25.ありがとうとだいすき
安心しろとは言ってみたものの騎士でもないベンジャミンが小柄とはいえ九歳のアイザックを抱えて大丈夫かと実は思ったのだが、ベンジャミンは軽々とアイザックを抱え上げると左腕に座らせるように抱き、ぽんぽんとアイザックの頭を撫でている。
ベンジャミンが微笑んで何かを小さく囁くと、アイザックは目を見開きぱっとベンジャミンの顔を見て泣きそうな顔でベンジャミンの首元に縋りついた。眉を下げ、ベンジャミンが苦笑いしながら縋りつくアイザックの後ろ頭をまたぽんぽんと撫でた。
「…フェネリー殿は意外と力持ちですね…?」
フレデリックが驚いて思わず小声で叔父に問うと、ちらりと後ろを振り向いて叔父が笑った。
「はは!ああ見えてベンジャミンは昔は騎士を目指してたんだよ。今でもちゃんと鍛錬してる。騎士になるにはちょっとばかし不器用すぎたが、その辺のごろつき程度相手にならない程度には強いぞ」
「そうだったのですか…!」
またちらりと、叔父の従者を見る。ひょろりと背の高い赤褐色の髪のベンジャミンはフレデリックの視線に気づくと目を数度瞬かせ、そしてにこりと穏やかに笑った。その頬につく血の汚れに気づき、そういえばあの腰に佩いた長剣を当たり前のように持っていたなとフレデリックは思い出した。
装飾は叔父の長剣とも護衛騎士のジェサイアの長剣とも違うが、大きさはふたりの長剣と遜色がない。何の鍛錬も無く振るえるようなものでは無いことを、フレデリックは正しく知っている。
「人は見かけによらないのですね…」
「いや、割と見かけ通りだぞ?」
まぁ、兄上よりはましだけどな、と叔父はからからと面白そうに笑った。ベンジャミンは困ったように微笑み、ジェサイアは何も聞いていないとばかりに真っ直ぐに前を見て表情を消し、「どうせ僕はどんくさいよ…」と父は隣で拗ねたように口を尖らせていた。
ゆらゆらと叔父に抱かれているうちにフレデリックは段々と眠くなってきた。ちらりと後ろを見ると、アイザックはベンジャミンの首に縋りついたまますっかりと眠っており、レナードもジェサイアの肩にもたれてうつらうつらと首を揺らしていた。眠りにつくまでもう間もないだろう。当然だ、とても大変な一日だったのだから。
叔父の腕の中は温かくて力強くて、しっかりと守られていると分かる。安心感と疲労でフレデリックのまぶたも徐々に落ちてくる。
「………君にはね、お兄さんかお姉さんがいたんだよ」
ぽつりと、父が呟いた。
「…兄さまか、姉さま?」
フレデリックの寝ぼけた頭に聞きなれない言葉が飛び込んできた。聞き間違いかと思い繰り返すと、父が静かに続けた。
「うん、そう。生きていたら…君よりもひとつ年上だったのかな?」
「生きて、いたら…?」
不穏な言葉にほんの少しだけフレデリックの目が覚めた。生きていたら…それはつまり、もうこの世にはいないということだ。だからこそフレデリックは王家の直系長子であり次期王太子なのだが。
「守ってね、あげられなかったんだ」
そう、囁くように言う父の表情はフレデリックからは見えない。父よりも頭ひとつ分背の高い叔父に抱き上げられたフレデリックからは、俯いた父の表情は蜂蜜色の巻き毛に隠れて陰になってしまっていた。
「……………君まで失わなくて、本当に、良かった…」
息を飲む音と共に語尾が掠れる。父は泣いているのかもしれないとフレデリックは思った。失われた命は戻らない。それがどんな理由で失われたとしても、誰であっても、だ。
フレデリックは唇をぎゅっと噛みしめた。
今日、フレデリックは自分の思い上がりと考えの足りなさで、大切な友人と自分の命を危険に晒してしまった。残された人たちがどんな思いをするかなど考えもせずに。
