62.『こうでなければ』という檻
「それは僕が悪いのか?」
フレデリックがくすくすと笑いながら首を傾げると、公女は膨らませた頬をそのままにすとん、と椅子に戻った。
「何で笑うのよ…」
「すまない、公女。馬鹿にしたわけでは無いんだ」
どうもつぼに入ってしまったらしい。何とか落ち着こうと努力はするが緩む口元はさっぱりフレデリックの言う事を聞いてはくれない。
「今のは笑うところじゃなくて、怒るところだわ」
「そうだろうか?」
「そうよ。話し方も態度も…私、とっても不敬だわ」
「そうか、そうだな。僕は今、怒らなくてはいけないな」
フレデリックは何とか表情を取り繕うと姿勢を正してフェアフィールド公女に向き直った。
「公女。僕は君に君が思ったことをそのまま君の言葉で話して欲しいと言った。だから君の言動を不敬に問うことはしない。だが…」
フレデリックは言葉を止めると目の前の茶をひと口飲んだ。少し冷めてしまったが、気温が高めなのでこのくらいでも十分に美味しい。
それから小さな焼き菓子をひとつ口に入れた。甘い卵のクリームが滑らかに蕩け、さくさくのタルトと混ざって口の中が幸せになる。
「この茶も、焼き菓子も、君のためにと宮の者達が用意したものなんだ。グレアムの淹れた茶は僕にとっては一番に美味しいし、この焼き菓子が内宮の料理人たちが作ってくれる中で僕が一番好きな菓子なんだ。食べてもらえないのは、寂しいな」
フェアフィールド公女ははっと何かに気づいたようにテーブルを見た。茶も焼き菓子も、いまだ公女はひとつも手を付けていない。出されたものに手を付けないのはそれこそ無礼にあたってしまう。だからフレデリックはにっこりと笑った。
「君が口にしてくれたら嬉しい」
「うん…はい」
しょんぼりと肩を落としたフェアフィールド公女もカップを手に取ると口を付けた。それから、フレデリックにはひと口の卵のクリームのタルトをふたつに切って口に入れるとぱっと瞳を輝かせた。
「美味しい…!」
「そうか、良かった」
フレデリックがほっとしたように笑うと、カップを両手で包むようにして俯き、フェアフィールド公女はぽつりと言った。
「………そうやって笑っていれば良かったのに」
「え?」
「お茶会でも、そうやって笑っていてくれたら、誰も怖いなんてきっと思わなかったわ…」
フェアフィールド公女はふるりと小さく首を横に振った。あの茶会の日、フレデリックはフレデリックなりに立派な王子として過ごそうと努力をしていたのだが、何かが駄目だったのだろう。
「そうなのか……僕はあの時、どんな顔をしていただろう?」
「口元は微笑んでるのに、目が全然笑っていなかったわ。口調も雰囲気もとても硬くて…話しかけてはいけないんだって、思ったわ」
「君も?」
「ええ、近づいちゃいけない気がしたの…」
王族には無暗に話しかけないのが常ではあるが、それでも交流を目的とした茶会で近づくことすらためらわれるほど怖いのは駄目だ。もちろん、そんなつもりはフレデリックにはこれっぽっちも無かったのだが。
フレデリックは少しだけ眉を下げて視線を下げた。
「そうか……。僕は王子だから皆の模範にならないといけない立場だ。粗相など以ての外だし、次代を担う者として堂々と振舞わねば…と、思っていた。次代として認めてもらえるように、立派な王族だと思われるように」
「そう、なの」
「ああ。君もそうではないのか?僕を抜かせばあの茶会には同等かそれ以下の令嬢令息しかいない。高位の貴族令嬢として振舞わねばと思ったのではないのか?だからこそ公女も注意をしなくてはと思ったのだろう?」
「そう、ね。そうよ、私も公女としてしゃんとしなくちゃって思ってた。だけどあなたがあんまりにも怖い顔をしてみんなを怖がらせるから……」
フェアフィールド公女の眉根がきゅっと寄った。拗ねたようにつんと尖った唇に、フレデリックはまたつい、笑ってしまった。
「ふふ……そうか……緊張していたからな、僕も」
「王子様なのに?」
「王子だから、だな」
「どういうこと?」
フェアフィールド公女が顔を上げ不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせた。リリアナほどでは無いがフェアフィールド公女も貴族令嬢にしてはとても良く表情が変わる。
