王弟殿下の唯一
空は青く澄んで晴れ渡り、今日という素晴らしい日を寿ぐかのように花弁が風に舞う。
全てが学院に通う彼らの卒業を神が祝福しているかのようだと、アリィシャは思った。そして何よりも、自分のことを。
アリィシャはこの後起こるであろう素晴らしい出来事を想像し、そして想い人を見つめながらうっとりと笑んだ。
聖カタリナ学院はこの国の貴族たちが通う、国内で一番とも言われる学び舎である。名に『聖』とつくように、学院の創設には教会も大きくかかわっていた。
本来、政治とは線を引いた立場でなくてはならない教会の思惑と、国の思惑が一致した結果、学院は生まれた。
教会には様々な役職のものがいるが、その中でも聖女は特殊な肩書で、特別な存在であった。
今代の聖女は6人、その中の一人が学院に通うアリィシャ・ローランドであり、その聖女たちが安全に通える国内唯一の学校がこの聖カタリナ学院なのである。
アリィシャは僻地の教会に捨てられていた子供だ。そのため、併設された小さな養護院で育った。
長ずるにつれ、彼女には聖女の素質があることがわかり、中央教会へと居を移し、聖女教育を受けることになった。にこにこといつも笑顔で真面目な聖女候補だと評判はすこぶる良かったが、彼女はいつも飢えていた。
自分の幸福に、きらきらしく美しいモノに。
自分が望むものは全て、この手に入るべきだと思っていた。聖女の力もそのための一つで、神に祝福された自分にとって、何もかも当然だと思っている。
人より優れた容姿もそうだ。力と美しさは聖女たちの中でも抜きん出ており、大切にされている彼女は聖女に課せられる奉仕も他の聖女たちよりも優遇されていた。
「アリィシャ様は特別な聖女様ですもの。いつかお似合いの、素晴らしい方と結ばれるに違いありません」
「まぁ、私なんて、そんな」
「貞淑で、謙虚で、アリィシャ様は本当に聖女の鑑のような方ですね」
心地よい称賛は、当然自分のものであるべきで、伴侶も、それに見合った相手でなければならない。――そう、例えば王族のような。
だが、直系である王子に嫁ぐことは難しい。いくら聖女とはいえ、教会は政治不可侵を守っているからだ。ならば、王籍を離れ臣籍降下する予定の、現王の直系ではない、王弟殿下ならば?
彼にはすでに王命で結ばれた婚約者の伯爵令嬢がいるが、爵位は王族に嫁ぐ条件の最低ランクであるし、美しさも能力も自分の方が上で、付け入るスキはいくらでもある。王国の白薔薇とも名高い彼と結婚することが出来れば公爵夫人になれるのだから、あんな女よりも自分の方がよほど相応しい。
アリィシャはいずれ訪れるタイムリミットに焦る気持ちを押し殺して、少しずつ、王弟ユーステス・スラーヴァを篭絡するための努力を重ねて行った。
「君の輝くような美しさは何者も敵わない。君の内面がそのまま表れているのだろうね。――君が婚約者であったなら、どんなに良かったであろうか」
「ユーステス様……」
「すまない、互いの立場を思えばこんなことを君に伝えてはならないと、わかっている。だが……」
「もう何も仰らないでくださいませ。私たちは、同じ気持ちを抱えているのですわ。私、もう、隠せそうにないの」
「アリィシャ」
「お願い、ユーステス様。貴方様があの方とご結婚されるまでは、どうか私をお側においてください。ほんのひと時でもいいの、ユーステス様との思い出を、私に」
「ああ、なんていじらしいんだ、君はっ……」
「誰にも言えなくていい。誰にも知られずに、私を貴方様の唯一にしてくださいませ。私の全てを、貴方様に捧げたい」
「アリィシャ!」
その日、二人は一線を越えた。
聖女は勤めを果たすまで、純潔を求められる。もちろん貴族令嬢たちも同様で、婚姻前に純潔を失うことは貴族令嬢としての死を意味する。いくら婚約者とはいえ、情勢によっては婚約が覆ることもままあるため、そう簡単に身を預けることはできないのだ。
それでも道ならぬ恋に燃えて身を捧げたり、駆け落ちや最終手段として純潔をわざと散らす令嬢もいるが、そうなると家の恥にもなるし、社交界から締め出されてしまう。
貴族令嬢のそういったことを王族であるユーステスももちろん知っていたが、燃え上がってしまった恋情と情欲に、理性は簡単に失われてしまった。
彼のこういった面は王位継承権が低いまま上がらなかった一因であるのだが、それを彼は知る由もなかった。
それからというもの、二人は人目を忍んで幾度も肌を重ね合わせた。
互いの立場が、事情が、その恋をさらに燃え上がらせる。
