56.スペンサー侯爵家
翌日は久々とも言える重く垂れこめる曇り空だった。雨が降るよりは良いが、少々フレデリックの心まで重くなってくる。
「降らなくて良かったですね」
ごとりごとりと揺れる馬車の中、平常通り剣の鍛錬を終えてから王宮へ来たレナードが平常通り何を考えているか分からないぼんやりとした目で外を覗きながら言った。
「そうだな…レナード、お前、物凄くいつも通りだな」
「そうですか?緊張はしてるんですが」
振り返ったレナードにフレデリックは苦笑した。自慢では無いがフレデリックは非常に緊張している。朝食のパンケーキを残そうとしてクリスティーナに叱られたくらいだ。もちろん、頑張って食べきった。胃の辺りが若干気持ちが悪い。
「どこまでもいつも通りに見えるぞ」
「あー……表情が薄いって、兄上たちにも良く言われます」
「お前末っ子だったよな?」
「そのはずですね」
叔父も飄々としているが、レナードにはそれとは違う何とも言えない落ち着きがあるように思える。それともやはりフレデリックが小心なだけなのだろうか。
「もうすぐ到着いたしますよ」
フレデリックが胃のあたりを押さえてため息をついていると、グレアムがふふ、と口元にこぶしを当てた。
「言うな、自分でも情けないと分かっている」
「そんなことは思ってもおりませんよ」
「笑っているだろう」
「申し訳ございません。ただあまりにもおふたりともいつも通りでいらっしゃいましたので」
そう言われてはた、と気づきフレデリックはグレアムを振り返った。
「そうか、これが僕のいつも通りだったか」
「はい、左様でございますね」
「そうか、じゃあ仕方ないな」
不安が消えたわけでは無いがフレデリックは何となく落ち着いた。
そもそもフレデリックは母や叔父のようでありたいと思いはしても外見も、そして非常に残念だが内面も父似だ。この数ヶ月で思い知った。努力はしてみたがその努力もどうにも斜めだった。
だが父も、いざとなれば大嫌いな蛙の前に飛び出すだけの勇気があった。あの日の父を思い出すと胸が温かくなると共に、やれば何でもできるのだとフレデリックも勇気をもらえる気がする。若干失礼な気もするが。
ぎぃ、と車輪がきしむ音と共に「ウォー」という低い声が響き馬車が停止した。
しばらくすると今度は門の開くぎぃ、という音がしてまた馬車が動き出した。
「着いたようですね」
また馬車が止まり外からこんこんこん、と扉を叩く音がした。グレアムがカーテンを軽く開いて同じように扉を叩くと、外からがちゃりと鍵を開ける音がする。グレアムもまた鍵を開けると、扉が外側へと開かれた。
「殿下、どうぞ」
先に降りたグレアムがレナードを下ろし、それからフレデリックへと手を差し伸べた。
「ああ」
本来であれば男であるフレデリックはエスコートを受けないが、身長が足りずまだ馬車の踏み台が高いのだ。緊張している今は落ちかねないので素直にグレアムの手を取った。
「ようこそお越しくださいました。スペンサー侯爵家当主デリックがご挨拶申し上げます」
「妻のシャロンにございます。お会いできて光栄にございます」
「お招き感謝する、スペンサー侯爵、侯爵夫人。今日はよろしく頼む」
王族への礼をするスペンサー侯爵と侯爵夫人にフレデリックも頷いて答える。視線だけを動かすが、やはりアイザックは出迎えには出ていなかった。
「ご案内いたします、こちらへどうぞ」
微かに笑みを浮かべたスペンサー侯爵が先導し、フレデリックたちは応接室へと通された。フレデリックが上座に座るとグレアムは土産を持ってその後ろに立ち、レナードは侯爵と侯爵夫人が座るのを待ってフレデリックの隣に座った。
「侯爵、王宮の菓子と母上の庭園の花だ。受け取って欲しい」