賢いと自負していた自分がこれほどまでに愚かで浅はかだったのだと、今日、改めて気が付いたのだ。自分の視野が狭いことはこの数ヶ月で嫌というほど分かっていたはずだったのに。
しばらくの沈黙ののち、父は顔を上げてフレデリックを振り返った。その瞳に涙は無く目元も赤くなってはいなかったけれど、困ったように下がった眉と無理やり上げた口角が父の複雑な感情を表しているようでフレデリックはぎゅっと胸が痛んだ。
「母様には、私が話したことは内緒だよ?きっと何でもない顔をしてくれると思うけど………沢山の、沢山の思いを抱えているはずだから」
はい、と素直に頷くと、フレデリックは小さな声で呟いた。
「僕の、兄さまか、姉さま…」
今はもう、消えてしまった命。フレデリックの、兄か姉。もしも生きていたならば、フレデリックは今どう過ごしていたのだろう。
うまく働かない頭でぐるぐると考えていると、ぽすん!と後ろ頭に大きな温もりと重さを感じた。
「眠れ、フレッド。今は何も考えるな。眠って、王宮に着いたら…………そしたら確実に説教だ。今のうちに全部忘れて眠っておけ」
わしわしとフレデリックの頭を撫でながら静かに言った叔父の優しい声に、ぴたり、とフレデリックの思考が止まった。お説教、そうだ間違いない。きっと王宮では母とメイが今か今かとフレッドたちを待ち構えているはずだ。胃痛持ちの宰相はまた胃を押さえている頃だろうか。グレアムは離宮に戻っていると叔父が言っていたがどうしているだろう。ジャックとケネスは……心配しているだろうか、きっと沢山困らせてしまった。
「叱られ…ますよね…?」
フレデリックが叔父の肩口に顔を伏せたまま恐る恐る問うと、頭上でふっと、叔父が笑った気配がした。
「叱られるさ、間違いなくな。お前だけじゃないぞ?兄上も、俺も、後ろで寝てるふたりも、なんなら俺の側近ふたりもだ。皆で仲良く叱られる」
ちらりとまた叔父の肩越しに後ろを見ると、ベンジャミンは「ご一緒しますよ」とにこりと微笑み、頷くジェサイアも眉尻を下げて珍しく微笑んでいる。ふたりの腕には大切なフレデリックの友人ふたりがすっかりと眠っている。
「だがなフレッド。叱られるのは、お前が今も生きてるからだ。ちゃんと叱られて、ちゃんと謝れ。………兄上もですよ」
「う…分かってるよ…」
恨めしそうに上目づかいで叔父を見る父に、叔父がからからとまた楽しそうに笑った。
「てことだからフレッド、眠れ。目が覚める頃には…お前の家に着いてるよ」
またわしわしとフレデリックの頭が大きな手に撫でられた。何と大きく温かく安心できる手なのだろう。
父の手も、叔父の手よりは小さかったがフレデリックよりもずっと大きく温かかった。抱き上げてくれたその腕も、叔父よりは大変そうだったが十分にフレデリックを支えてくれた。
父も、叔父も―――フレデリックが「駄目だ」と評したふたりは、フレデリックよりもずっと強く、大きく、温かく、そして頼もしかった。視野の広さも、判断力も。九歳のフレデリックなぞ全く足元にも及ばない…間違いなく、本物の大人だった。
「…ちちうえ、おじうえ」
撫でてくれる大きな手と、隣に感じる大きな温もりに徐々にフレデリックの瞼が下がっていく。けれどどうしても眠りについてしまう前に伝えたくて、フレデリックは意識を手放す寸前、必至の思いで言葉を紡いだ。
「ありがとう…だいすき…」
フレデリックを抱く叔父の腕に力が入り、私も愛してるよと隣から優しい声が聞こえた気がしたが、フレデリックは疲労と安堵でそのまま意識を手放した。




