28.父と母
ティーカップについては『王妃付き侍女と国王付き侍従の恋文とその顛末について』第9話と第11話に。
ひと通り食べ終わるとテーブルを所狭しと占領していた盆や皿が全て下げられ、それぞれの前にまた茶のカップが置かれた。下げられるワゴンと入れ替わりで赤毛のハリエットが別のワゴンを押して戻っており、いつの間にか音も気配も無く茶の準備をしていたらしい。
「あ……蛙?」
少しとろみを感じるような黄金色の透き通る液体の入ったティーカップ。美しい大輪の花が描き出されたカップの持ち手には何と小さな蛙が付いていた。ぎょっとして取り落としそうになるもフレデリックは何とか耐えた。
「そうよ、今年のレオミンスターの新作。お気に入りよ」
よく見れば母が先ほどから飲んでいるお茶のカップにも蛙が居る。割ったら分かるわよね?とにっこりと笑む母の笑顔が怖い。ならばこの場に出さねばいいのに…というのは決して口に出してはいけないことなのだろう。
隣を見れば父の手が震えカタカタとカップを鳴らしている。今日の今日のこともあるし、フレデリックも元々蛙はあまり得意ではないが父は恐怖しているとすら言えるほど蛙が嫌いなのだ。
それでも今日、暴食蛙まみれの場所に来て自分を迷わず庇い抱きしめてくれたことをフレデリックはきっと生涯忘れることは無いだろう。
「お取替えいたしますか?」
いつの間にか隣にハリエットが控えていた。派手な赤い髪にばかり目が行っていたが、膝をつき目線を合わせてくれるハリエットの青灰の目はとても澄んでおり優しい。声も女性としては少し低いだろうか、穏やかで、とても心地の良い声だった。
「いや、このままでいい」
フレデリックが軽く首を横に振ると「承知しました」と頭を下げ音も無く母の後ろへ下がっていく。母の侍女は皆完璧な淑女だと聞いていたが、なるほど気配すら操るのかとフレデリックは感心した。
意を決してハリエットの淹れてくれた茶をひとくちすする。林檎のような甘い香りの中にほんのりとレモンのような爽やかさと微かな苦みを感じる。蜂蜜が入っているようで口に入れるととろりと甘い。思わずほぅ、とため息が漏れた。
「甘いな………」
父が呟いた。見ると、震えながらも蛙のカップでそのまま茶を飲んだらしい。フレデリックが驚いて目を見開くと、その視線に気が付いた父がへにゃり、と情けなく眉を下げ顔をくしゃりと崩して笑った。
全員が茶を飲み終わったのを見届けると「さて」と母がまた上座で腕を組み仁王立ちをした。座っていた面々はまるで号令がかかったかのように同時にぴしりと背を伸ばし座り直した。
「治療の報告は受けているけれど…全員、その後痛みや体調不良は出ていないかしら?」
父が「無いよ」と答え、叔父が「なんにも」と言った。フレデリックもふるふると首を横に振り、叔父の側近ふたりは黙って目礼をした。
「そう…なら良いわ…。あなたたち、全員今すぐ寝なさい」
「ええ!?」
フレデリックが思わず大きな声を上げた。前のめりになったせいでテーブルにぶつかり、カップががちゃりと音を立てた。ちらりと応接室に置かれた立派なホールクロックを見れば、すでに普段フレデリックが寝る時間の一時間前になっていた。
「あの…お説教…は…?」
フレデリックは覚悟をしてきたのだ。全ては自分が悪いのだと。大切な友だちは自分の我がままを飲んでくれただけで、父と叔父は自分たちを守ってくれただけなのだと。そう、母に告げねばならぬと…自分なりに、責任を取るつもりで来たのだ。なのに。
「お黙りなさい、フレデリック。治療も済んで、体も綺麗にして、お腹も満たして。そうしたらあとは寝るだけよ。全てはそれから。さっさと寝なさい!」
母がじろりと自分を高い位置から睨みつける。美人が真剣に怒ると怖いのだ。叔父の真顔も本当に怖かった。それでもフレデリックは今だけは怯むわけにはいかないのだ、自分のために無茶をしてくれた人たちのために――――。
フレデリックは、今にも下がりそうになる視線を眉間にぐっと力を入れて耐え、母の目を見つめた。
「…………?」
ふと、フレデリックは気が付いた。怒る母は怖い。上から見下ろす母の視線は恐ろしい。けれどその目元。母の目元は何だか赤く染まり、落ちはしないが母の目には薄っすらと水の膜が張っているように見えるのだ。
「……………母上?」
「よし、フレッド!まずは寝るぞ!!」
いつの間に後ろに立っていたのか、脇にすっと手を入れられてソファ越しにひょいと叔父に抱え上げられた。
「叔父上!?」
ぎょっとしてフレデリックが叔父の首元に腕を回すと叔父はにやりと笑い、そして「レオ!?」と驚いて振り返った父を見た。
「兄上」
静かな叔父の低い声に、父がぴくりと肩を揺らした。
「分かりますね?」
言葉少なに薄く微笑みじっと父を見つめる叔父の視線は優しくて、けれどとても……とても不思議な、フレデリックには分からない何かが揺れていた。
しばらく見つめ合うと、父がやはりフレデリックには分からない、けれどもとても優しい目をして、言った。
「うん、ありがとうレオ………ごめんね」
眉を下げて微笑み頷く父ににやりと笑って肩を竦めると、叔父はフレデリックを抱いていない方の手を少し上げてパパっと二回払うように振った。するとそれを合図とするように侍女と側近たちが素早く動き、テーブルを片づけ周囲を整え、一礼して静かに扉を出て行った。
「よしフレッド。父上と母上に夜のご挨拶だな」
そう言うと叔父はフレデリックをそっと絨毯の上に下ろした。毛足の長い絨毯にフレデリックの足がふくりと沈む。
訳も分からず叔父を見ると、叔父は静かに微笑み頷いた。優しいのに、なぜと問うことも逆らうことも許さぬ笑みだった。
「………父上、母上、おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみフレッド」
「おやすみなさい。ちゃんと休むのよ…ゆっくりとね」
しぶしぶではあるが一礼して夜の挨拶をすると、父と母が頷いて応えてくれた。叔父も「それでは」と一礼をするとそっとフレデリックの背を押し扉へと向かった。
扉をくぐる前フレデリックがちらりと後ろを振り向くと、父が立ち上がり「ごめんセシィ…」と母へ手を伸ばすのが見えた。母の頬には一筋光るものが流れたように見えたが、叔父にぽんっと急かすように背を押されてぱたりと扉が閉められた。




