55.脳筋
「レナード。急なんだが、明日スペンサー侯爵家へ行くことになった」
「明日ですか」
茶を飲みつつ近況報告をした後に、フレデリックは姿勢を正してレナードに言った。
「ああ。まさかこんなに早く時間を取ってもらえるとは思っていなかったんだがな…」
本当に早かった。フレデリックたちが王家の谷へ行ってからまだ五日しか経っていない。一ヶ月でも二ヶ月でも、話を聞いてもらえるまでは待つつもりだったのだが。
「早いと、不安になりますね…っとすいません。俺が気弱なこと言っちゃ駄目ですね」
「いや、良い。僕も正直そう思ってる」
呼ばれたということは、すでにある程度の考えがまとまったということだ。
「手紙と花を贈った翌日に連絡がきたからな……余計に不安だ」
あれほどの無理をさせてたったの五日…いや、スペンサー侯爵が連絡をくれたのは昨日だったからたったの四日だ。
フレデリックが手紙と花を贈ったのが三日前。その一日で、何かがあったということだ。だからこそ余計にフレデリックの不安が募る。
「まぁ…アイザックは俺と違って森や生き物に耐性が無いですからね。あれはちょっとトラウマになっても仕方ないかなとは思います」
「そうだろうな」
「むしろ殿下が意外と平気なのに俺は驚いてます」
「いや、どうだろうな。実際に蛙や蛇を前にしたら何かあるかもしれないが…王宮にいる限りは出会わないからな」
「俺は初めて森で厄災熊に会って父上たちが討伐するのを見た時、家にいても三日は悪夢を見ましたよ」
「いくつの時だ?」
「六歳ですね」
「それ第二級討伐対象だろ。すごいな、リンドグレン侯爵家……」
六歳の子供を滅多に出会わないとはいえ第二級討伐対象の熊が出る森に連れて入るとは英才教育が過ぎる気がする。だが、だからこそレナードはすでにあれほど森で動くことができるのだろうし感覚も鋭いのだろう。
ふと騎士の男子寮の臭い問題を思い出し再度フレデリックの心のやることリストに目立つよう赤線を引いた。
「でだ、レナード。来るか?」
「俺が行っていいんですか?」
「侯爵からの手紙には誰を連れてきても良いと書いてあった。たぶん侯爵は母上や叔父上の側近や叔父上本人を考えていると思うが……僕はアイザックを迎えに行くならレナードとグレアムと行きたい」
フレデリックはテーブルの上で両の手を組んでぎゅっと握り締めた。
「俺で大丈夫でしょうか?」
「ああ。アイザックのことはきっと僕とレナードで考えなければいけないことだと思うんだ。そうじゃなきゃ、認めてもらえない気がする。いざとなればグレアムに頼ることもあるかもしれないが……それでも、少なくとも今は、母上や叔父上の力に頼るべきじゃないと思う。うまく言えないんだが……」
フレデリックが言い淀み視線を揺らすと、レナードが少し考えるように首を傾げてから頷いた。
「何となく分かります。うまく話が進んだとしても、何かこう…そこまでだと、思われる気がします」
「うん。たとえ王子の側近としてアイザックを戻してもらえても、僕自身の側近としては、アイザックを任せるに値する…って思ってもらえないような気がするんだ」
フレデリックたちは子供だ。分かっている…いや、思い知らされた。だが子供だからとそれを言い訳にして完全に大人に頼るのは違う気がするのだ。また失敗するかもしれないけれど、それでもできるところまでは自分たちでやってみたい。そもそもが落第点からの開始なのだが……。
「そうですね、俺も行きます。時間は決まってますか?」
後ろに控えていたグレアムを見ると、グレアムが頷いて言葉を引き取ってくれた。
「明日の午前のお茶の時間にとご指定をいただいておりますよ」
「分かりました。俺は一度、王宮に来てご一緒した方が良いですよね?」
「早すぎないか?来られるか?」
「俺の朝は早いですから」
「そうだったな」
笑ったレナードにフレデリックも笑った。むしろ早く来すぎるなと先日、言ったばかりだった。
「王宮からだとリンドグレン侯爵家のタウンハウスまでは馬車で一時間というところか」
「領地じゃなくて良かったですね。今から出てもぜんぜん間に合わないですから」
「本当だな、即座に連れ帰られなくて良かった」
終盤とはいえ今はまだ社交シーズンのうちだ。約二週間後に父の誕生夜会があり、二ヶ月後に建国記念祭があり、それで今年の社交シーズンが完全に終わる。
領地が遠い貴族だと代理を残して最も社交の盛況な春を越えれば…長くとも父の誕生夜会あたりで帰ってしまう家も少なくないのだが、今年は三年に一度の国王主催剣術大会を約一ヶ月後に控えているので残る貴族が多いのだ。
スペンサー侯爵家の領地もそれなりに遠く、馬車で行くとなるとゆうに一週間ほどはかかる。怒って領地に引っ込まれてしまってもおかしくなかった中、本当に良く残ってくれたと思う。
「誠意ってやつを、見せないといけませんね」
「うん。頭を下げ過ぎても駄目だからな…難しいが、僕はやらなければ」
「はい。俺は殿下の行くところならどこへでも行きます」
「ああ」
頷き合って紅茶を飲み、穏やかに微笑むグレアムを見てフレデリックは「あ」となった。
「グレアム、グレアムは来てくれるのだろう?」
あまりにも当たり前すぎて聞くのを忘れていた。フレデリックが慌てて言うと、グレアムがまた「くっ」と口元にこぶしを当て、小さく咳払いをしてからにっこりと笑い頷いた。
「殿下がお出かけになる際は、ご成人なさるまでは基本的にわたくしがご一緒します。来るなと仰られても参りますよ」
「そうか……良かった」
ほっとしてレナードを見るとレナードもほっとした顔でグレアムを見ていた。
「では明日、今日と同じ時間に来てくれ。そのままスペンサー侯爵家へ向かうから服装は…グレアム、どれくらいが良いだろう?」
「侯爵家への正式な訪問ですので、誠意を見せる意味でも準正装がよろしいかと」
「分かった。ではレナード、準正装で頼む。グレアム、メイに一筆頼めるか?」
「承知いたしました。リンドグレン夫人は本日王宮にいらしておりますので後ほど直接お話いたしましょう」
「ああ、頼む。手土産は今から用意できるか?」
「王妃殿下の温室から花と、内宮の焼き菓子をご用意いたしましょう。有名店などで買い求めるよりよろしいかと。それとは別に王妃殿下からの下賜がございますのでそちらもご用意いたします」
「ああ、任せた」
微笑んだグレアムは「承知いたしました」と頷くとポケットから懐中時計を出して時間を確認した。
「そろそろ鍛錬場へ行くお時間でございますが、いかがなさいますか?」
「ああ、行こう。レナードはどうする?見学だけでも来るか?」
「いや、振りますよ?今朝も父に稽古をつけてもらいましたし」
「いやお前、熱が下がったばかりだよな……?」
ふと、以前文官が言っていた『脳筋』という言葉を思い出した。あれ以来彼には会っていないが、あの言葉だけは本当かもしれないとフレデリックは少し遠い目になった。




