46.我が名の真相……妹も含めてです
車窓に流れていく風景が旅の終着を知らせてくる。
はぁ〜、と帰りは窓際に座るヤスオがため息を吐いた。
田舎の実家へ顔を出す、ただそれだけのこと……とすむ旅ではなかった。
失うものがあまりに多かった。
散々だった、と言えよう。
「なーに落ち込んでんだよ、ヤスオ」
帰りは正面に座る凪海がわかっているくせに知らないふりで訊いてくる。
「いろいろありますけど……やっぱりこの名前の真相ですよ。あそこまでいい加減な両親だとは。それ用の装備を整えながら思いも寄らない別の強敵と出くわしてしまったような、そんな意表を突かれる想いなのですよ」
言葉遣いに大仰な気配がある場合は、気持ちが入っている証拠だ。察せられれば斜め向かいに座る未亜が敢えての微笑みを向ける。
「でもやっちゃんのおじいさんおばあさんに気を遣っては間違いないと思うけどな」
うーむ、と素直に首肯していいものか悩むヤスオは唸る。
帰りがけに安田食堂で息子の名付け理由の真相を両親に問い質してみたらだ。
なぜか両親は自分の名前について語り出す。
「わかるか、一番最初に生まれたからって、イチと書いて『一』だぞ。だったら弟や妹たちも同じようならわかるが、ぜんぜんじゃないか」
父の『一』は六人兄弟である。ヤスオにとって、いずれも好い叔父や叔母だ。おかげで名前は誦じられる。和雄、義信、明美、真里に純哉とくる。確かにヤスオの父だけ雑だ。
「わたしなんて、『三子』よ。一人娘なのに、さんの子と書くとか、酷くない」
妙に若い娘の口調を意識したような母の三子の訴えである。理由は祖父母と長く暮らしたから聞いている。いずれ子供は三人を揃えたいとする意志を込めて付けたそうだ。いちおうこの件についてはヤスオだって訊いた際、それはちょっとと思った。母にちょっと同情はする。
だからと言って、だ。
そういうわけだ、と笑いながら話しをお終いにしようとする父に、はい、そうですかとはならない。
「つつつまり、自分がされたことを子供にもやってやろうという感じとしか取れないぞ」
「なにを言うんだ、家族で気持ちを共有だ、ヤスオ」
「あ、でもお母さんは、友達にからかわれて帰ってきた時は、ちょっとヤバいかもとは思ったわよ」
「でもその時、母さん、言ったぞ。響きはいいから付けたって。それを信じてたけど、じぃちゃんに、あれはそんな娘じゃないと言われて、そうなのかなと思ったら、やっぱりそうだったんじゃないか」
まぁ、と母の三子は驚いたように口へ手を当てた。
「お父さんたら、実の娘にその言い草はないわ」
「でもうららは、妹の名前はそれなりに考えて付けたみたいだって、じぃちゃん言ってた。だから、自分はいいとするよ」
いちおう百歩譲るとしたヤスオだ。もう自分は中年ど真ん中のいいおっさんだ。両親も元気いっぱいだからつい忘れるが、還暦は過ぎている。
ここは笑って誤魔化すだろうと信じていた。
父も母も押し黙っている。しかも気まずそうときている。
ヤスオもさることながら当人のうららのほうが驚きは大きい。
「なになにー、私の名前も適当なのー」
「適当などと何を言うんだ。ヤスオだって、取り敢えず別の候補だって用意していたんだ。どちらかというとな、父さんとしてはそっちに傾いていた時期もあった」
ぜひ教えなさい、と声にしなくてもヤスオとうららの圧は凄まじい。
父の一は仕方がないといった顔だ。初めて言うんだ、と前置きしてからだ。
「アトムだ。ちなみに片仮名だぞ」
うららは反応に迷っている感じだが、ヤスオはすぐにピンッときた。
「アトムの妹はウランだったと思うけど、まさか……」
「さすが、ヤスオだ。最初はウランにしようと思ったんだが、なんか危ないものみたいだし、ちょっと捻ってだな」
がばっとうららが椅子を鳴らして立ち上がった。
