45.伝えられ……でも、勇気?
そびえる堤防を前にして見上げた星空は一生忘れないだろう。
ヤスオは仰いでいた顔をゆっくり未亜へ戻す。
「いいのですか、未亜さん、それで」
うん、と未亜が浮かべる笑顔は眩しい。
暗い景色に、ぽっと暖かい火が点ったみたいだ。
なにかとても言いたくなるヤスオだ。口下手な自身を忘れて、ここは何か伝えねば、と強く思う。
ただ残念とする運命はここでも発揮された。
へっくしょん! くしゃみが出た。思い切りして、ぶるぶる震えてしまう。
けれどもヤスオは未亜のために、何か言いたい。言わずにいられない。
だけど安い人生がそうは問屋を卸させない。
へっくしょん! ムードとは無縁なくしゃみが止まらずだった。
でも言うんだ、と諦める気にはなれない。
強い意志を持ったヤスオが、ここにいた。
けれども伝えたい相手の未亜が背中を軽く叩く。
「急いで帰らないと、やっちゃん、風邪ひくよ」
何がなんでもここで、とならないのがヤスオである。帰りの道すがらでいいか、と素直に首肯した。まだチャンスはある、と思った。
残念ながら旅荘に戻るまで、ずっとくしゃみが止まらなかった。
本当に体調が悪いのでは、と未亜に心配される始末である。
話しどころではない。
ヤスオにすれば何が腹立つと言えばである。
部屋に戻れば、くしゃみが治ったことだ。
肝心な際はいつもダメになる自分が恨めしい。
この悔しさは翌日に別の形で晴らそうとなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ついに帰る日となった。
最後は、と開店前の食堂で一同が揃う。ヤスオら客人側は遅い朝食であり、もてなす両親と妹夫婦にとっては早い昼食だ。地元の魚を使う、なかなか豪勢な料理が並ぶ。
食事を始める前に未亜と菜々、そして凪海が宿泊料を払いたいと申し出る。泊まるだけでなく飲食も付いて、タダでとはいかない。
ヤスオからすれば、無理を言ってきてもらった部分がある。来て欲しいとする自分の家族に押し切られた感は否めない。せめての利点は宿泊費がかからないくらいのものだ。気にしないよう、伝えかけた。
パンッと音を立てて父と母が両手を合わせた。
「どうか、どうか息子を捨てる際は未練が残らないよう手酷くしてやってくれ」
「どんな仕打ちをしても我々は恨みなんてしません。心置きなくヤスオを捨てて」
まだ一昨日の酔いが残っているのか。ちょちょちょっと、待てぇー! と叫ばずにいられないヤスオである。
ははは、と未亜と菜々は冷や汗を滴らせそうな当惑の笑みを浮かべた。
ヤスオの父ちゃん母ちゃんっておもしろいよなぁーが凪海の意見である。
「父親と母親がこんなネガティブだから、ヤスオもすぐ悪い方向へ考えたがるようなったんじゃないの。血筋よ、血筋」
安田家一員としてうららがする厳しい指摘に、妙にうなずく招待客の女性三人だった。
問題は当人である。
「遺伝的要素を全く否定する気はありませんが、やはり外的な要因が大きいと自分は思うですよ」
うわっと嫌な予感しかしない表情を一斉にする三人の女性陣に、うららも加わった。ヤスオのこの語り口は変なスイッチが入った場合だと経験則上でわかる。
お義兄さん、どうぞ、と信二がお茶を差し出した。
ありがとう、と受け取るヤスオがいつになく偉そうであれば間違いなさそうだ。
「自分は昨日、未亜さんに勇気の行動を見ました。だから思い切って両親に尋ねてみようと決心ができました」
父親と母親が顔を見合わせた。
尋ねる者は、うららだった。
「未亜のどんな行動だったかはまた後で聞くとして、ヤスオ! なに今さら父さん母さんに訊くことがあるの。下手すると、また恥ずかしい過去をバラされるわよ」
「ももももちろん、昔話につながるようなことじゃない。もっと根源的なものだよ」
すっかりヤスオは普段のか弱い感じへ戻ってしまう。やっぱり止めおこうかな、と考えたりもする。でもここまできて引けるはずもなく、未亜に勇気をもらったとぶち上げた手前だってある。
ぐいっと湯呑み茶碗をあおって思い切ったように口を開く。
「父さんと母さんにずっとずっと訊きたかったことがあります」
「ヤスオが小五の時に大事にしていた巨乳グラビアアイドルの雑誌、捨てたの母さんじゃないわよ。父さんだからね。まだ、早いって」
母親の証言を裏付けるようにである。
そんなこともあったなー、と父親は笑ってくる。
ヤスオーそんなガキの頃から発情かよー、とうららは嫌悪も露わだ。
「ちちち違いますよ、そんなこと、訊くつもりなんてないです。第一、あのアイドルは巨乳だから好きになったわけではないです。たまたま水着の写真があったから大事にしただけですよ」
悲痛なまでに訴えるヤスオだが、理解を得られるどころではない。
冷たい視線が、うららを加えた四人の女性陣から送られてくる。
大ピンチであった。
そこへ信二がヤスオの湯呑みへ急須を傾けた。
「お義兄さんはお義父さんやお義母さんに何を訊きたいんですか?」
義理だろうがなんだろうが善い弟だ、とヤスオは泣きそうになるくらい感激した。ならば頑張ると気持ちも入れば、やっと本題に入った。
「自分の名前は響きで決めた、とする親の言い分にもの申してきませんでした。しかしです。実はずっと納得いっていなかったのですよ。絶対に別の、悪意ある理由があると睨んできました。今日こそ、真実を語ってもらいたい」
悪意ですか、と信二がバカなとして笑い飛ばしかけていた。
義理の弟が飛ばせなかったのは、義理の両親が真面目な雰囲気を醸しだしたからだ。
睨み合うヤスオと両親の間に、まさしく火花が散る視殺戦が繰り広げられていた。
お客の女性三人と妹夫婦が固唾を飲んで見守っている。
ふぅーと息を吐く父親だ。母親も諦めたような顔を見せてくる。どうやら折れて話す気になったらしい。
さぁ、とヤスオにしては珍しく急かしている。
「父さんの名前は、一だ。最初に生まれた子供だからとして付けられた」
「お母さんなんて、三子よ、み・つ・こ。一人娘なのに、三と書いて、子供の子よ、わかる?」
ヤスオだけでなく他の誰もが事実の確認はできる。
何が言いたいかとする意味がさっぱりわからなかった。