「ああ、ユーステス様っ! 貴方様の情けを、私にお与えください……」
「アリィシャ、私の唯一……!」
まさか想像もしていなかった道ならぬ恋は、まるで神に背くようで、そして何より、兄王への複雑な心境を晴らすように彼の心を満たした。
ユーステス・スラーヴァは25歳。国王と大きく年の離れた腹違いの弟である彼は、その美しさと立場から周囲の視線と愛情をこれでもかと浴びながら育った。
彼が16歳の時、ウルスラ・ボレルとの婚約が整えられた。相手は7つ年下の、まだ9歳の少女だった。王命とはいえなぜ自分がこんな子供と、まして、王族に嫁すには一番下の伯爵令嬢と婚約せねばならぬのかと不満を抱えた彼は、傍目には最低限のマナーを守りつつも、婚約者をおざなりに扱い、なんだかんだと言い訳をして相手することを避けた。
子供ながらにも整った顔立ちは人目を惹いたが、ウルスラは大人しく面白味もないし逆らうことも不満を告げることもなく、ユーステスにはいっそ都合の良い相手だった。
いくら王族とはいえまだ若く血気盛んな彼は、後腐れのない蝶たちとの夜を楽しみながら、逃げられない結婚までの火遊びに興じた。王も火遊びが過ぎなければ目を瞑ったので、それがまたユーステスの行動に拍車をかけた。
ただ、彼も馬鹿ではないので、人前では貴公子として振る舞うことを忘れず、成長した頃には、王国の白薔薇、と女性たちから讃えられた。
どんな女も彼にとっては一夜の慰めでしかなかったし、後腐れのない女性というものは、女性らしい面倒くささはあるものの、瑞々しい初心な存在とは程遠く、そんな相手とどうにかなろうとも考えてはいない。
「どうせ、この婚約からは逃げられないのだ」
苦々しいが、王族の務めからはどうしたって逃げられない。例え、スペアにすらならなかった第二王子であっても、だ。
国王には3人の息子と2人の娘がいる。王太子とユーステスはあまり年が離れておらず、その王太子はすでに内政に深くかかわっている。第二王子と共に国内有力貴族の息女との婚姻や婚約は済ませているし、第三王子は他国の王配として婿入りすることになっている。
手駒として残された彼は、国内で特別な力を発揮し始めた伯爵家を国に繋ぎとめるための鎖として生きることになった。
そんな中で、一人の女性と出会う。
彼女は教会に属する聖女の一人であった。
今まで出会ったどんな女性とも違う、滲み出る、欠けた心を包み込むような優しさは、聖女だからなのか。
好意の持てない婚約者とさほど変わらない年頃の娘に、それでも初めはきっちりと線を引いていたし、立場を明確にして相手にも節度を求めていた。
だが度々、ふとした時に出会うのだ。まるで導かれるように道が混じり、ふとした瞬間に視線が合う。そうして少しずつ、少しずつ、境界線は曖昧になって行った。
「覆せない婚約ならば、少しくらい遊びが過ぎたっていいのではないか?」
多分初めは、そんな反発心だったはずだ。それがどうだろう、小石が坂を転がるようにして、彼は『聖女との許されない恋』に堕ちて行った。
「ユーステス様、愛しい貴方様の子が、宿ったかもしれません。月の障りが遅れているのです……」
「な……子供!? そんなはずは!」
「まさか、お疑いに? 私の純潔を散らしたのはユーステス様ですのに」
「いやっ! 違う、疑ってなどいない。ただ、驚いてしまったのだ」
さすがにその告白は彼にとっても驚きを隠せないものであった。これまで同様、避妊には人一倍気をつけていたし、王族には特別な避妊薬が渡される。少々、疑いの気持ちが湧いてしまったのも仕方がないことだ。
教会に属する聖女を、婚約者のいる王弟が孕ませる――とんでもない醜聞に間違いなかった。
どうすべきか、彼の頭の中は様々なことで頭がいっぱいになる。背中には冷たい汗が幾筋も伝わるが、表情は貴公子然として、思慮深い佇まいを必死な思いで保った。
(とんでもないことになった。確かに彼女に惚れて入れ込みはしたが、この恋はいずれ破綻することはわかっていた。そうでなければ、この国で生きていけないことはわかりきっていたのに)
いつの間にか自分が抜け出せない底なし沼に嵌っていたことを、この時になってやっと自覚した。
「私、産みたいの。どうかこの子を産ませてください……お願い、お願いします……」
「ア、アリィシャ」
彼女のいじらしさに、心が揺さぶられる。
その時、彼の心の中で悪魔が囁いた。
これほど恋しく求めた女と、興味の持てない婚約者。どちらを選ぶか、考えるまでもないのでは?
