ。叔父は生まれつき全てが美しいのかと思っていたが、まさか叔父もフレデリックの知らないところで努力をしていたとは思ってもみなかった。叔父に関してはむしろ聞いても信じられないが。
「はい。ブライアント子爵とライリー子爵も一緒の時があるみたいです」
「噓だろう……護衛のオルムステッド殿は分かるがフェネリー殿はただの従者だろう?」
「詳しくは俺も分かりませんよ。父がそう言ってただけなんで」
ブライアント子爵は叔父の専属護衛のジェサイア・オルムステッド。ライリー子爵は従者のベンジャミン・フェネリーのことだ。叔父の直属で、王宮の官吏でも王国の騎士でもないので爵位で呼ばれることも多い。そんなふたりも叔父と早朝から鍛錬に励んでいる。そして昼には、どんな形であれ文官との関わりがある以上国の政務に直接的に関わっている。
誰かの話をするたびに、もっと視野を広く持って周りを良く見てごらんなさいと母はいつも困った顔をして笑っていた。子供だからでは済まされない自分の認識の歪みにまたも気づき、フレデリックは天を仰ぎたい気持ちになった。
「どうしました?殿下」
「お疲れになりましたか?」
いつの間にか足を止めてしまっていたフレデリックに気づき、ふたりも立ち止まり心配そうにフレデリックを見つめている。
「いや、大丈夫だ。……あまりにも色々なものを見落としている気がして足が止まってしまったらしい」
フレデリックが苦笑して首を横に振ると、アイザックが「ああ!」とにっこりと笑った。
「そうですね、昨日はエヴァレット嬢がご一緒でしたから色々なものを見つけられましたが、こうして歩いてみると同じものを見ているはずなのに中々見つかりませんね」
「あれはリリアナさんの目が異常なんですよ」
「あ、女性に異常だなんて言っては駄目ですよ?」
たった一晩共に過ごしただけだがずいぶんと肩の力が抜けたらしい。笑い合うレナードとアイザックの表情も口調も昨日とはずいぶんと違う。
「そうだな、異常は駄目だ。そういう時は『特別』だな」
「なるほど、物は言い様ですね」
次からはそう言いますと笑ったレナードに、フレデリックも自然と笑みがこぼれた。
ふたりは森のことだと誤解してくれたようだが、フレデリックはやはりふたりのこともずいぶんと見落としてきたのだと……いや、見ようとしていなかったのだと思う。
レナードはたぶん言葉選びが良くないだけで色々と考えているし、アイザックはフレデリックとは違う角度でものを見ているように思う。彼らの目にはフレデリックはどう映っているのだろう。
あの茶会の日。フレデリックに『性格が悪い』と言って怒ったように眉を寄せた少女を思い出す。あの時フレデリックは彼女に何と言っただろう。彼女を、周りの令嬢令息たちをどんな目で見ていただろう。思い出せないが、きっとフレデリックは思い出さなければいけない。きっとフレデリックは大事な何かを見落としている。
「大丈夫ですよ殿下」
「え?」
いつの間にか考え込んでいたようで俯いていたフレデリックに、レナードが言った。
「殿下が見落としたところは俺たちが気づけば良いんです」
「そうですよ。殿下が見落としたり見失ったりした時は、僕たちも一緒に探せばきっと見つかりますよ」
少し先でフレデリックを振り返っているふたりを見てフレデリックは泣きたくなった。
本当にふたりは森のことだと思っているのだろうか。いや、きっと違う。ふたりはきっと、完全では無くともフレデリックの意図したことを感じ取っている。その上で、自分たちがいると言ってくれているのだろう。
「そうか……共に探してくれるか?」
「当然」
「もちろんです。だからちゃんと教えてくださいね?」
「分かった。……感謝する」
正しく笑えただろうか。泣き笑いのようになってしまった気がするがフレデリックは笑った。そうして「行くか」と頷くと、フレデリックが追い付くのを待ってアイザックが地図を確認しつつフレデリックの前を、レナードが後ろに着いた。
「もうすぐキイチゴの茂みです」
「そうか、もう着くのか」
昨日は脇道に逸れたり行きつ戻りつして採集しながら歩いたためそれなりの距離に感じたが、やはりまっすぐ進むとフレデリックたちの足でも一時間もかからない。ちらりと振り返るとやはり護衛の騎士たちは一定の距離を空けて付かず離れず歩いて来ている。
「この辺りですね」
アイザックがぴたりと立ち止まった。確かに目の前にはキイチゴの茂みが広がっている。フレデリックはわざと少しだけ声を張った。
「やはりこの辺りはもう熟れているものは無いな。あちらの方にも茂みが続いているみたいだ」
そう言うとレナードとアイザックを促して茂みの裏、立ち入り禁止区域の柵の方へと歩を進めた。
「あそこだ、見えるか?」
「どこです?」
「そっちの茂みの影だ」
「あ、あれですね!」
キイチゴを探しているふりをして柵の穴の方を指さすと、ふたりも穴が見えたようだった。
「やはりこちらも無いな……来月にもう一度来てみるか」
そう言いながら小道へと戻ると、護衛のふたりは昨日と同じ位置でフレデリックたちを見守っている。この分であれば、次回も同じ辺りでキイチゴの茂みを見るフレデリックたちを見守ることだろう。好都合だ。
「あれ……?」
小道に着いたところでレナードがぴたりと立ち止まりきょろきょろと辺りを見回した。
「どうした?」
フレデリックも振り返ると、レナードが眉間にしわを寄せて確かめるように少し上を向きすんすんと鼻を動かしている。
「レナード?」
「あー……何か、違う匂いがした気がしたんですが……」
「違う匂い?」
「はい、何と言うか、少し生臭いような……?」
フレデリックもすんすんと鼻を動かしてみるが特に変わった匂いは感じない。アイザックを見るも、不思議そうに首を横に振っている。
「いや、きっと気のせいだと思います。俺も汗かいてますし」
「そうか?戻ったら体を拭く湯を貰おう」
フレデリックは歩き出しちらりとレナードを振り返ると、レナードは禁止区域の方を振り返り、そうして頭を軽く横に振るとフレデリックの後ろへと足早に駆けてきた。




