39.ぎりぎり
どうした?とフレデリックを見た叔父を、フレデリックは眉を下げて見上げた。
「叔父上、ぎりぎり……ですか?」
「おう、ぎりぎりだな」
叔父のぎりぎりが分からない。そういえば先ほど叔父は生命や欠損の危機がない限りと言っていた。
「僕、死ぬかと……」
銀大蛇が大きく口を開けたとき、フレデリックは本当に覚悟をしたのだ。呑まれる寸前は叔父にとってはぎりぎりの範疇なのだろうか。
「死なねえよ。あの銀大蛇は最初は見慣れない形とにおいのお前らに興味を示してただけだ。すぐに食う気は無かったよ。ただあそこまで怒らせちまうと逃げても追って来た上に威嚇で終わらず攻撃される可能性が高かったからな、陛下もいたし、殺すしかなかった」
叔父の声に影が差した気がしてじっと叔父を見つめると、叔父がフレデリックを見て曖昧に微笑んだ。
銀大蛇の亡骸の前で跪き、額に手を添え祈るように頭を垂れた叔父の姿を思い出し、レナードの言葉を思い出し、そしてフレデリックは気が付いた。
「あ」
「お?」
「僕のせい、なんですね、それも……」
「ん?」
フレデリックが呆然と呟くと、叔父が不思議そうに首を傾げた。
「僕が彼の住処に立ち入ったから彼は攻撃するしか無くて……僕がむやみに立ち入らなければ彼が死ぬことも、叔父上が殺さなきゃいけないことも無かった……」
レナードは言っていた。フレデリックたちが森に邪魔をしている側だと。巣穴に近づかなければ問題ないと。
小さく唇を噛みしめたフレデリックを見て、叔父がしまった、という顔で首の後ろを撫でた。
「あー…彼女な、一応」
観念したようにため息を吐くと、叔父は肩を竦めた。
「叔父上は蛇の性別も分かるのですか!?」
「いや、この時期は銀大蛇の繁殖期なんだよ。繁殖期の雄は絶食する。逆に雌は子を産むために山ほど食うんだ。銀大蛇からすればあの蛙池は安全に労せず栄養満点の食事ができる良い食堂みたいなもんなんだよ」
「食堂……」
「ああ。繁殖期の雌も気が荒い。銀大蛇は大人しいし気弱だから本来ならちょっと脅せば逃げ去るんだが…あいつはでかかったし時期も悪かったしで、戦うことを選んじまったんだろうなぁ」
そういうとまた首の後ろを撫で、叔父は困ったように笑った。
つまり、フレデリックたちが王家の谷に行かなければ…行ったとしても別の時期であったなら銀大蛇には出会わなかったかもしれないし、出会っても銀大蛇は逃げてくれたかもしれなかった。あまりにも、お互いにとって間の悪い日だったということか。
ぴたりと動きを止め、森を見て怯えるように身を低くした銀大蛇を思い出す。そういえばあの時の銀大蛇は間違いなくフレデリックたちから意識が逸れていた。
「脅し………もしかしてあの蛇が森を気にしていたのは?」
「俺とジェサイアが殺気飛ばしたからだな」
「殺気………」
フレデリックは何も感じなかった。フレデリックが鈍いのか、それとも叔父とジェサイアが上手く蛇にだけ殺気を飛ばしたのか。フレデリックには殺気というものがよく分からないがどちらにしろ、間違いなく銀大蛇は怯み意識が逸れていた。
「じゃあもし、あのとき僕らが刺激せず逃げていれば…?」
「あの時点で逃げてりゃ何もなかっただろうけどな。俺もそのつもりで動いたし。そもそも、でかかろうと何だろうと銀大蛇があそこまで寄ってくることが普通は無いんだよ。まぁお前ら、暴食蛙の粘液のせいでにおいが蛙まじりになってたからな……」
「えっと、つまり?」
「蛇ってのは目が悪いんだよ。じっとしてたら見つからないくらいにな。お前らは蛙のにおいがするのに動きが違うしにおいも完全に蛙じゃねえから銀大蛇も興味を示したんだろうな。あれで万が一食えると判断されてたらそのまま呑まれたんだろうな、蛙として」
「か、蛙として……」
視力の悪い銀大蛇にはフレデリックたちがひょろっとした暴食蛙に見えていたということだろうか。それはそれで、餌になる以前にフレデリックとしては何かが嫌だ。
顔を引きつらせたフレデリックに、叔父がにっと笑った。
