29.ジェサイアとベンジャミン、それとハリエット
ブローチについては『王妃付き侍女と国王付き侍従の恋文とその顛末について』25話に。
ぱたり、と扉が閉まると廊下の反対側の壁にハリエットが控えていた。フレデリックと目が合うとふわりと優しく微笑んでくれる。
「ハリエット、あとは頼むな」
叔父がハリエットに頷くとくしゃりとフレデリックの頭を撫でた。「承知しました」と軽くカーテシーをするとハリエットが「王子殿下」と手を差し伸べてくれた。
決してその手が嫌だったわけでは無い。ハリエットの優しい瞳も、穏やかな空気も、フレデリックにとってとても心地良い。クリスティーナがハリエットに縋って泣き疲れて眠ってしまったのも良く分かるほどに。
けれどフレデリックは嫌だと思った。このままでは叔父が行ってしまう―――。
「叔父上、疲れました!」
思わずフレデリックは声を上げていた。叔父の服の裾をぎゅっと掴み、フレデリックよりも遥かに高い場所にある叔父の顔を必死で見つめた。
言いたいことがあるなら言えと叔父は言った。嫌なら、言えと言った。けれども、良い子であろうと…良い王子であろうとしてきたフレデリックにはそれはとても難しい。
だから、フレデリックの精いっぱい。言えない我儘の代わりとばかりに、フレデリックは両腕を伸ばした。叔父に向かって、真っ直ぐに。
「叔父上…その…疲れました……」
両手を上げたまま目を泳がせるフレデリックにぴたり、と叔父とハリエットが固まった。目を瞬かせるとちらりとお互いに視線を交わし、そしてどちらからともなく笑いあった。
「ふふふ…こちらは任されますね」
「ああ、悪い。そっちを任せるわ」
ひょいと、また叔父がフレデリックを抱き上げた。そうして左腕に座らせるとちらりと後ろを…扉の左側を振り返った。
「今日はもう休め。明日もいつも通りで良い」
何のことかとフレデリックがそちらを見ると、そこには先に出たはずのベンジャミンとジェサイアが気配なく静かに控えていた。ハリエットといいこのふたりといい、良い側近というのは気配を消すものなのだろうか。
「承知」
「朝食はどちらに用意します?」
ジェサイアは頷き静かに腰を折り、ベンジャミンは口元に笑みを浮かべつつ聞いた。「いつも通りで良いって言ってんだろうが」と笑いながら言った叔父に「はいはい、一応ね?」とベンジャミンも笑った。そんなふたりをジェサイアは微かに口角を上げて見守っている。
全く違う側近ふたりなのに、不思議と叔父との距離に違いを感じない。そういえば、叔父の他の側近もとても個性的でそれぞれが大きく違うのに、目の前のふたりと同じように気安く見えた。
その様子がフレデリックには叔父が軽んじられているように見えていたが実際には全く違う。叔父は間違いなく彼らの主であり、彼らは間違いなく叔父を主君として慕っている。信頼があるからこその気安さなのだと、そう、フレデリックには思えるようになった。
「…オルムステッド卿、フェネリー卿」
叔父の首筋に縋りつき、叔父に甘えている気恥しさからフレデリックはそっと視線だけを叔父の側近へと向けると、ふたりがフレデリックを見て「はい」と頷いた。
「ありがとう…ごめんなさい」
フレデリックが叔父の肩口に顔を埋めたままもごもごと言うと、ぱちくりと目を瞬かせてベンジャミンが困ったように笑った。
「どうぞベンジャミンと。そこは殿下の叔父上のようにふんぞり返って『悪かったな!』で良いのですよ。王族がむやみに礼や謝罪をしてはなりません………ですが、確かに受け取りましたよ」
ふわりと、ベンジャミンの笑みが優しいものに変わった。
ジェサイアも頷き、そうして目を細めて「ジェサイアです」と言った。微かな表情の変化だが、そこに込められた親しみと温もりが今のフレデリックなら分かる。もう何を考えているのか分からない、恐ろしい、などとは思わない。
「おい、そんなこと言わせたら俺がセシリアに怒られるだろうが」
「だったらもう少し公では言葉を選んではいかがです」
「選んでるだろう!一応!」
「不足なんですよ、もう少し王子殿下を見習ったらいかがです」
ねぇ?とフレデリックに小首をかしげるベンジャミンが面白くてフレデリックも思わず笑った。ふと振り返ると、ハリエットもにこにこと楽しそうに笑っていた。
「ハリエットも…ありがとう」
「いいえ……良く、頑張られましたね」
何を、とは言わない。けれども心からねぎらってくれていることの分かる温かい声と笑みだった。
派手な赤毛の印象と完璧な淑女の噂で貴族らしく高慢で気の強い、礼儀に厳しい人だとばかり思っていた。ちゃんと目を合わせればこんなにも優しく笑ってくれる人だったのに。フレデリックはどうしようもなく泣きたくなった。
「さて、と。邪魔になる前に行くか!」
会話の切れ目で叔父がぽんぽんとフレデリックの頭を撫でた。「そうですね」と頷く側近たちに「明日だな」と笑うと、叔父はふとハリエットを振り返った。
「そういやそれ、似合ってるぞ」
とんとん、と叔父は自分の首元を叩いた。ちらりとハリエットの首元を見ると、緑と赤の四つ葉のクローバーのブローチが光っている。
「ありがとうございます……式には呼んで良いのよね?ライ」
「当たり前だろ、呼ばないと雨降らせるぞ」
「呼ぶから必ず晴れにしてね」
ライ。
とても親し気な呼び名にフレデリックは目をぱちぱちと瞬かせた。にやりと笑う叔父―――ライオネルに、ハリエットは口を開けて楽しそうに笑っている。ああ、これがハリエットの本当の笑顔なのだなと、フレデリックは小さく感動した。
淑女らしい微笑みこそが美しいのだと思っていたがそれもまた違う。時と場合は選ぶ必要があるけれど、その人らしい笑顔こそが何よりも美しいのだ。
フレデリックは何もかも間違ってばかりだった。今知ることができて本当に良かったとフレデリックは思う。きっとまだ、間に合うはずだ。脳裏に口を大きく開けて笑った少女の顔が浮かぶ。
「じゃぁな、任せたぞ」
「ええ、任されました」
きゅとこぶしを握るとハリエットはまた明るく笑い、手を振り去って行った。完璧な淑女…世の理想とされるそれと今去って行くハリエットは全くもって違う。けれど、間違いなくハリエットはそうなのだとフレデリックは心から思えた。
「ではレオ、私たちも下がりますよ」
「ああ、遅くまで悪かったな…っと、あー……。明日も…悪いな」
「今更ですよ、叱られるときは一緒だと約束してるでしょうに」
「はは……全く、お前らは本当に面白いよ」
呆れたように「当たり前だ」と笑うベンジャミンに、ジェサイアが目を閉じ同調するように静かに頷く。「それでは殿下、おやすみなさいませ」とふたりはフレデリックに丁寧に腰を折り去って行った。
「俺には無いのかよ…」
ぽつりと呟く叔父に、フレデリックはまたこらえきれずに笑った。




