第36話 第四部 1 徳島「ポカリスエットスタジアム」
第四部の開始です。
野田賢治たちはいよいよ全国大会の場、徳島鳴門へとやってきました。全国高校総体(インターハイ全国大会)には文字通り全国から地区予選を勝ち抜いた選手たちが集まって来ていた。
<第三部までのあらすじ>
「沼田スペシャル・陸上部強化大作戦」にうまく乗せられた南ヶ丘高校陸上部は意欲的に冬季練習に取り組んだ。高校二年生になった野田賢治たちは札幌地区大会を勝ち抜き北海道大会へと進むことになった。周りを驚かすほどの記録を出し続けるノダケンだったが、大会前の祖父の死がこれからの彼の生き方を大きく変えるきっかけとなっていった。学校祭のステージ発表の後には中鉢誠子によって菊池美咲が姉であることを仲間たちに知られることになった。仲間たちのノダケンを見る目も変わっていったが、二年生の五人が出場する全国大会出場に向けて徳島へと出発する日になった。
第四部
1 徳島「ポカリスエットスタジアム」
早朝にもかかわらず、夏休み真っ最中の新千歳空港は激混みだった。
8月3日開催の徳島インターハイに向け、札幌の陸上選手団は新千歳空港から関西国際空港へと向かう飛行機へ乗り込もうとしているところだった。搭乗を待つ選手たちの周りでは、海外からの観光客もたくさんだったが、猛暑の本州各地から逃げてきたような家族連れが、北海道の土産をたくさん詰め込んだ大きな荷物と一緒にロビーを占領していた。
この日、彼らは7時30分発の直行便に搭乗するために札幌駅5時30分発の快速エアポートに乗ってやって来た。
途中お腹が空くだろうからと丹野さんはこの日もいつものような豪華な弁当を持たせてくれた。夜明けを待たず台所で準備をする丹野さんの姿は、自分が何かをして動いていないと落ち着かないような雰囲気に感じられた。
祖父の葬儀から帰って以来、丹野の婆さんはなんだか寂しさを顔に表すことが多くなったような気がする。それまでは僕の競技の結果を聞くことなど全くなかったのに、全道大会のみんなの様子から始まって全国大会での進行やランキングのことなどをずいぶんと細かく聞いてくるのだった。
「野田さんが一週間もいないとぉ、武部さんも澤木さんも来なくなるものねぇ。なんだか寂しいからぁ、私は苫小牧の息子の所に行ってますからねぇ……」
今まで聞いたことのなかった丹野さんのそんな言葉が少し気にかかっていた。自分の周りにいた多くの人たたちが自分より先に逝ってしまった……、そんな話も多くなった。自分と同年代の人たちが次々に逝ってしまう寂しさや切なさがあるのだとつぶやいていたこともあった。
言葉に出して言うのは今日が初めてだったが、武部や澤木が来ることも楽しみにしていたらいことはわかっていた。彼らがやってくるときには、それまで見たこともないようなお菓子や軽食などを準備していたのだ。
丹野の婆さんは夫がなくなってからもう十年以上も一人暮らしを続けている。たまに行き来のある苫小牧の息子さんや電話連絡ばかりだという「本州」に嫁いだ娘さんたちに甘えるようなことは聞いたことがなかった。以前にこの下宿にいたという先輩たちや僕の存在は、「都である京都」からやって来た自分が夫と共に長い間暮らしてきた「ここ」で生きている自分の存在を証明するものなのかもしれなかった。
毎朝のように顔を出す武部には、本物の孫を相手にするような表情を見せる。僕との会話でそんな風になることはない。それはきっと、武部に自分と同じ京都生まれの人間のにおいを感じ取ったからじゃないかと僕は思っていた。
そして武部自身も丹野の婆さんみたいな年齢の人たちをも十分楽しませる話術を持っているからなのだろう。それこそが大森先生も認めている武部家の「天分」なのかもしれない。
その武部は今回の徳島インターハイにまで「出張取材」をすることになった。名目は取材ということになっていても、武部のぶらり旅に立派な名目を冠したに過ぎないのだけれど、今回は何と武部の母親も一緒だという。もっともそれは途中までのことで、徳島には武部本人だけが行くことになっていると言う。
