58.アイザック
「そうか…」
フレデリックは俯いた。
見たいものだけを見て聞きたいことだけを聞いていたフレデリックを…周囲を見ようと、目を向けようとしてこなかったフレデリックのことをアイザックがどうしてそんな風に言ってくれるのかが分からない。
アイザックも、レナードも。沢山間違えていたことに気づいた今、フレデリックには彼らが自分と共にあることを選んでくれることが不思議でならなかった。
分からないけれど、アイザックがレナードと同じように自分と共あることを望んでくれるのなら、フレデリックにできることはひとつだ。
フレデリックはアイザックの目を見つめ返して頷いた。
「アイザック……僕は愚かだからひとりでは駄目なのだと、情けないことにやっと気づいたんだ。だが、情けない愚か者のままではいけないとも思っている。ひとりではまたきっと何度も繰り返すと思う。だけどもし、アイザックが側にいて一緒に考えてくれたら…僕でも少しだけ良い王に近づけると思うんだ」
フレデリックは次こそはアイザックの言葉を聞けると思う。今なら、その意味を考えられると思う。分からなければ素直に分からないと言えると思う。意見が違えば抑えつけるのではなく、話をすることができると思う。
そんな当たり前のことすら分からず、できていなかった情けないフレデリックだけれど。
フレデリックはスペンサー侯爵と侯爵夫人に向き直ると背筋を正して座り直した。
手紙にも似たようなことは書いた。けれど、何度でも伝えよう。伝わるまで何度でも言葉を変えて繰り返そう。
「スペンサー侯爵、侯爵夫人。僕は見ての通りまだ子供で、物の道理も分からぬような愚か者だ。絶対にアイザックを危険な目に合せないとは約束できない。そんな約束こそ無責任だと思う。だけど、大切にしたいと思う。アイザックの言葉に耳を傾け、共に考え、時にぶつかって、そうやってお互いを知り、共に良い王を目指したいと思っている」
アイザックが嫌だと言えば、説得は試みるが無理強いをする気はなかった。けれど、アイザックが共に…フレデリックの側にいると言ってくれるのならなおさらだ。伝わるまで、認めてもらえるまで、フレデリックは決して諦めるわけにはいかない。
フレデリックは座ったままで頭を下げた。
「どうか僕に、機会をくれないだろうか?都合の良いことを言っているとは分かっている。だが、アイザックの良き主になる機会を…これからを見てはくれないだろうか」
王族としては褒められることでは無いと分かっている。けれど、必要な時は臣下であっても頭を下げるべきだとフレデリックは思う。
ありがとうも、ごめんなさいも、よろしくお願いしますも。フレデリックは、必要な時にはちゃんと言える人間でありたい。フレデリックはきっと何度も迷って何度も間違えるから。
顔を上げてスペンサー侯爵と夫人を見ると、ふたりともとても静かな顔でフレデリックを見ていた。とても静かで、けれどとても優しい目だと、フレデリックは思った。
しばらくそのまま見つめ合っていると、夫人の表情が先に緩み、「あなた」と膝の上に置かれていたスペンサー侯爵の手をぽん、と叩いた。
それを合図としたようにスペンサー侯爵がひとつ息を吐き、「そうだな」と夫人を見て頷いた。
「殿下」
「ああ」
自分の手に重ねられた夫人の手にもう片方の手を重ねると、スペンサー侯爵は静かにフレデリックを呼んだ。
「アイザックはこれまでとても良い子だったんです」
「う…それは、申し訳ないことを…」
困ったように微笑んだスペンサー侯爵にフレデリックは硬直した。過去形になったのは間違いなくフレデリックたちの影響だろう。
「いいえ、違うのです」
スペンサー侯爵が微笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「我が家は上と下に大変個性的な長女と次女がいて、間に挟まれたアイザックはいつもふたりに全てを譲って大人しく聞き分けの良い子として過ごしてまいりました」
何かを思い出すように少し視線を下げたスペンサー侯爵に、フレデリックは「ああ」とだけ答えた。
確かに、初めて茶会で会った時のアイザックはとても大人しい少年だった。スペンサー侯爵に促されるままにフレデリックの前に出て丁寧に挨拶をし、当たり障りのない話と、あとは何を言っても微笑みを浮かべて相槌を打つだけの少年だった。
「もしもアイザックが何も言わなければ辞退をして領地へ連れ帰るつもりでした」
それはそうだろう。親とすれば危険から子を守りたいと思うのは当然だ。フレデリックだってレナードだってしっかりと叱られた。母とメイはちょっとばかり耐性があっただけだ。
顔を見合わせ神妙に頷いたフレデリックとレナードを交互に見てスペンサー侯爵が笑みを深くした。
「初めてなのですよ。アイザックが私たちに何かを望んだのが。アイザックの初めての我儘が、殿下たちと共に在りたい、だったのです」
「父様……」
アイザックが目を丸くしている。もしかしたらアイザックはそんなつもりは無かったのかもしれない。
そんなアイザックを見て、スペンサー侯爵は困ったように微笑み、そうして小さく息を吐くとまたフレデリックを見た。
「心配でないと言えば嘘になりますし複雑な気持ちが無いわけではありません。ですが、男の子ですからね……私にも、やんちゃをした記憶が無い、わけでは無い」
口角を上げたスペンサー侯爵は夫人と目を見合わせた。夫人の笑みも深くなる。夫人もその頃を知っているのかもしれない。今の侯爵からは全く想像がつかないが。
フレデリックはどんな顔をして良いのか分からずアイザックを見ると、アイザックも小さく目を泳がせている。こちらも初耳のようだ。
フレデリックがどう表情を作ればよいのか思い悩んでいると、スペンサー侯爵は「ですが」と続けた。
「ですがそれと同時に私は…私たちは、アイザックの初めての意志を、望みを何としても叶えてやりたいとも思うのです」
スペンサー侯爵はふっと表情を緩めるとアイザックを見て、レナードを見て、そうしてフレデリックにまた視線を戻し、とても嬉しそうに眦を下げた。
「アイザックがこれほど自分の意志を持って私に話してくれたことが私はとても嬉しかった。我儘を言ってくれたことが本当に嬉しい。そしてそれは殿下とリンドグレン令息、それにブライ殿や、周囲の皆様のおかげだと思っております」
いつからだっただろう。アイザックがこれほどはっきりとフレデリックとレナードに物を言うようになったのは。
気が付けばアイザックはフレデリックによく意見をするようになったし、レナードとも軽口を叩くようになっていた。直接のきっかけは覚えていない。ただ、慣れただけかとフレデリックは思っていた。
話をして、共に過ごして、気が付いたらそうだった。それだけだ。あまりにも当たり前になっていて、いつ、だなんて考えたことが無かったのだ。
アイザックとレナードを見ても、ふたりともきょとん、と不思議そうに首を傾げている。フレデリックも同じように首を傾げると、何となく、三人で笑い合った。