「おう。しかも蛙とお前らは味が違う。飲みこめば蛙とにおいが明確に違うことも分かっただろうな。万が一お前らが食われてたらあの銀大蛇は人間のにおいを餌として覚えたはずだ。そうなれば話がもっと大きくなる。銀大蛇の十メートル級以上は甚大な家畜被害を起こしかねないから森の外に出た場合は第二級討伐対象、繁殖期の雌は第一級討伐対象だ。人の味を覚えた三十メートル級なんざ、特級討伐対象だろうな。鱗が硬くて剣は通らないわ動きが速くて捕えにくいわ、万が一巻きつかれて締められなんてしたらあっさり骨が砕けるわ…ある種の災害だな」
楽し気に話す叔父にフレデリックはぞっとした。それはつまり、フレデリックたちが巻きつかれて骨を砕かれる未来もあったということだ、餌だと判断されれば。
それに意識がどこかへ向いていたせいかあまり動いていなかったとはいえ、剣が通らないほど硬い鱗を持つ銀大蛇を叔父たちはどう倒したのだろう。しかも三十メートルの。
「え?三十メートル級………?」
「あの銀大蛇な、伸ばすと二十六メートルあったらしい。通常よく見るのは大きいやつでも十五メートル程度なんだが、あそこは餌が豊富だからなぁ……」
二十六メートル。フレデリックにはその長さが全く想像ができない。どれくらいの大きさなのだろう。頭だけで言えばだいたいふた口ほどでフレデリックを呑めそうな大きさであったように思えた。口を大きく開けたときはひと口でも呑まれそうではあった気がする。
フレデリックが腕を組み考えていると、ため息とともに母が声を上げた。
「ちょっと、そこまでよ」
「お」
「あ」
叔父が母に報告していた途中だったことに気づき、フレデリックは「失礼しました」と小さく呟いた。叔父がまた首の後ろを撫でると背筋を伸ばし、後ろ手に手を組んだ。
「命の危険の無い限りぎりぎりまで待ったのは分かったけれど、どう考えてもこれは命の危険がある状態だったでしょう。どうしてリンドグレン令息が立ち向かって怪我をするに至ったのかしら?」
またも凛々しい表情に戻っていた叔父の表情が途端に崩れた。「あー、それは……」と、また言葉を探すように視線が泳いでいる。
「僕だよ、セシリア」
案の定というか、父がまたしょんぼりと肩を落とした。
「ウィル……今度は何をしたのかしら……?」
母も予測はしていたのだろう。小さくため息を吐くと父の方を見た。母の表情が微笑であることが恐ろしい。
「殺気を放っても蛇が逃げない時点でレオが出ようとしたんだけどね、僕が暴食蛙を見て混乱していて………出ようとしたレオに思わず飛びついたんだよね」
「………それで?」
「ちょうどぶつかった位置が悪かったみたいでレオがそのままつんのめってジェサイア君にぶつかって。ジェサイア君も僕らに巻き込まれて体制を崩してしまって。折悪くベンジャミン君は念のためにってクロスボウの準備をしていて。僕が慌てて離れて転がった先に裏から蛙を追い掛けてきた蛇がもう一匹が来てて。その蛇が僕が近くに転がったのに驚いて襲ってきたからジャック君がとっさに僕を庇って……ちょうどその時だったんだよね、大蛇が口を開けたのが……」
つまり、叔父としては銀大蛇がフレデリックたちに完全に近づく前に対処しようとしていたということだ。叔父のぎりぎりは正しく、フレデリックたちが安全でいられるぎりぎりだった。
フレデリックはほっとすると共に、何とも言えない気持ちになった。あの恐ろしい思いはいったい何だったのか。
「ウィル…………」
「うん、完全に僕のせい、かな………」
母が感情を抑えた声で父を呼び、頭痛がするのかこめかみを揉んでいる。母はもっと、常に冷静で感情を表に出さず微笑みを浮かべている人かと思っていたがそうでは無いらしい。
そういえば昨日、叔父が夫だったら母は歩く国法のようになっていたと言っていたが、そうならなかったのは父がこうして困らせて母の感情を動かすからなのかもしれない。
更に小さく肩を丸めた父を見る。フレデリックには良かったというべきかどうか分からないが、きっと良かったのだと信じる方が幸せに暮らせそうだとフレデリックはぼんやりと思った。