「今年の夏はさ、家のバカ姉が帰省しないって言うんでね、逆にこっちから行ってやろうってことになったんだ」
「京都に?」
「うん、たまには父さんのとこ行って小遣い貰って来ようということになった」
「お前ん家のさ『離婚』したってのホントなの?」
「うちは変わってるから。ケンジのとことはちょっとね、違うわな」
「わかんねえけどよ、離婚するってのは、そんなもんなのか?」
「うちの親はさ、一緒にいてもいなくてもさ、たいして違わないんだな。前からそうだったし」
武部は僕の家のことを聞くことはないのだが、姉の事実を知ってからは少し話し方が慎重になった気がする。
それは、山野紗季や川合智子にしても同じで、姉であるとわかってしまってから、菊池美咲のことについては慎重な話しぶりになってしまった。ただ川合祥子だけは相変わらず、誠さんと僕の姉との子供の時のことを聞き出して大げさな反応を返すのだった。
7月末、早朝の札幌は澄んだ空気に覆われていた。夜のうちに少しだけ降っていた雨が真夏の暑さをやわらげてくれていた。札幌から出場権を勝ち取ったインターハイ選手たちは、家族や仲間の見送りに応えて笑顔を振りまいている。
駅のホームにまでやって来た山野憲輔さんの大人びた表情には父親の血を引いていることがハッキリと現れていた。札医大に進学した彼は、夏休み中なのにこの後そのまま学校に行くのだと、ジャケットの背中に小さめのバックを背負っていた。
「野田!思いっきりやって来いよ。お前が北海道の代表だってこと全国のみんなに宣言してこい!俺ら卒業生はよ、お前たちのことみんな同じ思いで応援してるから!『がんばれ』なんて言わねえぞ。そんなの意味ねえからよ。お前の力見せつけて来いよ!」
「ケンスケさん、かっこいい、その言い方!さすが医大生っすね!」
「航平、お前は今年のキャプテンなんだからさ、こいつらの成績の下地作ったいくつかはお前の力だから、誇りに思っていいんじゃねえか」
「いやー、そうハッキリ言われると、なんか恥ずかしい……けど、それって、うれしいっすね」
「航平さん、ここは泣く場面じゃないっすからね!」
タクのその言葉に坪内航平はかえって目を潤ませてしまったようだ。
初めての飛行機の旅になる野田賢治は、関西国際空港へ向けて飛び立った飛行機の窓から北海道の海岸線のラインに見入っていた。津軽海峡を越えるまでのわずかな時間に自分が日本地図の上に立って移動しているような錯覚に浸りきり、隣に座った野田琢磨の止むことのないおしゃべりとは別世界にいた。
関空からは高速バスに乗り換え、大阪湾を渡り明石海峡大橋を通って淡路島へと上陸した。橋を渡る瞬間、同乗している選手たちは皆、北海道とは違う海の色と橋の壮大さに声を上げた。
淡路島にはそれまで目にしてきた関西地方の都会の風景とは違った、豊かな自然と美しい風景が広がっている。窓から見える景色に何度も声を上げ続けた選手たちは、休憩場所の淡路サービスエリアでしっかりと地元の名産を探して、まだまだ余裕のある旅行バッグに買い入れた。
「阿波踊りクッキーはないみたいだわー」
「タックン、まだ四国じゃないからね」
野田タクは徳島に入る前からちゃんと坪内さんへのお土産を探している。
バスは淡路島を抜け、鳴門海峡大橋を渡って四国へ向かった。旅行の前に岩内にいる祖母から何度も聞かされた「鳴門の渦潮」をしっかりとスマホのカメラに収めておいた。橋を渡り終えると、ようやっと四国に上陸した。徳島県だ。ついに初めての全国大会の開催地へとやって来た。
インターハイ陸上競技の会場となる「徳島ポカリスエットスタジアム」にほど近いホテルに到着したのは午後二時を過ぎる時間だった。この時の気温は32度。一面の見事な青空が出迎えてくれた。
翌日、競技場へ向かうと、午前の早い時間からもう多くの選手たちがサブグラウンドで汗を流していた。
「いやー緊張するっていうか、なんかこうさ、うーん……みんなすごい選手に見えてきた」
しばらくサブグラウンドを眺めていたタクがそう言って帽子をかぶりなおした。
「うん、こういう時はさ、立ってないで寝っ転がってみるといいんだ」
「ほんとにー。なんかあんの、そんなジンクスみたいな?」