「感謝申し上げます、殿下。ヒギンズ」
初老の執事と思しき男性がグレアムから花と菓子の入った箱を受け取りそれを後ろに控えていたメイドに渡した。
「これは王妃殿下から夫人へと預かって来た。確認して欲しい」
グレアムが夫人にフレデリックの両手ほどの大きさの薄い箱と手紙を手渡すと一礼してすぐにフレデリックの後ろへと戻った。
「お心遣いに感謝申し上げます」
夫人は座ったまま一礼すると箱を開け、微笑みを浮かべたままびしりと固まった。ぎぎぎ、と音がしそうな動きでスペンサー侯爵にそっと箱の中身を見せると、スペンサー侯爵もまたぴたり、と動きを止めた。
「あー……スペンサー侯爵、その……王妃殿下が何を夫人に渡したのかは分からないのだが……とりあえず、忘れてもらえるか?僕がここに来た理由とは何も関係ないと思ってくれていい」
「は……大変失礼いたしました。殿下のお心遣いに心より御礼申し上げます」
「あー、いや。先に渡した僕がきっと悪かったんだ。話した後に渡すべきものだった。僕の配慮が足りなかったな」
頭を下げるわけにはいかないのでフレデリックがそう言って頷くと、スペンサー侯爵と夫人が顔を見合わせ、そうして頷いた。
「承知いたしました。ではいったん…忘れさせていただきます」
少々の間が気になったが話が進まないのでフレデリックは「ああ」と小さく頷いた。
先ほどの執事が茶をフレデリックたちの前に並べていく。グレアムがフレデリックの茶に口を付け、菓子をひとかけら口に含みまた後ろへと下がった。
「気を悪くしないで欲しい。何があってもあなたたちに非が無いという証拠立てでもあるんだ」
「もちろんでございます、殿下。承知しております」
眉を下げてフレデリックは紅茶のカップに口を付け、焼き菓子を口にしてレナードへと視線を向けた。レナードも紅茶に口を付けたところでフレデリックはスペンサー侯爵夫妻へと向き直り姿勢を正した。
「スペンサー侯爵、夫人。今日は時間を作ってくれて感謝する。まさかこんなに早く会ってもらえるとは思ってもみなかった」
「いえ、急なお願いでしたのにこうしてすぐに足をお運びいただけたことこそ僥倖でございます」
「そうか……侯爵、夫人、どうか気を楽にして話をして欲しい。多少の不敬は気にしないし今日は僕の供は僕が最も信頼するふたりだけだ。もう知っていると思うが、いずれ僕の護衛となるレナード・リンドグレンと僕の侍従であるグレアム・ブライだ」
グレアムとレナードがその場で自己紹介をして一礼する。スペンサー侯爵と夫人もまたふたりに「ようこそ」と微笑み頷いて答えた。
思いのほか和やかなふたりの表情にフレデリックはほっとした。本当はもっと冷ややかに対応されるか着いて早々に苦言を呈されても仕方が無いと思っていたのだ。
だがスペンサー侯爵夫妻は立派な貴族だ。礼儀を持ってフレデリックたちを歓待してくれても、アイザックについてはまた別のはずだ。
「かしこまりました、殿下」と頭を下げた侯爵と夫人に「ああ」と頷きフレデリックは本題に入ることにした。
「侯爵、夫人、手紙は読んでもらえただろうか」
「はい、拝見いたしました。花も確かに頂戴いたしました」
「そうか……読んでもらった上でもう一度僕から言わせて欲しい。僕はこれからもずっとアイザックが共にあってくれる…こと…を……?」
扉の向こうが騒がしい。「待ちなさい!」「お待ちください!」と数人の女性が何度も制止する声とばたばたと走る音……。
「その、大丈夫だろうか侯爵」
「ええ、問題ないと言えば問題ございませんが……」
ばたばたという音と制止の声がどんどんと大きくなる。夫人が困ったように扉の方を見て微笑み、スペンサー侯爵が「やはりこうなったか」と額を押さえて嘆息した。