「ヤスオより適当じゃなーい」
夫の信二が止めなければ、つかみかかっていたに違いない。
実家へ旅行は最後の最後まで騒がしかった、碌なもんではなかった。
以上が、帰りの特急でヤスオが車窓へ映した記憶の数々である。
げんなりが思い切り外へ出ていたのであろう。
隣りに座る菜々が、はいっとチョコ菓子を差し出してくる。
ヤスオのお気に入りで少しは気分が上がる。
つまりその程度で治る機嫌であった。
チョコはブラックか抹茶ですよ〜、と喜ぶヤスオへ、オレはストロベリーだな、と凪海が応じているところへだった。
未亜が安田の両親が今は亡き祖父母に配慮して『ヤスオ』としたのだろうと口にした。
一と三子は駆け落ちで一緒になっている。ヤスオが生誕して数年後に和解となったが、出て行かれた際は祖母など寝込んだそうだ。祖父も強がってはいたものの、相当に落ち込んでいたみたいだ。
他家の長男である一が安田家の婿養子とする体裁を取ったほどである。孫の名前を安田姓に親和性を持たせた響きにするとした話しも嘘ではないだろう。
事情を鑑みれないことはないヤスオだが、それでも口を尖らせる。
「未亜さんの言うことは間違いないと思います。しかしながら適当とする部分もかなり大きいですよ、あれは絶対!」
「ま、まあね。そこはわたしも否定できない」
うなずくは未亜だけでなく、凪海と菜々も呼吸を合わせるように首を縦に落としていた。
お互いの動作を確認し合えば、四人の口許には笑みが溢れてくる。
ブラック珈琲のペットボトルを、ヤスオはぐいっとあおってからだ。
「子供の頃からずっと笑われているような気がして、すごく嫌になった時期もありましたけど、現在となればこれはこれでいいかと思えるようになってますよ。でもそれってたぶん……」
ちょっと言葉を置いた理由は少し照れ臭くなったせいだ。自分ごときが格好つけすぎな気がする。けれどここまで言っておきながら止められない。思い切って口にした。
「みなさんの、未亜さん、凪海さん、鮎川さんのおかげで、自分の名前はこれでいいかとなりました」
そっか、と未亜が微笑む。
呼びやすくていいと思うぜー、と凪海が組んだ両手を後頭部へ当てている。
菜々だけが不機嫌そうに眉根を寄せた。
「なんで私だけ苗字なんです」
いきなり予想外な抗議だった。しどろもどろながらでも応じなければならない。
「え、だってですよ。あだ名や名前で呼び合ってて、もし会社でぽろり出てしまったら大変じゃありませんか」
大変なの? と未亜が訊いてくれば、ヤスオはペットボトルを台へ置く。両手を握りしめる仕草をわざわざ取った。
「会社内なんて、ホント噂好きの寄り合いですよ。特に、恋愛! 誰が誰々さんとくっついたなんて話題は、楽しくてしょうがないといった感じでしてます」
そうなの? と未亜が今度は菜々へ向かう。
解答者は丸メガネのブリッジを押し上げながら答える。
「確かにおっしゃる通りです。会社の呑みの二次会以降は男女の関係性を怪しむ話題ばかりですからね。安田さんの観察力を見直しました」
「あああのぉ、二次会の様子は知りませんでした。なにせこれまで誘われても、本当は来て欲しくないんだろうなと思って、参加したことがなかったです」
なんとも言えない空気が支配するとなった。
やっちゃんらしいね、と未亜が切り出してからだ。
ヤスオだしな、と凪海が両手を頭に当てたままだ。
次は強制参加です、と菜々が笑ってくる。
「すみません。こんな自分で、ホントに」
頭が上がらないどころか垂れるしかない安田家のヤスオだ。
いいかな、と未亜の声がした。
安穏から緊迫へ変えるには充分なトーンだ。
ヤスオに凪海と菜々の視線を集めれば、胸に片手を当てている。
「わたしの、決心したことを聞いてくれる」
特急の走行音を耳にしつつ息を詰めた四人が囲む席上となった。