避妊をしていたにも関わらず子が出来たのなら、それは神の思し召しなのではないか?
ウルスラとの婚約を解消するには、どうすべきか。ユーステスは必死に頭を働かせる。
(正当な理由を作り、それをもってアリィシャと婚姻を……ああ、無理だ! どうあっても道筋はつけられぬ。あの兄が、教会に属した聖女を娶ることを、許すはずがない。何より、この女に王族の妻が務まるものか)
いくら考えたところで、もう引き返すことのできない事態にユーステスは目の前が真っ暗になり、再び、心の中の悪魔が囁く。
――自分たちの関係を知る者はいない。ならば、アリィシャをどこか遠くに送り、なかったことにしてしまえば良いのではないのか、と。
いくら聖女とはいえ、所詮、平民である彼女と由緒正しい貴族令嬢ならば、どちらが公爵夫人に相応しいかなど、今更考えずとも分かり切っている。この恋を貫く気など、元よりなかったのだから。
しかし、そんな考えを彼女に勘付かれるわけにはいかなかった。
「アリィシャ。本当に子が出来ているのだとしたら我が子を宿す大事な身体だ、どうか心乱さず安静にしてその身を大切にしてくれ。この後のことは、全て私に任せておけばいい」
「ああ、ユーステス様……愛しております」
「……わかっているよ」
抱き合う二人の心の中にある互いへの想いの掛け違いが、後の彼らの行く先を左右するなど、ユーステスはやはり知る由もなかった。
アリィシャは聖女だ。だが、いつも飢えていた。
自分が手にすべきものを得るために、手段は選ばない。ユーステスの前では清純で無垢な聖女を演じることも、もちろんその手段の一つであった。
一度体を開いてしまえば、他の男と寝てもユーステスは気づかない。王弟に嫁げば他の男を味わうことはできなくなるので、アリィシャは身分を隠し、市井の男や男娼とのささやかな恋も楽しんだ。
月の障りが遅れていると気づいた時、さすがにアリィシャも血の気が引いた。
けれど、すぐに考えを改めることにした。
「むしろこれはチャンスよ。あの女との婚約を破棄させて、私が公爵夫人になるための、良い理由になる」
聖女は時に、神の啓示を受けるとされる。滅多にないことではあるが、筆頭聖女の自分が祈りを捧げて神の啓示を得たと言えば、まかり通るに違いない。
ユーステスと今すぐ結ばれることが国のためになると、そうお告げがあったとすればいい。
本来、王族との婚姻は非常に時間のかかるものだが、幸いにもウルスラとの婚姻が間近で準備が進んでいる。ただ花嫁を入れ替えれば済む。
とはいえ、ユーステスも王族としての義務に責任を感じていることはわかっている。まずは彼の心をもっと引き寄せ、揺さぶるところから始めなばならない。そして、彼が引き返せないようにして、自分を選ぶように導いてやるのだ。
そうしてアリィシャはユーステスへ事実を告げたが、それからというもの、ユーステスは外せない公務に追われていると言い、愛の言葉を記したカードや差し入れは届くものの、めっきり姿を現さなくなった。
まさか、逃げるつもりではないか? 子まで作っておいて、まさか、そんなことを?
「そんなこと、絶対に許さない! 私は公爵夫人になるのよ!!」
アリィシャは必死に考えた。いつならば誰しもがそれを知り、そして覆せなくなるようできるだろうか、と。
その日は、空は青く澄んで晴れ渡り、今日という素晴らしい日を寿ぐかのように花弁が風に舞って、彼らの門出を祝うかのような清々しい天気だった。
聖カタリナ学院の講堂では、卒業生たちが学院長や出席者である教会長、王子殿下からの祝いの言葉を受けていた。
式典の後は広間へと移り、今度は卒業記念パーティーが始まる。彼らは各々着飾り、浮き足立て逸る心を抑えながら、パートナーと共に会場へと向かった。
その中にはウルスラ・ボルツ伯爵令嬢と、聖女アリィシャの姿があった。共に卒業生であり、ウルスラはこの卒業後に王弟と婚姻することが決まっている。
「皆様! どうか聞いてくださいませ!」
多くの人の声でざわつく会場に、凛とした声が響き渡った。
その突然の声に、人々は何事かと声のした方へと視線を向けた。
本来、来賓や王族などが立つ場所で式典用の美しい聖職衣をまとった一人の女性が声を上げている。本来であれば不敬にあたるが、その姿を見て、彼らは黙り込んだ。
そこに当代の聖女アリィシャの姿があったからだ。
「ア、アリィシャ……!?」
ただならぬ雰囲気に、ウルスラのパートナーとして出席していたユーステスは、思わず取り繕うことを忘れて呆然と壇上を見つめた。指先から冷える気がした。
隣に立つウルスラが自分へと視線を向けたことを、気づきもせずに。
「皆様、私は今朝、神の啓示を受けました。あまりの内容に驚き、私は大司教様にも、ほかの聖女にもそのことを言えませんでしたが、こうして当事者が一堂に介する今日という日にそのような啓示を受けたことには、何よりも意味があるのだと思い直しました。私は神に仕える聖女です。どうしたって、神に背くことなどできるはずもありません」
アリィシャの発言に、会場内は上へ下へと大騒ぎになった。啓示などと、久しく聞いたことがなかったからだ。
「聖女アリィシャよ。どういうことだ」
騒ぎに気付き、来賓として入場する予定だった第三王子が会場内へと入ってくると、人々が割れるようにしてアリィシャの前まで道ができる。彼は歩みを進めながら聖女へ問うた。
「第三王子殿下! 神は、私にこう言いました。王弟殿下であるユーステス様と、今すぐ婚姻すべし、と。それが王国のて素晴らしい未来へつながるのだと」
「なっ……」
言葉を失うユーステスに、周囲の視線が集まる。
(アリィシャめ、なんてことをしてくれたんだ!!)
