34.名を知る
少しだけ、眠りについたのはいつもより遅かったと思う。それでもいつもより少し早い時間に起きたのはきっと心にあった色々なものがすっきりしたせいなのだろう。
散々叔父に甘えたのは恥ずかしいが、フレデリックの中の何かが上手くは言えないがしっかりとした重さを持った気がする。
「おはようございます。ご起床のお時間でございます」
そう言って部屋へ入ってきたのはメイではない王妃宮付きの、昨夜と同じ侍女だった。メイはフレデリックの願い通り休みを取ってくれたのだろう。
「ああ、おはよう」
すでに起きていたフレデリックが頷くと、侍女が目元を柔らかくした。
「お早いお目覚めでございましたね、殿下。よくお休みになられましたか?」
そう言いながらフレデリックに朝の茶を渡し、カーテンを大きく開くと洗面用のたらいに水を張りテーブルに置いた。今日も良い天気のようだ。
「ああ、とても頭がすっきりとしている」
「それはよろしゅうございました」
昨日の騒動はこの侍女も知っているだろうに何も言わない。いつも通り淡々と朝の準備をこなしていく。けれどその目だけは常にフレデリックへ向けられ、フレデリックの様子をうかがっている。フレデリックが茶を飲み終わればすぐにフレデリックの元へ来てカップを受け取り、寝台から降りるのを手伝ってくれた。
そのまま洗面用のたらいへと導かれ、顔を洗えばすぐに布を渡してくれる。顔と手を拭けばすぐに布が回収され、たらいもワゴンへと下げられた。
「僕がやってもいいだろうか?」
フレデリックの寝間着を脱がそうと手を差し伸べた侍女に、フレデリックは言ってみた。
王族が自分で脱ぎ着するなどはしたない、そう言われるかと思ったが侍女は少し目を丸くした後口角を上げて「もちろんでございます」と微笑んだ。
「何かございましたらお声がけくださいませ」
すっと一歩下がった侍女に「ああ」と答え、フレデリックは寝間着の上を脱いだ。脱いで放ろうかと思ったが、ふと思い立って叔父が昨夜やっていたように見様見真似で畳んでみた。やはり叔父のように綺麗にはならずくしゃりと歪んでしまったがそれを寝台に置くと、叔父が綺麗に結んでくれた紐をほどいてズボンもフレデリックなりに畳んで寝台に置いた。
「まだ着ることはできそうにないんだ、頼む」
これ以上時間をかけると朝食の時間に遅れてしまうかもしれない。今日は叔父と約束をした大切な日だ。フレデリックは着る方の練習は明日からにすることに決め、今日のところは侍女に頼むことにした。
「承知いたしました」
それまで黙って見守ってくれていた侍女が微笑み頷いて手早くフレデリックの着衣を整えていく。
そういえば離宮に宿泊した時は軽装だったとはいえレナードがフレデリックとアイザックの朝の着替えを手伝ってくれた。レナードはきっと全て自分でできるのだろう。次にまたどこかへ三人で行く機会を貰えたならば、今度こそフレデリックは全て自分でやってみたいと思う。
着替えが終わり侍女がフレデリックの周りをぐるりと回って乱れが無いか確認し、姿見の前へと誘った。フレデリックも姿見を確認し「ああ」と頷いた。
時計を見れば食堂に向かうのに少し早いくらいの時間だ。いつもは脇目もふらずただ真っ直ぐに前だけを見て食堂へ向かうが、たまにはゆっくりと歩いていくのも良いかもしれない。
「少し早いが行こう」
「承知いたしました」
扉を出れば扉の左右を守る騎士が「おはようございます」と一礼した。フレデリックも「ああ、おはよう」と頷き、彼らの顔を見た。第一騎士団の白い制服を着ているがジャックとケネスでは無いことに少しの寂しさと落胆を覚える。
彼らとはキイチゴの茂みの前から会えていない。まだ丸一日も経っていないはずだがもう長いこと会えていないような、そんな不思議な感覚になる。今までは護衛の騎士など気にもならなかったのに。
数歩先でフレデリックを待っている侍女の後ろに付き、廊下を食堂へと歩いていく。廊下の角を曲がったところでフレデリックは侍女に「待て」と声を掛けた。
「何かございましたか?」
「ああ、少しだけ」
角からそっと廊下を伺うと、ワゴンを押したお仕着せのメイドがふたり、騎士に頭を下げるとフレデリックの部屋へと入って行った。
