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35.お兄さんは……と、義弟が語る

 まさに地元の呑み処といった風情の店だ。

 のれんを潜り、「安田です」と挨拶しながら店のドアを引く。

 予想と違って店内は何かあったようには見えない。カウンターに居並ぶ椅子も、二つしかないテーブル席も整然な佇まいにある。


「おっ、ヤスオくん、久しぶり。すっかり大人っぽくなったね」


 カウンター越しにマスターが明るくかけてくる。昔から知るおじさんはすっかり白髪になっていたが、厨房に店先とまだまだ立ち続けられそうだ。商売柄か、声をかけられたら逃げ出す子供だったヤスオにもずっと気さく接してくれた。ヤスオにとって数少ない昔からよく知る人物の一人『大将』だった。


 ただし、である。もう四十になろうかという相手に、大人っぽくはないだろう。両親と同じで、いつまでも子供としか見えないか。はたまたヤスオの見た目が貧弱すぎるせいか。加えて、もういい歳ですよと気を利かせた返事もできず、「すみません」と謝っていれば、我ながらが情けない。


 自身にかまけている場合ではなかった。


 ちょうど奥のトイレから出てくる信二(しんじ)がいた。

 大丈夫かい、とヤスオがかけたら、頭を下げられた。


「すみません、お義兄さん。ご迷惑をおかけしてしまって」


 まだ謝罪の言葉が続きそうだったが、ドアを開けてお客さんが入ってきた。

 ともかく行こうか、とヤスオは促しては大将に挨拶を投げた。こっちにいる間に一度、とする声に曖昧な返事をして店を出る。主に母親とうららがお買い物用に使用しているコンパクトカーへ乗り込んだ。


 乗車して少し落ち着けば、信二の左頬がわずかながら腫れていることに気づいた。冷やしたタオルをもらってこようか、と車から出かけたら止められた。


「大丈夫です、これくらい。それよりお義兄さん、すみませんでした」

「いいよ、これくらい。あの親だと暴走に備えて呑めやしないし。もう酔っぱらい方がひどいんだ。だから自分が来るのは当然さ」

「いえ、あの迎えに来てもらったこともそうなんですけど……俺が安田家に入り込んだことです」


 信二くんも少し酔っ払っているようであれば、ヤスオは後部座席の床へ手を伸ばす。いちおう用意してきた水のペットボトルを差し出した。ありがとうございます、と受け取って飲んでいる間に、エンジンを始動させる。口を離したところで発進させれば、さっそく訊いた。


「でででさ、信二くんがうちに入り込んだって、どういうこと?」

「俺がお義兄さんの立場を奪ったということです」


 んんん? とヤスオはハンドルを握るまま謎のあまりに眉根が寄る。


「なにを言っているんだい? 信二くんがいなければ我が家は崩壊だよ」


 冗談ではなく真実を語っているつもりだが、義弟は気遣いと解釈したらしい。


「でも俺がいなければお義兄さんがうららと一緒に、あの食堂と旅館をやっていたはずです」


 いやいやいやいや! とヤスオは心底からの否定を挙げた。


「むりむりむり、絶対に自分なんか接客はムリだよー。あそこが続くとしたら、うららとその旦那が、て自分は昔から決めていたし。信二くんがいなければ、未来はないのですよ」

「出来るかもしれません、お義兄さんなら、と俺は思うようになりました」

「どどどどうして、急にそんなふうに考えられるようなったの?」


 今度の質問には、しばしの沈黙が挟まれた。


 ようやくもたらされてきた答えは、ぽつりといった感じで車内に響く。


「うららが……泣くんですよ」


 道路照明灯だけの暗い道を車で走りながら、ヤスオは思い至った。どうして信二が迎えに、うららの同行を拒否したか。自分へ話したい本題がこれから始まるようだ。うららも泣くんだ、と先が続けられるよう言葉を投げたらである。


「子供ができなくて、ごめんって。俺のせいだってあるのに」


 不妊治療していることは両親から聞いている。無理はしなくても、と話している。

 けれども当人の間ではそう簡単に結論づけられないらしい。


「子供ができないなら、俺がいる必要なんてないと思うんです。あの家は、お義兄さんとうららでいいじゃないですか」

「いやぁ〜自分が思うに、子供がいないならなおさら信二くんじゃなければダメだと思うよ」


 ヤスオの言葉はまったくの予想外だったらしい。

 えっ! と挙げて信二は絶句している。

 ならば、とアクセルを踏みながら続けた。


「だって、うららって信二くんの前なら泣くんだよね。自分は妹の涙なんて、赤ん坊の頃しか知らないよ。たぶん親にも見せていないと思うんだけど、どうかな?」


 それは……、と信二はまだ動揺したままだ。


「うららって情けないお兄ちゃんのために気張るしかなかったみたいでさ。今、信二くんから聞いて、本当にそう思った。やっぱり弱音を見せられるの、旦那しかいないんだよ。ますます妹とあの家をお願いしますとしか、言えないよ」 

「そ、そんな俺なんか……こうして頑張れているのはうららのおかげだし」


 その辺りの経緯はうららから聞いた話しで、大体の推察は付いている。

 Jリーガーとして嘱望され、地元上げての期待を一身に受けていた。ところが負傷してからは思うように活躍が出来なくなるのと並行して、私生活も荒れていく。チームから解雇されるほどのスキャンダルを起こせば、帰ってきても居場所がないような地元の空気だ。実家の漁師も兄が引き継いでいる。


 うららと交際から結婚まで至る詳細な経緯は知らない。ただ妹が引っ張り上げたような気はする。お兄ちゃん相手に鍛え上げてきた、ダメな男に対する取り扱いの巧みさが発揮されたとヤスオは睨んでいる。

 けれども夫婦として共に過ごすうちに生まれた変化もあるだろう。

 なんだか素敵だと思えば、口にさずにはいられない。


「信二くんに、なんか感動させてもらえたよ」


 表現としては弱いだけでなく、笑いまで誘う物言いだったと気づくまで時間はかからない。

 そ、そうですか、とする信二の声は可笑しそうで、ヤスオに反省が生まれる。もうちょっとマシな言い方すれば良かったな、と胸のうちでの弁である。


 実家である食堂兼旅荘の灯りが窺えた。


 ヤスオが連れてきた客人及び乱入した両親と妹のいる部屋の窓は皓々としている。まだ宴は続いているのか、もしくは電気を点けたまま潰れているのかもしれない。


 玄関近くの駐車場へ車を進入させている際に、助手席の信二が困ったように頭をかきだした。


「来るなと言ったこと、うらら、怒っているだろうな」

「怒っているだろうね。でもそれが、うららだから」


 下手なフォローはしないヤスオの判断は賢明だった。

 そうですよね、と信二もかく手を降ろして苦笑している。覚悟を決めたようだ。


 車から出た直後にヤスオは思い知らされる。


 自分は妹のことを本当に解っていなかった。

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