ユーステスは信じられないものを見る気持ちで、ただの傍観者になっていた。アリィシャに金を渡して他国へと追いやり自分だけ逃げおおせるつもりだったのに、突然、望まない舞台の上へと上げられ踊らされる羽目になり、残っていたアリィシャへの愛が憎悪へと変わって行く気がした。
だが、彼の心情など関係なく事態は進む。
「……つまり、叔父上とボルツ伯爵令嬢の婚姻を無効にし、君が叔父上の妻になるということか?」
「そう、なります。私も聖女を辞めなければなりませんし、何より、ボルツ様のことを考えたら……とてもではありませんが、まさかと、そう思いました。ですが、神の啓示を無視することはできません。私は聖女の身分を返上して、王弟殿下に嫁ぎますわ」
アリィシャは困惑と共に儚げな笑みを浮かべる。まるで大きな波に抗えない生贄のような、粛々と、神に身を捧げるとばかりに。
ウルスラとユーステスの周囲の人々が彼女たちから距離をとったことで、二人は異質な存在のようにその場に佇むことになった。居合わせた人々は事態が一体どこへと向かうのか、興奮を飲む込みながらこの寸劇の演者を見つめていた。
「君が神の啓示を受けた? ――本当に?」
「ええ。私は当代一の力のある筆頭聖女ですし、日々の祈りによって神に選ばれたのでしょう」
「君が筆頭聖女? ふふ、まさか」
「な、いくら王子殿下とはいえ、教会に属する聖女に失礼ではありませんか!?」
第三王子の侮蔑のこもった言葉と視線に、アリィシャが気色ばむ。それを黙殺して、彼は叔父をいる方へ視線を投げた。
「叔父上、いらっしゃいますね。どうぞ、こちらへ」
王子の声に、ユーステスたちを遠巻きにしていた人々が避けるようにして道ができる。否応なく、舞台の中央へと引きずり出されたユーステスは、顔色を変えながらも王族としての体面を保つように、あえて威厳のある声を出しながら告げた。
「イオアン。恐らくこれは何かの間違いだ。聖女アリィシャは、慣れない長の教会暮らしで気鬱に陥っていたと聞く。いよいよ気が触れたのではないか」
「なんっ、ユーステス様! 今なんと仰ったの!?」
ユーステスの裏切りに、アリィシャの聖女の仮面にヒビが入ってゆく。
(なんてこと! やはりこの男、私を捨てる気だったわね!? 絶対にそんなことさせるもんですか……っ!)