「何かあやしいものでも?」
いぶかし気にその様子を見ていた侍女に、フレデリックは苦笑して首を横に振った。
「いや、違うんだ。僕がどれだけ色々な人に支えらえれているのか、この目でちゃんと見てみたくなった」
フレデリックがそう言うと侍女がぱちくりと目を瞬かせ、そうしてふっと、フレデリックが初めて見るくらい口角を上げて笑った。
「左様でございましたか」
そう言って頷くと、彼女たちは掃除メイドでフレデリックが朝食を食べている間に掃除と朝の道具の片付け、寝具の交換をしてくれるのだと教えてくれた。
掃除メイドたちが回収をした寝具と寝間着は彼女たちが洗濯室にいる洗濯メイドの元へ運び、洗濯メイドが綺麗に洗い、寝間着は侍女が回収し寝具はまた使う時まで保管室で保管されるらしい。
フレデリックは掃除と洗濯に重曹が使われることがあると知っていても、誰がどこでどう使っているのかまでは知らなかった。改めて、見えない場所で多くの者が働いてくれるのだと思い知る。
「そうか……僕はやはり、多くのことを知らないな」
フレデリックが唇を引き結ぶと、共に居た侍女が「いいえ」と首を横に振った。
「僭越ながら申し上げます。多くの貴族が自分たちが誰にどう支えられているのかを知らぬまま日々を過ごし生涯を終えます。下の者の顔や職務など知らずとも生きていけますし、知ろうと思う方の方が稀でございます」
「そうか……いや、そうなのだろうな」
フレデリックも今まで一度も気にしたことが無かった。メイやグレアムのような専属であれば紹介もされるし名も顔も覚えるが、そうでなければこの王妃宮に勤める者ですらそのほとんどを知らない。顔が分かる者も名を知らぬ者が多い。それでもフレデリックの毎日は何不自由なく回っていく。
「それでも僕は、やはり知りたいと思うな」
全てを知ることはできないだろう。この国の全ての国民の顔と名前など覚えられるわけもない。全ての職業について細かなところまでフレデリックが知ることなど不可能だ。
けれど、知らなければ困ったときに手を差し伸べることも過ちを犯した時に罰することもできない、
だからこそ、フレデリックの代わりに見てくれる人が必要で。フレデリックに教えてくれる近しい者が必要で。もっと細かく見るためにはさらにその近しい者の目になる者たちが必要で。更にその目になる者たちが必要で……。
「そうか、だから信頼できる側近が…官吏や騎士、領主や代官が必要なのか……」
そうして彼らにもまた、彼らが信じる目になる者が必要になる。
フレデリックが選んで信じる彼らが選んだのなら、その先にある者たちもまた同様にフレデリックの目になるのだ。
だから自分を信じて選んで、選んだら相手を信じるのか。信じて、任せて……裏切られるかもしれないが、その時はまた、自分を信じて選ぶ。きっとフレデリックがやるべきはその繰り返しなのだ。それだけでは、絶対に無いだろうけれど。
ほんの少しだけ叔父に近づけた気がしてフレデリックは嬉しくなった。ふと顔を上げると侍女が静かに、けれど柔らかく微笑んで側に控えている。
「そうだ、すまないが君の名を教えてくれるか」
フレデリックにはほとんどメイが付いている。だがメイにも当然休みが必要で、そういう時は王妃宮付きの侍女がフレデリックに付くのだが最近よく見るのがこの侍女だ。フレデリックはこれまでどの侍女の名も知らなかった。
「ブロードリック伯爵家が三女、アメリアにございます、殿下」
「そうか、アメリアか」
静かに頭を下げたアメリアにフレデリックは頷いた。
今まで聞かずに悪かったと謝るのもおかしいし、かと言って気づいてしまった今何も言わないのも何とも落ち着かない。
少し考えて、フレデリックは何も言わないことにした。きっとフレデリックが感謝をしても謝罪をしても困らせる。ならばこれからは名を呼ぶことで示せばいい。
「行こう、アメリア」
「承知いたしました、殿下」
アメリアはにこりと微笑むと食堂へ向かって歩き出した。フレデリックも後に続く。
ただの顔の動きであったアメリアの微笑みは、名を知ったとたんに温度を持った親しみへと姿を変えたようにフレデリックには思えた。