「まあ、とにかくさ、中行こう」
フィールド内の短く刈って整備されたばかりの芝に横になってみた。すると、まだ朝と言ってもいい時間帯なのに、強烈な陽光が顔全体を焦がしてしまうほどの勢いで襲ってきた。
「うわっ!」
とタクが声を上げるて顔を覆うと同時に、その強烈な太陽を遮るようにしてマンナン(喜多満男)が顔をのぞかせた。
札幌選手団より一日早く現地入りしていた彼も今日から競技場にやって来ていた。
「アイツいるぞ。ほらあそこでドリルやってる、あのでっかい奴だ。今年のランキング一位よ!」
マンナンが指し示す先にいたのは奈良の外崎という選手だ。もうすでにアップも終えてスプリントドリルを何度も繰り返している。周りの選手とは頭の位置が違った。常に一人だけ突出した頭が見えている。
「高校記録出してるからなー。さすがにデガイなー!」
マンナンの目がいつも以上に鋭くなった。
野田タクよりマンナンは背が高く、肩幅なんかは倍ほどもある。その彼が言うように長身の外崎はサブグラウンドの中でもひときわ目立つ存在だった。そしてそこにいる誰もが、彼こそが高校記録を更新した注目の選手だということを意識しているようだった。
三人がしばらく見ていると、まさにその彼の横を、周りの選手たちの思いなどまったく気にならない健太郎が淡々とジョギングする姿が目に入ってきた。注目の的になっている外崎のすぐ横をいつものようにゆっくりと走り続けている。
そのあとすぐフィールドの芝にやって来た山野紗季と川合智子は、緊張感など見せることなく清峰高校のリレーメンバーと一緒に笑顔でアップを始めた。
「やっぱり似てるわけだよねー……」
サブグラウンドでそれぞれに動く選手たちの様子を眺めている沼田先生に、自分の学校の生徒に指示を出し終わってやって来た上野先生はそう言った。
「昨日、紗季ちゃんたちから聞く前に……去年、旭川の時からねー、なんか引っかかるものがあったんだよねー」
「ああ、俺も小山の電話の時からちょっとなー、まさかとは思ったけど……」
「これって偶然ってことじゃないんだよきっと。むしろ必然なんだろねー!」
「それにしてもお前、すごすぎるわー!」
「うん。菊池美咲とノダケンが兄弟だってことがね、なんか私たちに与えられた使命みたいに思えちゃってねー。昨日からなんか考えちゃったよ。うん、なんだか軽い言い方だけど『運命』ってこういうことかもってね……」
「おまえ、昨日電話したんだったな」
「嫌がられるかなと思ってたんだけど、かえって喜んでたんだよ。菊池さんの方はね、ノダケンが他の人に知られたくないだろうと思ってたらしいんだ。だからむしろ気が楽になったようだって」
「十年間黙ってたんだから……いや、言えなかったんだ。小学生だったか?」
「あのね、ノダケンは5歳の誕生日の前だったらしいよ」
「野田には黙ってるけどよ……去年の姉さんに続いて全国で名前残しそうだな」
「私ね、もしかしたら勝っちゃうんじゃないかと思って。あの高校記録出した選手だって絶対じゃないでしょきっと。いつもあんな記録出るわけじゃないだろうから」
「そうだなあ……まあ、同じ二年生だし……いい勝負かもな」
「賭ける?」
「ばか! そんな、お前、他人事じゃねえんだからよ!」
「ふふふふっ、ウソウソ! でも、菊池さんはね、去年自分が優勝出来なかったこと知ってるから、だからこそ、ノダケンは勝っちゃうんじゃないかって予言してたよ」
「うそだろう? ホントにか! そんな強気なのかー!」
「うん、この兄弟は普通じゃないことやっちゃう気がする。そうなって欲しいでしょう? みんなそう思ってるよ!」
「そうだな……、でもよ、あいつまだ二年生だから」
「相手も二年生だってさっき言ったじゃない自分で」
「ああ、すげえ奴らだわホントに。あの二人以上に、あの姉弟がさ!」
8月1日。徳島インターハイ陸上競技会場になる鳴門大塚スポーツパーク「ポカリスエットスタジアム」に隣接するサブトラックには、かすかに海の香りを運んで夏の風がやって来ていた。
さあいよいよ次回からは、全国の猛者たちとの争いが始まります。