「黙れ! 王族である私の言葉に重ねるように異議を唱えるなど、不敬であろう!」
「――――ッ!! わ、私は神の啓示を受けた聖女よ!?」
「警備! この不届き者を牢へ入れろ! 晴れの日に、なんてことをしでかしてくれたのか。無関係な私だけに飽き足らず、我が婚約者まで巻き込むなど、到底許しがたい」
「無関係? 何を言っているの!?」
「妄言はうんざりだ! 尊ぶべき王族を守らず近衛は何をしている、早くこの女を連れ出せ!」
何が起きているのかわからずとも、さすがに王族の言葉に従わざるを得ない騎士たちは、聖女を拘束しようと壇上へ上がった。
このままでは牢へ入れられてしまう。聖女なのに、尊い身の自分にそんなことが許されるわけがない。
アリィシャは最早計画など忘れ、必死に喚いた。
「ユーステス様、酷いわ! あれだけ私に愛を囁いて、聖女の純潔を散らしたばかりか何度も無体をしいておいて、捨てるおつもりですか!? 婚約など破棄すると言っていたのに!」
「な、何を言う!? この気狂いめ、王族を侮辱し無礼打ちされたとて、文句を言えぬぞ!」
「できるのならしてみたらいいわ! 王家の血を引く自分の子供ごと、殺せるものならね!!」
「黙れ、アリィシャ! 貴様、ただでは済まんぞ!!」
騎士に抑えられながら醜く喚き散らす二人に周囲は侮蔑を込めた冷たい視線を向けているが、彼らは自分のことでいっぱいになり、そんなことにすら気づけない。事態はもう、取り返しのつかないところまで来てしまったというのに。
「なんてことだ。まさか、王弟でありながら聖女と不貞を働き、あまつさえ姦淫するなど……何より、避妊もせずに相手を孕ませるなどと。叔父上、ご自身が何をなさったか理解しているのですか」
「私は何もしていない! この女の妄言だ!」
「いつどこで何度したか、何を言ったのか、全部日記につけているのよ! 証拠はあるわ!」
「全て貴様の自作自演だろうがッ」
その時、それまで一言も発さずに黙っていたウルスラが、真っ青な顔色をして力なく床へ崩れ落ちる。第三王子……イオアン・スラーヴァは、その身を支えるためにウルスラへ駆け寄った。
「ボルツ嬢……! ああ、おかわいそうに、なんて顔色だ。しっかりなさい、私に寄りかかると良い」
「イオアン王子殿下、申し訳ありません……このようなことになり、なんとお詫びしたら良いのか」
「貴女は何も悪くない。むしろ、甥として私が詫びねばなりません」
「いいえ、いいえ! 王子殿下にはなんの咎もございません。ですが……」
イオアンの支えようとする手を固辞し、気丈にも自分の足で立とうと努力するウルスラに、周囲は同情を込め見つめた。
主演の二人はどうやら破滅しそうである。残されたこの二人は、果たしてどのような選択をするだろうかと思いながら。
「――ボルツ嬢、王家として貴方の心をこの場で確認しておきたい。王弟ユーステスとの婚姻を望みますか?」
「わ、わたくしは……」
「貴女は被害者だ。不敬などと言わないから、本心を言っていい」
「…………望みません。こんな……いくら王命の婚約とはいえ、わたくしは無理です。どうか、お許しください」
俯きながらも涙を懸命にこらえ、気丈にも節度を持って受け応える姿が痛々しかった。
「わかりました。だが、この婚約は陛下がとりなしたもの。ボルツ伯爵家と、スラーヴァ王家の縁を強固にすることを私の一存で覆せない」
「……はい」
絶望を隠し切れない声色に、彼女を見つめる人々は同情の色を濃くした。いくら貴族の政略結婚とはいえ、このような前代未聞の醜聞を起こした男と婚姻しなくてはならないなど、不幸でしかない。
震えを懸命に抑え佇むウルスラの前に、イオアンが跪いた。突然の行動に、周囲にざわめきが広がる。
「イ、イオアン王子殿下! どうかお立ちくださいませ」
あまりのことに、ウルスラは戸惑いを隠せない。片膝を立て、イオアンはウルスラへと手を差し伸べる。震える彼女の指先にそっと触れ、包むようにすくい上げた。
「殿下……?」
「ウルスラ・ボルツ伯爵令嬢。貴女が深く傷ついているこのような時に告げるのは褒められないことですが……どうか、私の妃になってほしい。こんな時でも気丈に淑女であろうとする貴女の気高さと、自分を貶めた相手を罵ることもしないその心の美しさを、これからは私が支えたい。始まりは王命ですが、これは私の本心です。私は貴女との婚姻を希みます」
「ですが、王子殿下は……」
「たしかに、私は以前の婚約者が儚くなり、喪に服していた身です。ですがもう一年が経つ。国を護る者としても、かつての婚約者としても、彼女ならば私の今の気持ちを尊重してくれるでしょう」
第三王子のイオアンは他国の王女に婿入りし、王配となるはずだった。
