45.同志
かちりと音がした気がしてフレデリックは音の方を振り返った。
「あ…!」
温室の入り口から入って来るその人を見た瞬間、フレデリックは椅子から飛び降り気が付けば駆けだしていた。
「グレアム!!!」
少し驚いたように黒の目を見開くとグレアムはいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、飛びついたフレデリックを危なげなくそっと抱き留め頭を撫でてくれた。
「おはようございます、殿下。よく眠れましたか?」
問い掛けてくれる声はいつもの低く優しい声だ。漏れそうになる嗚咽を何とか飲みこみ、フレデリックはこくこくと、グレアムに抱き着いたまま何度も何度も頷いた。
「もう昼が近いぞグレアム……」
ぐりぐりと頭を擦り付けつつそう言えば、グレアムが頭上で笑った気配がした。
「左様でございましたね、遅くなりまして申し訳ございません」
「良い。来てくれて嬉しい」
本当は涙が飲みこみ切れずに少しこぼれてしまったので嫌だったのだが、そっと肩を押されたのでフレデリックは素直に離れた。グレアムはその場に膝をつき、フレデリックと視線を合わせるとフレデリックの目元に親指で触れて言った。
「お加減はいかがですか?痛みは?」
「無い……は嘘だな、少し痛い。でも平気だ。レナードとアイザックが守ってくれた」
「はい、ご無事で何よりでございました」
「うん……グレアムも、何もなくて良かった」
私は何もございませんよと笑うと、グレアムは立ち上がり母たちの座るテーブルへと深く一礼した。
「グレアム・ブライがご挨拶申し上げます」
ここがどういう場であったかをすっかりと忘れていたフレデリックは慌てて母たちを振り向いた。思わず抱き着いてしまったが、グレアムが咎めを受けたりはしないだろうか。
「来たわねグレアム、待ってたわ」
母はそう言うとにっこりと笑い、こちらへ来いとグレアムへ手招きをした。フレデリックがグレアムを見上げると、まるで何でもないようにグレアムはにこりと微笑みフレデリックの背を軽く押して促した。
フレデリックが後ろを気にしつつ母の方へと歩みを進めると後ろからグレアムが着いてくる。その後ろで、少し前に出て行ったリビーがにこにこと笑っていた。きっとリビーがグレアムを呼びに行ってくれたのだろう。
テーブルにつくと、グレアムがフレデリックの椅子を引いてくれた。フレデリックとしてはグレアムの隣に居たかったのだが「殿下」と静かに言われてしぶしぶと座った。それでも不安でフレデリックがとっさにグレアムのジャケットの裾を掴むと母がふふふと声を上げて笑った。
「まったく、妬けるわね?」
「だな。だが俺の目に狂いはなかっただろ?」
「少し行き過ぎではない?」
「いや、これくらいでフレッドにはちょうど良いだろ」
また頬杖をついて笑う母に叔父が椅子の背もたれに寄りかかり腕を組んで笑った。ふと、気づいてフレデリックはグレアムを見た。
「グレアム。前に言っていたグレアムを僕の侍従に選んだ方というのは…」
「ええ、レ…ライオネル殿下でいらっしゃいますよ」
「そうなのか……」
フレデリックが叔父を振り向くと、叔父はにっと、悪戯が成功したように笑った。
「はい。『お前くらいクソ真面目で甘ったるくて子供好きなくらいがちょうど良い』との仰せでしたよ」
「ちょっとレオ、言い方が酷いわよ」
「噓は言ってねえだろ?」
眉をひそめた母に叔父は悪びれもせずに堂々と言い切った。そうして叔父とグレアムは目を合わせると、叔父は楽しそうに、グレアムは少し困ったように、ふたりとも同時ににっと口角を上げた。
「学園で一緒だったとは聞きましたが、グレアムと叔父上は、本当に仲良しなのですね」
「そうだな。まあ、学園の前から従兄殿とは良く会ってたからなぁ」
「そうですね、色々巻き込んでいただきましたね。お陰で丸くなりました」
「え?」
フレデリックがぱっとグレアムを見上げると、グレアムがふっと、また何かを思い出すように笑い口元にこぶしを当てた。
「陛下とライオネル殿下が王家の谷へ行った時の供には私もいましたよ」
「え!じゃあ、叔父上が暴食蛙に吞まれたのも見たのか!?」
