26.メイ
ざわざわと騒がしい周囲に目を覚ますと、フレデリックは叔父の言った通り王宮に居た。見たことのある部屋……中央棟の応接室だ。
ふと首を傾けると、眠るアイザックを起こさぬようそっと抱き上げアイザックの父がベンジャミンに礼を言っていた。アイザックの母も涙を流し何度も何度もベンジャミンに頭を下げていた。ベンジャミンは静かに微笑み「うちの殿下がすいません」とまるで叔父が悪いかのように謝っていた。
横を見れば第一騎士団の副団長が眠るレナードを片手で抱え、俯き片手で目元を押さえながらジェサイアと話していた。ジェサイアも相変わらずの無表情だったが、静かに副団長の肩を叩いていた。
「あ……」
叔父上のせいじゃない!そう声を上げようとしたところ、フレデリックが起きたことに気が付いた叔父がぴんっとフレデリックの鼻を指ではじいた。
「ようフレッド。目が覚めたならこっちが先だぞ」
にやりと笑うと叔父はフレデリックを下ろし、そっと背中を押した。その先には、世にも美しい微笑みを浮かべた母が腕を組み、淑女にあるまじき仁王立ちで待っていた。
「は…ははうえ…」
思わず仰け反ると叔父がひょいと後ろに立ってフレデリックの背を支えてくれた。フレデリックの横には背を丸めた父が立ち、気づいたベンジャミンとジェサイアがすっと叔父の後ろに控えた。
「あなたたち…」
ふと、笑顔で怒り心頭に発しているの母の後ろを見ると、赤毛の侍女に抱えられて妹のクリスティーナが眠っていた。目元は真っ赤に腫れており、眉根は眠っているはずなのにぎゅっと寄せられたままだった。泣き疲れて眠ってしまった―――フレデリックにはそんな風に見えた。
母の顔をよく見れば、涙は浮かんでいなかったが目元は赤く、頬の化粧が少し崩れているようだった。赤毛の侍女も、隣に立つ緑の瞳の父の侍従も。それだけではない、周囲をよく見回せば皆疲れたような安堵したような顔で自分たちを見つめていた。
はぁ、と母の口からため息が漏れた。上から下までフレデリックたちを順々に見ると、目を閉じてさらに大きなため息を吐き、そして大変美しくにっこりと笑った。
「説教は後よ。全員、お風呂に入って侍医に診てもらった後にいらっしゃい」
「はい…」と返事をすると誰もがすごすごと部屋へ下がっていく。きっと今の母に逆らっても何も良いことは無い。母がちらりと視線をフレデリックの後ろにやるとどこからともなく乳母のメイが現れた。「参りましょう」と静かに言うメイの笑顔がむしろ怖い。母もメイも怒ってくれた方がまだまし…思わずフレデリックはそう思った。
何も言わず微笑むメイに暴食蛙の粘液と土で汚れた服をべりりと脱がされ風呂に放り込まれ、いつもよりも気持ち乱暴にごしごしと洗われる。
ところどころにある擦り傷と切り傷が染みたがフレデリックは黙って耐えた。痛いなど、責を負うべきフレデリックが言える立場ではない。それ以前に怖くて言えない。
ぎゅっと唇を噛みしめて耐えているとざばりとお湯で泡を流されぐるぐると頭のてっぺんから大きなタオルで巻かれて前すら見えなくなる。
ぎゅっと、タオルの上から抱きしめられた感覚がした。
「…っ…ふっ…」
メイが、泣いている。静かに声を押し殺し、けれどフレデリックをタオル越しに抱きしめるその腕が微かに震えている。タオルでぐるぐる巻きにされているフレッドには見えないし、抱きしめ返すこともできないのがもどかしい。
「メイ…ごめん…」
もごもごとタオルの中で謝ると、メイの首がふるふると横に振られた感覚がした。「ごめん」とフレデリックがもう一度謝ると、メイが小さな声で「はい」と言った。