しかしその王女が突然の病によって儚くなり、王位は王弟である第一王子へと渡ることになったため、イオアンの婚約は立ち消えて国に戻ることになった。イオアンは婚約者の突然の死に、当分の間は喪に服すとして、その後の婚約の打診は全て断っていた。それは周知のことで、そんな王子の突然の求婚に、周囲は騒然となった。
「同情でも、政略でもありません。この方とならと、貴女の御姿を見て、そう思ったのです。どうか、受け入れてくださいませんか。貴女の心も何もかも、これからは私が守り、慈しむと誓います」
「イオアンッ! 何を言うか!! ウルスラは俺の妻だぞッ!」
「何を言ってるのよ! 私が公爵夫人になるのに!!」
「――全く、いい加減聞くに堪えない。早くその者たちを連れて行け!」
「は、ははっ!」
イオアンがウルスラへ求婚している姿に今にも飛びついて殴りかかろうとするユーステスと、未だに妄想を喚き散らすアリィシャを騎士たちが会場の外へと引きずり出すと、会場内の観衆は求婚の行方を固唾をのんで見守った。
悲劇の第三王子と、飛ぶ鳥を落とす勢いの伯爵家令嬢の婚約破棄騒動と同時に繰り広げられる求婚に、まるで演劇を見ているかのような気分であった。
「王子殿下……」
「どうか、イオアンと。ウルスラ嬢、私の名を呼んでくださいませんか」
「イオアン、様」
「はい」
果たして彼女はなんて応えるのか。王命とはいえ、このような醜聞は本来なら多額の慰謝料をもって解消されることだって充分あるはずだ。
「貴方様の求婚をお受けします。どうぞ、わたくしをイオアン様の妻にしてくださいませ」
まさかの逆転劇に誰もが興奮を隠しきれず、いつも冷静なイオアンですら、海のような静かさをたたえた瞳を輝かせ、白い肌を赤く染めた。
「っ! もちろんです! ウルスラ嬢、貴女を一生をかけて大切にします」
「はい。どうか私のことはウルスラと」
「ああ、ウルスラ!」
「きゃぁっ! イオアン様、皆が見ています!」
「構いません。ウルスラがかわいいのが悪いのです」
求婚を受けたウルスラを、イオアンが抱き上げて頬へキスをする。
周囲はどよめき、割れんばかりの拍手が送られた。
「この素晴らしい佳き日に王族が騒ぎを起こしたことを、私から詫びよう。だが、このような日に悲劇は似合わない。どうか私とウルスラの婚約を、あなた方も共に祝ってほしい」
盛大な拍手が惜しみなく響く。
「ありがとう。――さぁ、今日の主役たちためのパーティーをはじめようではないか。皆、卒業おめでとう! 王家より、直轄地で作られた特別なワインを振る舞おう。時間が許す限り楽しんでくれ」
王家の直轄地で作られるワインは最高級品で、貴族であってもそうそう飲める品ではなく、彼らは大いに喜んだ。
こうして前代未聞の醜聞は誠実で実直な第三王子の求婚劇により、祝いのムードに押し流されて楽しい時間とともに締めくくられたのであった。
その後、王弟は王族蟄居用の白の塔ではなく高位貴族が収監される灰の塔へ送られ、一生を塔で過ごすことに決まった。
聖女は身分をはく奪され、犯罪を犯した子女が入る戒律の厳しい辺境の修道院へと送られ、厳重なかん口令の元で堕胎させられた。子に罪はないとはいえ王族の血を引く可能性がある以上、未来に禍根を残すことは間違いない。よしんば生まれたとしても一生を犯罪者たちの中で過ごすことを考えれば、致し方ない処分ともいえた。
ウルスラとイオアンは、王族としては異例の早さで婚約からの婚姻式を迎えた。ユーステスとの婚姻式の予定をそのまま引き継いだ形になり、それでも本来の婚約式よりもはるかに豪華なものに変え、国民たちは二人の幸せな姿を一目見ようと、王城には溢れるほどの人々が詰めかけた。
イオアンは第二王子よりも先に婚姻を結ぶことになり謝罪したが、兄王は全く気にもせず、弟の幸せを喜んだ。二人は第二王子の婚姻を待って同時に臣籍降下し、今後大公として王太子の治世を支えて行くこととなる。
その夜、夫婦の寝室では初夜を迎えたウルスラとイオアンが幸せそうに互いを慈しみ合っていた。
自分には手に入らないと思っていた幸せがこうして目の前にあって、二人は笑い、イオアンが宝物を抱えるようにウルスラを抱きしめた。
横たわる愛しい妻の頬にかかる髪を優しく耳へ掛けてやり、微笑む彼女の額にキスを一つ贈る。
「ふふっ」
くすぐったくて、笑みがこぼれた。
「ウルスラ、君はもう俺だけの君だ」
「イオアン、貴方は私だけの貴方ね」
見つめ合う二人の視線が、互いへの想いが熱をもって絡み合う。
甘やかに触れあい、キスを交わした。
「愚かな者たちだ」
「ええ、本当に。愚かね」
愛を語り合う夜は静かに更けて行った。
