42.地元へ凱旋……になるわけない
枕へ頭を乗せれば静寂が身に沁みた。
カーテンは引かず、夜景を広げる窓へヤスオは目を向ける。
暗くしたほうが眠れるタイプだ。今晩は開いている旅荘の二階を充てがわれた。
昨晩は酷い酔いから女性陣の部屋で潰れている。
どんな形であれ異性と同じ部屋で一晩を過ごした、とする感動はない。なにせ父親に母親まで一緒では人生初カウントとなどしたくない。自分がいない間にどんな話しをしたかわからないが、今となればである。
両親はずいぶんご機嫌だった。あそこまで酔っ払う姿は見たことがない。
未亜と凪海に菜々は、いったい自分をどんなふうに語り聞かせたのだろう。
聞き出すチャンスはあった。
安田食堂でヤスオら四人で遅い昼食をしている最中である。
とことこ仕事中のうららが近寄ってきた。
「ヤスオ、魚昌の大将が今晩どうだって。いけそう?」
「自分は問題ないけど……」
答えつつ同じテーブルに着く三人を見渡す。うち二人はようやく酔いから醒めたばかりだ。さすがに今晩はお酒なんて勘弁だろう、と思いきやである。
いきましょう、と一番ひどい二日酔いだったはずの菜々がまず挙げた。
「そこは昨日、うららさんの旦那さんが行っていたお店ですか」
未亜から質問されれば、うららは仕事そっちのけで説明した。信二はお義兄さんをバカにした地元の友人ともめたのだ。
「いきましょう。いーえ、行かせてください、その店へ」
背中から炎を立たせていそうな未亜が対面にいた。ディフェンダーをコケにされてアタッカーの熱い気質が騒いだか。とはいえ、ヤスオの立場からすればである。
「別にお疲れの未亜さんたちが無理して行く必要は感じません。信二くんのお詫びを兼ねて、ちょっと顔出しすればいいだけの話しです」
「いーんや、やっちゃん。そこ、地元の人たちが集まる場所なんでしょ。ならば安田家の長男は女三人連れで凄くなってんだぞぉーの評判を立ててやろうよ」
どこから見ても未亜が燃えている。
ヤスオにすれば腰が引いてしまうほどだ。
「い、いえ……そんな……自分なんかに、そこまで……気にしたことはありませんし」
バカにされるなど子供の時分からされ続けていて慣れっこだ。しかも地元に限った話しではない。
「んじゃ、いっちょかましてやるか。都会に出たヤスオは女で変わったところをな」
隣りに座る凪海の言い分は、ヤスオにはからかわれているようにしか聞こえない。
「まままたー、電車でたかだか二時間程度で行ける場所で変わるもなにもないですよ。それより自分はもう二度と故郷へ帰ってこられなくなるような噂が流れないか、心配になります」
ポコンッとお盆で頭を叩かれるヤスオだ。
「あのさ、せっかく三人がヤスオのために行ってくれるって言っているんだから、有り難く思うところでしょ。それにこっちに居た時から碌でもない噂しかなかったくせに、今更なに帰ってこられなくなるような評判が立つって言うのよ」
うららの叱責には多少思う部分はあるものの、「確かに」とヤスオは答えた。
こうして夜は古くから知る地元のおじさんが経営する居酒屋へ出向く次第となった。
昨夜の謝罪もしたいとする信二の運転で店まで乗り付けた。
昨日の今日だからお酒はほどほどに、と思っていた。
だが店内に入るなりだ。
菜々が感激の声を挙げている。どうやらカウンター内にずっと呑んでみたかった日本酒の銘柄を目にしたようだ。これで痛飲へまっしぐらが決まった。
菜々の呑みが進めば、まず凪海へ絡みつく。なんとなく元気がなさそうだったから昨夜は許したが、今晩は付き合えというノリだ。お酒の無理強いはアルハラへ当たるとヤスオは止めに入る。が、凪海は了解しただけでなく「オレについてこられますかね」と挑発さえする始末だ。
昨晩、自分がいない間に三人が両親へなんて答えたか、ヤスオは折を見て訊きたい。そんな思惑を吹っ飛ばす連れの呑みっぷりへなっていく。
おかげで顔を知る地元のお客が入ってきたら大変となった。
挨拶するヤスオが女性に囲まれている状況に驚きを隠せない。
ヤスオを馬鹿にしてきた同年代くらいの客は気まずそうに距離を取ってくる。
気安い年配客、つまり父親と同年代のお客は感激して話しかけてくる。
漁船に乗せたらビビっておしっこで甲板を汚されたなど、ヤスオの恥ずかしい過去をあっさり曝け出す。あのお漏らしのヤスオくんがなぁ〜、と遠い目をして語られる。
同席者に聞き出すどころではない。やややややめてくださいー、とヤスオは泣きついた。
昔から自分を知る人には太刀打ちできない。
酔えないほど恥ずかしいヤスオに対し、同席している三人のうち二人は酩酊へ突き進んでいた。
「お漏らしのヤスオかぁー、今度からそう呼ぼ」
昨夜と打って変わってグラスを離さない凪海が、とんでもないことを口走ってくる。
そそそそれだけはーやめてくださいよー! とあちこちへヤスオは哀願した。昨夜について訊き出したいとする目論みなど実行する以前である。しかもこれで終わりとならない。
「いーじゃねーか。いくらヤスオがお漏らししていようが、女と一緒の家に住むほど立派になったんだぜ」
嘘ではないが誤解も招く説明不足の実情を店内に響かせる。
おおぅー、とカウンターの大将を始め、ヤスオを知る他の客まで唸る。
ヤスオくん、やるなぁー、と会話の契機となった年配客は妙に嬉しそうだったりする。
ここはきちんと説明しよう、自分は今も現在も安い人生を歩んでいる、と説明すべくヤスオが口を開きかけたらだ。
そうなんですよー、と頬とおでこが真っ赤っかな菜々がぶち上げてくる。
「わたひなんてぇー、週末の通い妻状態なんですよぉ〜。安田ヤスオにうまくやられてますぅ〜」
ちょちょちょちょっと鮎川さん、と止めに入ったヤスオへ向かってである。
「未亜ちゃんや凪海さんは名前で呼ぶくせに、わたひだけ苗字でさ。やっぱり同棲くらいしないと、名前で呼んでくれないのかしら」
これは波紋を広げた。
「えっ、なに、ヤスオくん。同棲相手は二人なの?」
カウンター越しに魚昌の大将が驚き訊いてくる。
そうそう、と凪海が未亜の肩を組んだ。返事と体勢をもって肯定を示した。
「加えて他の女も通わせているなんて……さすがにおじさんもちょっと感心しないなぁ〜」
お漏らしをバラした年配客の意見である。
想像だにしなかった方向でヤスオの悪い噂が立ちそうになっていた。
このままでは本当に故郷へ帰れなくなりそうではないか。
全てとは言わない、解けるだけ解こうと頑張ってしゃべった。昨日に劣らず、いやそれ以上に大変な居酒屋ですごす時間となった。
旅荘へ戻り床へ着けば、思い出すだけで、ぐったりしてしまう。
疲れすぎか、興奮がまだ醒めないのか。寝つきもよくなかった。
やっぱり暗くしようとヤスオは布団から出て窓際へ寄る。
カーテンの端をつかんだその時、眼下に認めた。
間違いなく未亜が海ある方角へ歩んでいる。
なんだか得体の知れない胸騒ぎを覚えてしまう。
慌ててヤスオはハンガーの上着を引っ掴んだ。