52.蕾
朝の庭園は涼しい風が通り抜けて花々の良い香りをあとに残して去っていく。母の庭園は、文字通り見頃だった。
「グレアム、花言葉は分かるか?」
「主要なところは覚えておりますがあまりにも詳細に分かれたものや珍しい花になると少々怪しいところがござますね」
「そうか……どうするか」
「お贈りするのに相応しくない花はお知らせいたしますので、一度殿下の思うとおりにお選びになるのが良いかと」
「そうか、そうするか」
母の庭園は正宮の前庭に比べれば比べ物にならないほど狭いし、正宮の裏、建物に囲まれた庭園に比べてもかなり狭い。けれど所狭しと珍しい植物が植えられ、この国では育たない植物たちが大小三つの温室で育てられている。昨日、母に茶に呼ばれたのは最も小さい温室だ。それでもあの人数で茶ができる程度の空間がある。
「温室の花でも良いのだろうか」
「ひとつの花を取り過ぎない限りは構わないとの仰せです」
「そうか…グレアムはどれが好きだ?」
「わたくしですか?」
ゆっくりと歩くフレデリックの後ろを籠を持ち着いてくるグレアムを振り返ると、グレアムが不思議そうに何度か瞬きをした。
「うん。グレアムにも手紙を書いた。だから添えたい。グレアムの好きな花が良い」
フレデリックが笑うと、グレアムが大きく目を見開いた。
「わたくしには感謝していただくことがございませんよ」
「うん、そう言うと思ったから感謝では無く願いを書いた」
「願いでございますか?」
「ああ。内容はあとで渡すから読んでくれれば良い」
願い…とグレアムが考えるように視線を下へ向けた。
グレアムに感謝したいことなどいくらでもあるのに、きっと感謝だと言ったら受け取らないと思ったのだ。グレアムへの手紙はまだフレデリックの部屋の引き出しにある。封蝋はこっそりと自分で押した。
グレアムはしばらく考えた後、顔を上げた。
「では、蕾を」
「蕾か?」
「ええ、花の種類は問いません。蕾をいただければと」
そう言ってグレアムは笑った。一瞬だけ、泣きそうに顔を歪めたように見えた気がしたが、フレデリックの気のせいだろう。
フレデリックがグレアムに願うのはただ側にいてくれることと、間違えた時は不敬など考えず叱ってくれること。
裏切るなとも、忠誠を誓えとも書かなかったし願わなかった。それは何だか違う気がしたのだ。
「なぜ蕾なんだ?」
フレデリックは首を傾げた。
花ではなく蕾。バラの蕾に花言葉があるのは聞いたことはあるが花の種類は問わないという。
「不敬になるかもしれませんが…申し上げても?」
「構わない、教えてくれ」
頷いたフレデリックをしばらくじっと見つめると、グレアムはふわりと、切なげに笑った。
「蕾が、開くまでの時間を大切にしたいのでございます。咲き急いで散ってしまうことの無いように。咲かずに枯れてしまうことの無いように。咲く前に手折られ踏みにじられることの無いように……蕾の時間を、大切にしていただきたいのでございます。美しく花開くその日まで………蕾を大切に守り抜きたいという、大人のどこまでも身勝手な我儘でございますよ」
「グレアム……」
グレアムが時折フレデリックの向こう側を見ていることには気づいていた。それが誰なのかは分からない。ひとりなのかも分からない。人なのかすら分からない。
グレアムだけではない。父も、母も、叔父も、その周囲の者たちも。皆、時折どこか遠くを見ている時があると気が付いた。そんな時は決まって皆、悲しそうな、切なそうな顔をしている。理由を聞けば誰もが「いつか」「いずれ」と声を揃える。
「グレアム」
「はい、殿下」
フレデリックが呼べばグレアムはいつもと同じ穏やかな笑みを浮かべる。しっかりとその目にはフレデリックが映っている。
フレデリックには大人たちが何に苦しんでいるのかが分からない。まだ聞かれたくないと思っていることだけは分かるから無理に聞きだそうとも思わない。
けれど、フレデリックにだって矜恃がある。矜恃が、できた。
「グレアム。お前に、花は渡さない」
「え?」
「言っておくが、僕は温室の花になるつもりはないし、ただ愛でられるだけの花で終わる気もない」
「殿下?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返すグレアムを、背筋を伸ばし顎を上げ、フレデリックはまっすぐに見上げた。
分かるのは……やっと分かったのは、彼らがフレデリックに元気に育って欲しいと思っていること。フレデリックが自分で思っていたよりもずっと愛されているということ。それと、誰もがフレデリックの未来を信じて楽しみにしてくれているということだ。だから―――。
「待っていて欲しい。いつか必ず大輪の花を贈ると約束しよう。必ず咲かせて見せると約束する。だから、どうかそれまでしっかり見守って欲しい。蕾で、終わってしまわないように…」
情けないフレデリックはまだ自分では咲けない。いや、きっと死ぬまで自分の力だけで咲く日は来ないだろう。愚かなフレデリックはひとりではきっと蕾のまま枯れてしまう。
けれどフレデリックにはグレアムがいる。父が、母が、叔父が…見守り、育んでくれる者たちがいる。共に歩もうとしてくれる者たちがいる。これからもきっと増えていくはずだ。
必ず、いつか大きく咲ける日は来る。咲いてみせる。まだまだ細やかな…やっと芽生えたばかりのフレデリックの小さな矜持に掛けて。
そうしてその花をこそ、フレデリックは贈りたいと思う。
今の未熟な子供でしかないフレデリックがグレアムに渡せるものがあるとすれば、それはきっと未来への希望と約束だけだ。
「殿下……」
「あっ、手紙は渡すぞ。切ってしまったらちゃんと咲くか分からない蕾を渡したくなかっただけだ。いつか絶対に綺麗に咲いた花を贈るからな!」
「はい、殿下。その日を…楽しみにお待ち申し上げておりますよ」
「ああ、約束だ」
本当に楽しみです、とグレアムは笑った。微笑みではなく、今までフレデリックが見た中で一番嬉しそうに、楽しそうに笑った。
グレアムがそんな風に笑ってくれたことが嬉しくてフレデリックも笑った。
「よし、じゃあ花を摘もう!早く送らないとな」
「承知いたしました。参りましょう」
庭園に出た時よりも少しだけ高くなった太陽が花々を照らす。今日もずいぶんと暑くなりそうだ、花の負担を減らすためにも急いで摘まねばならないだろう。
「グレアム、これは何だ?」
「ボール咲きのダリアでございますよ。よく見るものよりずいぶん大きいですが」
「そうか…これはさすがに大きすぎるか?」
「色々ございますから、他も見てからお決めになるとよろしいでしょう」
「そうだな、選びきれるか不安になって来たな…」
思ったよりも時間は掛かってしまったが、フレデリックは汗ばみながらも午前の茶の時間までには何とか花を選び切り、無事に全てを使者に託すことができた。