ウルスラとイオアンの出会いは幼少期に遡る。二人は互いに一目で恋に落ちた。だが、貴族令嬢は親の意向に逆らえないし、王族は国益のために政略婚が当然だった。
この頃はまだ伯爵家は重要視されておらず、イオアンは隣国からの強い申し入れで、王女がイオアンを見初めたと言って、婚姻を望まれて王配として婿入りすることが決まってしまった。
幼い恋はあっけなく砕けたが、それでも恋心を捨てることはできなかった。
少しして、今度はウルスラとユーステスの婚約が整えられた。
伯爵家を王家に繋ぐための婚姻は王家の血筋ならば誰でも良かった。イオアンはこの時ほど己の運の悪さを恨んだことはなかった。
どうにもならない婚約を二人は静かに受け入れるしかなかったが、それでも己の心を諦める事だけはできなかった。決定的な日を迎えるまでは、心だけは自由でありたかった。
そんなイオアンの事態が好転したのは惚れっぽい王女が護衛騎士と恋に落ち、純潔を失ったことに始まった。
この頃、イオアンは婚姻に先立ち、準備のために一時的に隣国を訪れていた。
「イオアン、ごめんなさい。私たちを許して頂戴。互いに想い合っているのよ」
「正気か? 君は女王になる身だというのに」
「真実の愛に出会ったの。愛より大切なものなどないわ。それに、私よりも弟の方が王には向いてるのよ。私が女王になるのは、ただ一番初めに生まれたからってだけで」
なんと勝手な言い分か。
そもそもこの婚約は、王女がイオアンを見初めたと言って強く望んだものであったのに、王族としても人としても、自分勝手が過ぎるのではないかと、イオアンは内心、怒りのままに毒吐いた。
とはいえ、である。
「……本気なのか? 本当に、君が市井に下れると?」
「愛のためなら、耐えられるわ」
「私が一生をかけて、王女殿下をお護りします」
蝶よ花よと豊かな生活しかしらない箱入り王女が耐えられるとは思えない。そもそも、この時点で「耐える」と発言するあたり、先が透けて見える気がした。
なんて愚かな男だとも思った。だが、可能性が全くないわけではない。もしかしたら彼ららしく幸せに暮らせることだってあるかもしれない。それに、自分にとっても決して悪くない話だった。もちろん、そんなことは決して言わないが……。
「わかった、私にできる協力はしよう。けれど、生涯を通して絶対に私の名は出さないこと。国同士の問題に発展したら困るのは君たちだろう」
「もちろんよ! ありがとう!!」
こうして、王女と護衛騎士を秘密裏に市井へと下らせ、王位継承と婚姻を控えた王女の出奔という事態に困り果てた隣国王家は、事態に居合わせてしまったイオアンと密約を交わして『王女は突然の病に倒れ儚くなった』とし、晴れて彼は自由の身となった。国へ戻り、望まない婚姻を避けるために喪に服すことにした。
「隣国は悲しみを乗り越え、第一王子を王太子に据えてお祝いのムードだ。仕方のないことだろうが、せめて私だけでも少しの間は、彼女の死に向き合って静かに悼んでやりたい」
その言葉に臣下も、国民たちも涙した。
イオアンは自分に巡ってきた好機に、大切に抱え続けた初恋をどうにかして叶えられないだろうかと考えた。
ユーステスは鬱屈していて傲慢なところがあり、何よりとにかく女癖が悪い。そんな男と彼女が婚姻することなど、どうしたって認めたくなかった。格下の令嬢との婚約に、普段から不満を抱えていたユーステスを、どうにかして婚約解消へ導けないだろうか。
そのためにはユーステス有責でなければならず、彼の女癖の悪さがそれを後押しするのではないかと思えた。とはいえ、さすがに王弟ともなれば身に付いた王族としての矜持もあって中々ぼろは出さない。
「イオアン王子殿下、ごきげんよう」
「ボルツ伯爵令嬢、王弟妃教育は大変でしょう。体を労わり、無理はしないようにね」
「お気遣い、感謝いたします」
ウルスラとはごく自然に、あくまで偶然を装って、時折言葉を交わした。触れることも叶わず、それでもこれまでを思えば幸せな時間だった。イオアンの婚約が立ち消えてからは誰にも悟られぬよう、細心の注意を払い、文を送った。
『君の姿が見られて嬉しかった』
『私もお会いできて嬉しかった』
『君をあのような男に嫁がせたくない。彼は君を蔑ろにしているのに』
『あの方が、多くの女性たちと泡沫の恋に溺れていることは存じています。私もあのような不誠実な方と一生を共にするのは嫌です』
『最近、ある女性が彼を熱心に追いかけているようだ。満更でもなさそうで、私は彼の新たな恋を陰ながら応援したいと考えている』
『あの方が真実の愛を知ったのなら、それは喜ばしいことです。彼らの幸せを願っています』
『君には誰よりも幸せでいてほしい』