フレデリックは笑みを浮かべたまま眉を下げ頷いた。
「僕にとっても初めての公的な茶会だったからな。話は聞いていたしどう振舞うべきかは教わっていたが、正直どうしたら良いのか分からなかった。堂々ととか、威厳のあるとか、そういう振る舞いがよく分からなかったんだ。だからきっと、間違えたのかもしれない」
「お手本はいなかったの?」
「いない…と、思っていたんだ、あの時は。本当は身近に何人もいたんだが、僕は愚かだからちゃんと見えていなかった」
「そう…お手本もいなくて正解も分からないんじゃ、怖かったわよね」
「ああ、実はとても怖かった」
「そう……」
フェアフィールド公女は唇を引き結び、俯いて黙ってしまった。。
やはり自分は情けないなとフレデリックは思う。できていると思っていた『堂々とした自分』は堂々とし過ぎて他者を寄せ付けなかった。今もなぜだかフェアフィールド公女を黙らせてしまっている。公での振る舞いというのはどうにも難しい。
レナードとアイザックの目からは茶会の時どう見えていたのか今度聞いてみようとフレデリックは思った。きっとまた違う視点でフレデリックに気づきを与えてくれる。
「ごめんなさい……」
フレデリックが静かに紅茶を飲みつつ思考に沈んでいると、俯いたままのフェアフィールド公女がぽつりと言った。
「ん?何にだろう?」
「わたし、とても酷いことを言ったわ」
「どれのことだ?」
「えっと……色々、沢山?」
「そうか、色々沢山か」
フェアフィールド公女が顔を上げた。何かを伝えようとしてくれているのだろう。何度も小さく口が開いたり閉じたりする。ぱちぱちと、何度も瞬きを繰り返している。
碧の瞳を縁どる長いまつ毛が瞬きと共にふわふわと揺れるのを見て、まつ毛もやっぱり綺麗な小麦の色なのだななどとぼんやりと眺めながらフレデリックはフェアフィールド公女の言葉を待った。
「あのね……お父様やお母さまからも王子様に失礼のないようにって何度も言われたの。王子様って言われても地位とか権力とかって意味では分かるけど実感が無かったの。物語の王子様しか知らなかったから」
フェアフィールド公爵家は王都の南西に広大な穀倉地帯を持つ、二つ名を『王国の食糧庫』と呼ばれる家だ。牧畜も盛んで、その二つ名の通りこの王国の食を長きに渡って支え続けている家。
もちろん王都にタウンハウスも持っているが、幼いうちに王宮に子供を連れてくる高位貴族が多い中フェアフィールド公爵家はあの茶会まで公女を王都へ、王宮へ連れてきたことは無かった。
「わたしね、全然気づいていなかったの。あなたも緊張してるなんて思わなかったの。だってあなたはとても堂々として落ち着いていて…とても同じ年だなんて思えなかった。そんなあなただったから、みんな怖くなっちゃったんだわ。……わたしも」
だから、ごめんなさい。小さな体を縮こませてフェアフィールド公女が頭を下げた。ただでさえ小さな体が更に小さくなり頼りなさげに視線を彷徨わせている。
フレデリックは首をゆっくりと横に振ると、大丈夫だという代わりににっこりと笑った。それからまた紅茶のカップを手に取るとずしりと重い。いつの間にか湯気の上がる新しいカップへと交換されていた。全く気付かなかった。
ちらりとグレアムを見ればまたもにっこりと微笑まれた。宣言通りの空気っぷりだ。
「そうか……難しいな。堂々とは見せたかったが、怖がらせたかったわけじゃないんだ」
「うん、分かるわ。今のあなたはむしろ優しすぎるもの。ちょっと心配になっちゃうわ」
「あはは、僕の側近にも似たようなことを言われている」
フレデリックは思わず声を上げて笑った。アイザックにもよく言われるのだ。もう少し怒っても良いんですよ、と。フレデリックはたいてい笑って「そうか?」と答えるだけだ。
以前自分を閉じ込めていた『こうでなければ』という檻から抜け出した今、フレデリックには様々なことが怒るほどのことに思えなくなっていた。世界はもっと、優しくて良いとフレデリックは思っている。
フレデリックがそう言えば、アイザックは決まって「良いです、僕がフレッド様の代わりに怒りますから」と困ったように嬉しそうに笑うのだ。