「ええ、見ておりましたよ。あれ以来、大嫌いだった剣の稽古がはかどるようになりました」
「そうなのか……だからグレアムは僕らの計画に気づいたんだな」
「それもございますね。殿下がなさりそうなことは陛下とライオネル殿下のお陰でだいたい想像が付きますので」
「悔しいけどフレッドの侍従には間違いのない適任よね、グレアムが」
性格的にも、と母がまた呆れたように笑った。
「母上も、グレアムとは親しいのですか?」
「親しいというか…ダレルたちもそうなのだけど、ウィルの暴走を止めて王家を守る同志…かしらね、言うなれば」
「父上………」
「うん、感謝してるよ…」
へにゃりと眉を下げた父に、フレデリックもへにゃりと眉を下げた。
叔父の言っていたことがフレデリックにもやっと何となく理解できた。王は孤独だけどひとりじゃない、何とかしてやろうってやつが必ずひとりは側にいる。
王は王になることしか選べない。王という存在はこの国にいつもひとりだ。誰かとその役割や思いを共有することはできないけれど、今ここで笑っているのは父の治世を『何とかしてやろう』と力を尽くしてくれている人たちだ。いつか来るフレデリックの治世のためにフレデリックにも力を貸してくれる人たちだ。
「父上、僕たちはとても幸せなんですね」
話に花を咲かせる母たちを眺めながらフレデリックがぽつりと言うと、父が嬉しそうに微笑んだ。
「そうだね、フレッド。僕は『それ』を理解するのが本当に…情けないほどとても遅かったんだ。君はもう、気付くことができたんだね」
そっとフレデリックの頭に父の手が乗せられた。おずおずと、とても遠慮がちな手だ。
「僕らを守ってくれる、僕らが守るべき人たちなんですね」
きっと守られているだけでは駄目だ。ただ頼るだけでは駄目だ。普段は後ろで守られていても、いざとなれば全ての前に立ち守る覚悟が要る。それがきっと、王位という権力の正しい使い方だ。
父は…いや、きっとフレデリックも我慢できずにすぐに飛び出してしまうけれど、それはきっと呆れた顔をしながらも支えてくれる人たちが止めてくれる。それはきっとひとつも当たり前では無くて、本当はとても難しいことだ。
そんな人たちを得られた父は幸せな王だし、フレデリックも幸せな王子だ。いつかフレデリックが父の跡を継ぎ、王になる。
細やかな覚悟と確信を持って隣を見上げれば、父がとても優しい目でフレデリックを見つめていた。
「君はきっと、良い王になる。どうか今の気持ちを忘れないでね」
「はい、父上」
フレデリックがしっかりと頷くと、後ろでぱちん!と手を叩く音がした。
「さあ、お説教と茶会はおしまいよ。全員、仕事!きりきり働いて遅れた分と増やした分、しっかり取り戻してちょうだい!!」
母のひと声を合図に「へえへえ」「『はい』ですよ、レオ。ほら、行きますよ」「陛下、参りましょう」「う…すぐ?」「当然です」とそれぞれの側近たちがそれぞれの主をほんの少し不敬気味に促し始める。本当に侮っているのではなく、これがそれぞれの在り方なのだろう。
「あの!!」
フレデリックは椅子から降りると大きな声を上げた。温室の入り口に向かおうとしていた面々がぴたりと立ち止まってフレデリックを振り返った。
「あの……ありがとう、ございました。これからも、よろしくお願いします!」
我ながら幼いなとフレデリックは思った。もっと他に言えることは無かったのだろうか。
けれどきっとここにいる者たちなら決して笑うことも侮ることも無い。フレデリックは子供で、だから子供らしくて良いのだと…きっとそう思ってくれる。信じられる。
「うん、大丈夫だよフレッド。またね」
「頑張れよフレッド。またな」
父と叔父はあまり似ていない顔に同じような笑顔を浮かべて手を振り温室を出て行った。側近たちも優しい笑顔でフレデリックに一礼すると後に続く。これまで焼き菓子を食べる以外気配を消していたジェサイアさえも口角をはっきりと上げていた。
「母上」
父たちを見送ると、フレデリックはその様子を座ったまま眺めていた母を振り向いた。
「なあに?フレッド」
「母上、早速ですがお願いがあるのです」
まるで必ずフレデリックが声をかけると分かっていたように、母はフレデリックを見てにんまりと笑った。