そうしてそのまま部屋に戻されタオルから顔を出すと、目元は赤いがすでにメイは泣いておらず、にこにこ顔の侍医の前へそっとフレデリックを差し出した。
「よろしくお願いいたします」
メイがにっこりと笑うと、侍医も「承りました」とにっこりと笑った。体中の擦り傷と打ち身に傷薬が塗られたが、これは間違いなくいつもより染みる薬だとフレデリックは歯を食いしばりつつ思った。
「メイ…レナードは?」
侍医の診察と治療を受け着替えも終えたフレデリックが聞くと、周囲を片づけていたメイがフレデリックを振り返り微笑んだ。
「治療の後に夫が連れ帰りました。治療中も起きないくらいよく眠っていましたから、お説教は明日ですね」
明日は夫に相当絞られるでしょうねぇ…くすくすと笑うメイに、フレデリックは安堵すると同時に心から申し訳ないと思った。こんなにも大切に思ってくれる人の息子を、危険な場所に我儘で巻き込み死なせてしまうところだった。
フレデリックを守ろうと必死で戦ってくれたレナードを思い出し、フレデリックはぎゅっとこぶしを握った。
「スペンサー令息もご両親に連れられて帰りましたよ。数日は出仕させず様子を見るとのことでした」
もしかしたらこのまま二度とアイザックには会えないかもしれない。けれど、それも仕方がないとフレデリックは思った。
今のフレデリックは間違いなく大切な令息を補佐に付けるに値しない。第一王子ではあるが、決して王太子として相応しいとは言えない。そのことにやっと気づくことができたばかりなのだから。
「メイ、明日から数日は休んで。レナードの側にいてやってほしい」
フレデリックはレナードがどれほど頑張ってくれたのかをメイに懸命に話した。
どんな時でも誰より落ち着いてフレデリックたちを支えてくれたことを。敵わぬと知りながらも剣を取り立ち向かってくれたことを。倒れてなお、自分より友を優先しようとしたことを…生かそうとしてくれたことを。
だからどうか怒らないで欲しいと。責められるべきは自分なのだと。何度も何度も、フレデリックはメイに伝えた。
「……殿下、あの子は殿下の護衛になるのです。まだ九歳ではありますがその覚悟は十分にしているはず。もしもその状況で剣を取らずに腰を抜かすようなことがあれば、私も夫も決してあの子を許しはしなかったでしょう」
困ったように笑うとメイはそっとフレデリックの頭を撫でた。最近はこうした触れ合いは無くなっていたが、久方ぶりに撫でてくれるメイの手はフレデリックの記憶にあるよりもずっと小さく、けれど温かかった。
「それでも……殿下がレナードのことをそうして認めて庇ってくださることを、レナードの母として、フレデリック様の乳母として、とても嬉しく誇らしく思いますよ」
静かに微笑むメイの目尻に笑いじわが寄る。フレデリックと名で呼ばれるのも久しぶりだった。優しい微笑みに思わずフレデリックは泣きそうになったが、にかっと叔父と同じようにはしたなく笑いその笑顔の下に隠して飲み込んだ。
「ああ、大切な側近で……かけがえのない友なんだ。だから――――まだこれからも、僕にメイの大切な息子を預けてもらえるだろうか?」
笑ったつもりだったが失敗して泣き笑いのようになってしまった。それでもフレデリックは何とか届いてほしいとメイの手をぎゅっと握りメイの目をまっすぐに見つめた。
メイはいつもならば大人びた笑いを浮かべて誤魔化すフレデリックの初めて見る表情に目を見開き数度瞬くと、こくりと頷きふわりと微笑んだ。
「殿下と、あの子がそれを望むのなら」
フレデリックも「うん」と頷き、微笑んだ。また泣きそうになったが、今度は飲み込み切れずにひと粒だけうっかりこぼしてしまった。