『貴方様の幸せを、私はいつも想っています』
イオアンは、ほんの少し、致し方ない事情で己の公務の時間を変更せざるをえなかったり、不可抗力によって予定を変更したりした。それによってユーステスの公務の予定がずれたり、視察先が変更されたりするのは仕方のないことだった。
たまたま、その時に教会の視察や行事、会合が入ってしまっただけで。
また、彼はある時、王族専属の薬師や医師に、こうこぼした。
「叔父上の健康が心配だ。叔父上は年々、避妊薬の使用が増えていると聞いた。婚姻前の王族用の避妊薬は非常に強い薬だと言うし、そんなに多用して、本当に大丈夫なのだろうか。強い薬を摂取しすぎると、効き目が薄れたり、体に害を及ぼすのではないか?」
「それは……たしかに、王弟殿下のお薬は、陛下からの指示で非常に強いものではあります。週に何度も求められるため、私たちも陛下へ危惧を伝えるべきかと思案しておりました」
「やはりか。ならば私から陛下へ進言しておこう。叔父上ももうすぐ婚姻式なのだし、さすがにそろそろ落ち着かれよう。花嫁を迎える前に健康に問題が起きたらコトだ。叔父上の避妊薬は弱いものに変更しても良いかもしれない」
「医師としても、その方が良いと考えておりました」
「ではそれも陛下へ伝えてみよう」
イオアンは、医師や薬師の懸念を伝えた。過去の王族の中には媚薬など強い薬を服用しすぎ閨で突然死した者もいて、王としてもそれだけは避けたかったのか、内密に王弟の避妊薬の変更と制限をかけた。
イオアンは決定的な何かをしたわけでもなく、真っ当な理由をもって少しのお膳立てをしただけだ。
学院の卒業式に招かれていた兄王を指名した公務がやむなく入ったために、代わりに自分が出席することも、正当なことだった。
「俺はほんの少し、目に見えぬ程度のきっかけを作っただけだ。目に留まるかどうかもわからない、小さな小石をつま先で少し小突いただけ。そうしようと選び決め、実行したのは彼らだ。恋人以外の男たちと懇ろになり孕んだのも、王弟としての矜持を立場を忠義を、捨てたのは彼自身だからな」
「まぁ、うふふ。そうね、私もほんの少し、彼女の自尊心を満足させてあげただけ。彼女は清純を装っていたけれど、いつも目はギラギラとして、聖女である自分を褒め称えるように仕向けていたのだもの。貴女のような素晴らしい聖女なら、きっと見目も身分も良い方と結ばれるかもと、世間話をしただけだもの」
「本当に、愚かな女だ。自制心もなく、己の欲望で身を滅ぼして。あの女は、勝手に筆頭聖女などと嘯いていたな。ただの儀礼的な第6聖女でしかないのに、神の啓示を受けたなどと……あの時は笑いを堪えるのが大変だった」
「私も、あそこまで何も知らずにいただなんて思わなくて、他人事ながら彼女の未来を想像したら血の気が引いたもの」
本来聖女は5人と決まっているが、彼女たちの祈りを妨げないよう、儀礼的な場面で立ち回る第6の聖女がいる。今代の第6聖女がアリィシャで、聖女候補の中で一番力のない者が就くお飾りの肩書なのに、彼女は自分が力と容姿で優遇されていると、最後まで真実に気づいていなかった。
「教会の内部も相当、腐っていることがわかった。これを機に、陛下も教会への締め付けを行うしかなくなった。彼らはやはり自らの手で、自らの首を絞めただけだよ」
「ええ。陛下もまさかご自身が整えた婚約があんなことになって、顔に泥を塗られてあわや恥をかくところを、自分の息子が雪いでくれてほっとなさったでしょうね。本来ならとんでもない慰謝料を払わずに済んで、多少の汚名はあれ、国に損害なく、国民たちも喜んでくれたもの。誰もが幸せで、より良い未来につながったのだわ」
「そうだな。誰もが幸福を得た中で身を滅ぼしたのは、立場を弁えず欲をかいた者だけ。叔父上は優秀ではあられたが、官吏からの人望が薄いために情勢に疎く、何より己を律することができないお方だった」
「そうね……王弟殿下の唯一の欠点は、己を知らない愚かなところだった」
二人は想いを隠さずに、心のままに見つめ合う。
「愛しているよ、ウルスラ」
「私も愛しています、イオアン」
時が経ち、第二王子の婚姻式が済むと、彼らは広大な領地を賜り治め、国のために尽力した。
悲劇をものともせず、終生、互いを慈しみ、仲睦まじく過ごした大公夫妻は5人の子供に恵まれ、彼らもまた国のために尽力し、大公一族は多くの者たちに慕われ、良き主として後世まで讃えられたという。
いつも書いているものと少し違う雰囲気を目指してみました。楽しんで頂けましたら幸いです。
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